ねりまっぷで
中新井川と中村用水を俯瞰した地図。中野区では江古田川と呼ばれていた川は、上流の練馬区では中新井川と呼ばれている。
中新井は豊玉地区の旧村名で、
ねりまの地名今むかし 現町名16<豊玉 とよたま>によれば西側の「中」村が中世に新たに開墾した土地で「アライ」と呼んでいたのが、江戸時代には「中荒井」または「中新居」、明治時代には「中新井」で定着したらしい。
今回は、中新井川と、そこに千川上水から水を引いていた中村用水を見て行こう。
下徳殿橋から下流の江古田川方向を見る。下流方向は改修済みの川道で、中野区内ではよく見る川底に細い流路が作られた形になっている。
ここからの写真は2020/3/11撮影。
上流側は練馬区の管理で、中新井川緑道という名前の遊歩道になっている。
次のブロックでは遊歩道はなくなり中央の緑地帯となっている。写真中央に見えるように、川筋が練馬区と中野区の区境になっており、左側の道路は中野区側になっているようだ。
練馬区が設置した看板の裏側(緑地帯側)には、ここが中新井川であることが明記されている。あえてこういう風に書かねばならないあたり、かつての状態が想像されるが、現在の緑道はきれいに整備されている。
緑道がもっとも南側に来たあたりにある徳殿公園。徳殿というのはこの辺りの小名(字)で、
練馬の地名 今むかし(豊玉)によれば、年貢を免れて得した田んぼがあったので「得田」が「徳田」となって、中荒井村(中新井村)の小名としては「徳殿」となっていたのだという。
ところで、現在砲弾歩道は緑道を避けて描かれているのだが、その手前(写真左)にあるガードレールで封鎖された空間はもともと歩道として設計されていたのではないだろうか。
緑道の中央にそびえ立つ満開の桜。
桜の木の北側には、支流と思われる水路敷が流れ込んできている。先にこちらを見てみることにしよう。
水路敷は豊玉中学校に阻まれていったん痕跡を失っている。
豊玉中北側では、ゆるやかにカーブした道路になっている。
コジマの北側に回り込んで環七通りにぶつかったあたりが上流端だったようだ。
環七通りの下では、水害に備えた大規模な地下調整池の建設が進んでいる。環八通りと目白通りの交差点にある石神井川立坑と、野方駅南にある妙正寺川立坑を結ぶ全長5.4kmのトンネルを作り、西側の白子川調整池と、南側の神田川調整池を結ぶらしい。
中新井川に戻る途中にある豊玉氷川神社。この地に最初に勧請されたのは北野神社だそうだが、その後須賀神社が作られ、現在は氷川神社が主神となっているという。境内にあった古木から鎌倉時代には開かれていたのではと推定されている。
隣接する正覚院は太田道灌が江戸城を築城していた長禄年間(1547〜60年)に天満宮(現在の氷川神社)の別当寺として創建したと伝わる。
再び中新井川緑道へ戻り、豊玉南小の脇を進んでいく。
緑道は環七通りを跨いで西側にも続いている。
環七通りを渡る歩道橋から西側の緑道を見たところ。