Natrium.jp
妙正寺川・井草川の水路敷群(江古田川周辺の水路敷)その2
←前のページ
突き当たったら右
またもや突き当たったら右へ曲がって目白通りへ。道路右側の幅広い路肩は、歩道橋に向かっているあたりが水路敷なのだろうと思われる。
欄干
歩道橋の下に欄干と思われるものを発見。
江原観音堂
目白通りを渡り、東福寺江原町別院となっている江原観音堂の北側にある幅広い道路を進んでいく。
作りかけ
さらに幅の広い道路に出た。この道路は区界でぶっつりと切れており、千川通りまでつながっていない。
練馬区へ
江古田分水は区界を越え、練馬区側から流れてきていたと思われる。
千川通り
千川通りに出たところで、江古田分水の上流端ということになる。
小祠
千川通りの北側にあった小祠。写真ではよくわからないが地蔵尊が祀られているようだ。
穴守稲荷神社
そのすぐ西側の路地に穴守稲荷神社がある。神社というよりは民家に鳥居をつけたように見えなくもない。
鳥居
千川通り沿いにも穴守稲荷神社の鳥居が置かれている。
東福寺
出発点の東橋から西へ進んだところにあるのが真言宗豊山派の東福寺。八大将軍徳川吉宗が鷹狩りの際立ち寄ったと言う御膳所の跡が残されている。三代将軍徳川家光もここで休息を取ったという。
氷川神社
さらに西に進んで台地の上に鎮座しているのが江古田氷川神社。寛正元年(1460年)創建と伝わる。
神楽殿
境内にある神楽殿は江戸時代の建造で、弘化4年(1847年)建立という。もとは本殿として使われていたそうだ。
地図その3
ここからは、江古田川が最も北側に迂回している江古田の森公園の周りにある支流を見ていく。なかの便利地図上では、千川通りから導水している2本の分水である東側の濯(すすぎ)川または北新井分と、西側の下新街分または弁天分水(桜台分水とも)があり、さらに西側にも支流が見える。
江古田の森
江古田の森公園は、江古田川が北に大きく迂回しているところに半島上に張り出した台地の縁に作られている。江戸時代には鷹狩りに使われていた場所だったそうだ。大正時代に結核療養所が建てられ、現在も複数の医療施設が置かれている。
ここからの写真は2020/2/29撮影。
排水口
江古田の森北端にある北江古田橋のたもとに口を開けている排水口。ここから濯川を辿っていく。
濯川という名前がついているが実際には千川上水の分水であって、江戸時代からあった用水路を分水口に位置する武蔵高校が出来た後に命名したものだという。
水路敷
排水口の上にはわかりやすい水路敷が残っていた。
狭広狭
道幅が狭くなったり広くなったりを繰り返しながら、目白通りへ北上していく。

by Natrium