Natrium.jp
南武線・川崎〜矢向

OpenStreetMapでJR南武線の川崎駅から矢向駅までを見る。
南武線は昭和2年(1927年)に川崎〜登戸間を開業した南武鉄道を前身とした元私鉄路線で、本線である南武線のほかに旅客営業もしている浜川崎支線や尻手駅と品鶴線(貨物線)の新鶴見信号所へ向かう貨物線用線の尻手短絡線が現存している。
南武鉄道は昭和15年(1940年)に立川から武蔵五日市・武蔵岩井を結ぶ五日市鉄道(現在の五日市線、武蔵岩井へ行く支線は1971年に武蔵岩井駅と旅客営業が廃止されたのち、1982年に大久野までの貨物線も廃止)を合併したのち、昭和18年(1943年)に青梅電気鉄道(現在の青梅線)、奥多摩電気鉄道(御嶽〜氷川間の免許を保有)と合併することが決定したが、実際に合併することなく翌年に戦時買収私鉄として指定され国有化された。
元が私鉄であったこともあって踏切が多い路線として知られており、国立国会図書館デジタルコレクション所蔵の「日本の鉄道 第6」(毎日新聞社, 1963)によれば当時の国鉄が踏切として扱っているものが143ヶ所もあったという。
現在、南武線で番号が付けられている踏切はNo.1の柳町踏切からNo.90の錦町踏切まであるが、欠番となっているNo.15、16、高架化で廃止されたNo.48〜62、個別に廃止されたNo.65、66、68を除くと70ヶ所残っている。
国土地理院Webサイトの空中写真や古い地形図、川崎市立中原図書館所蔵の明細地図、全国Q地図の東京都1/3000地図などを参考に番号のない踏切も含め探索していくが、おそらく余すところなく網羅することは難しいだろう。
今回は、始発駅の川崎から出発して矢向駅まで、加えて尻手短絡線と矢向から川崎河岸まで伸びていた廃止済みの貨物支線(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵の「川崎市史 通史編4下」P77の記載によれば川崎河岸駅船入線、同所蔵の「南武線物語」では六郷支線と呼ばれたとある)も含めて見ていこう。浜川崎支線は機会を改めて訪問することにしたい。
南武線は昭和2年(1927年)に川崎〜登戸間を開業した南武鉄道を前身とした元私鉄路線で、本線である南武線のほかに旅客営業もしている浜川崎支線や尻手駅と品鶴線(貨物線)の新鶴見信号所へ向かう貨物線用線の尻手短絡線が現存している。
南武鉄道は昭和15年(1940年)に立川から武蔵五日市・武蔵岩井を結ぶ五日市鉄道(現在の五日市線、武蔵岩井へ行く支線は1971年に武蔵岩井駅と旅客営業が廃止されたのち、1982年に大久野までの貨物線も廃止)を合併したのち、昭和18年(1943年)に青梅電気鉄道(現在の青梅線)、奥多摩電気鉄道(御嶽〜氷川間の免許を保有)と合併することが決定したが、実際に合併することなく翌年に戦時買収私鉄として指定され国有化された。
元が私鉄であったこともあって踏切が多い路線として知られており、国立国会図書館デジタルコレクション所蔵の「日本の鉄道 第6」(毎日新聞社, 1963)によれば当時の国鉄が踏切として扱っているものが143ヶ所もあったという。
現在、南武線で番号が付けられている踏切はNo.1の柳町踏切からNo.90の錦町踏切まであるが、欠番となっているNo.15、16、高架化で廃止されたNo.48〜62、個別に廃止されたNo.65、66、68を除くと70ヶ所残っている。
国土地理院Webサイトの空中写真や古い地形図、川崎市立中原図書館所蔵の明細地図、全国Q地図の東京都1/3000地図などを参考に番号のない踏切も含め探索していくが、おそらく余すところなく網羅することは難しいだろう。
今回は、始発駅の川崎から出発して矢向駅まで、加えて尻手短絡線と矢向から川崎河岸まで伸びていた廃止済みの貨物支線(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵の「川崎市史 通史編4下」P77の記載によれば川崎河岸駅船入線、同所蔵の「南武線物語」では六郷支線と呼ばれたとある)も含めて見ていこう。浜川崎支線は機会を改めて訪問することにしたい。

川崎駅の南武線ホーム(5番線)から蒲田方向を見たところ。南武線は行き止まりになっていて隣の京浜東北線とは接続していないように見えるが、草むらの向こうに線路が続いていて京浜東北線への渡り線がある。
同所蔵の「南武線物語」(五味洋治/多摩川新聞社, 1991)によれば南武線川崎駅の予定地は東京電気(現東芝)の所有地で、国鉄との連絡が不便になるとした難色を示されたことから現在のホーム西端付近に駅を設置したという。
ここからの写真は2025/11/30撮影。
同所蔵の「南武線物語」(五味洋治/多摩川新聞社, 1991)によれば南武線川崎駅の予定地は東京電気(現東芝)の所有地で、国鉄との連絡が不便になるとした難色を示されたことから現在のホーム西端付近に駅を設置したという。
ここからの写真は2025/11/30撮影。

川崎駅西口のデッキから駅南端の跨線橋を見たところ。
駅は平成30年(2018年)までに大規模なリニューアルが行われているのだが、一部に古レールを使ったこの跨線橋だけは昭和の姿で残されている。
駅は平成30年(2018年)までに大規模なリニューアルが行われているのだが、一部に古レールを使ったこの跨線橋だけは昭和の姿で残されている。

南武線が川崎駅を出て最初の踏切(踏切番号No.1)となる柳町踏切を川崎駅方向に見たところ。
写真手前には東海道線の矢向踏切があるが、こちらは南武線を渡っていない。
写真手前には東海道線の矢向踏切があるが、こちらは南武線を渡っていない。

南武線の南側を並走する尻手通りから南武線越しに東京電力パワーグリッドの川崎変電所が垣間見える。

その左側に建つマンション。国土地理院Webサイトで昭和5年旧1万地形図(鶴見)を見るとこのあたりに線路向こう側にあった群馬電力変電所に入るための踏切があったように描かれている。
群馬電力は東京電力の前身の一つで、京浜電気鉄道(元京急電鉄)などに電力を供給していたが、大正14年(1925年)には早川電力と合併して東京電力になっており、昭和5年にはすでに東京電力の変電所になっていたと思われる。
同サイドの昭和35年2.5万地形図(川崎)までは踏切が残っているのだが、その後は地図から消えるので昭和30年代に廃止されたのではないかと思われる。
群馬電力は東京電力の前身の一つで、京浜電気鉄道(元京急電鉄)などに電力を供給していたが、大正14年(1925年)には早川電力と合併して東京電力になっており、昭和5年にはすでに東京電力の変電所になっていたと思われる。
同サイドの昭和35年2.5万地形図(川崎)までは踏切が残っているのだが、その後は地図から消えるので昭和30年代に廃止されたのではないかと思われる。

浜川崎支線(管理上の名称は尻手支線)の下をくぐる尻手通りガードを西側(写真手前は横浜市鶴見区)から見たところ。写真右奥にはもうひとつ新市場用水開きょ架道橋というガードがある。

ガードの近くに小さな祠があった。

祠から北を見ると、公園の脇で道路が南武線の高架(南幸町第三高架橋)にぶつかって左に折れる。昭和5年の地図ではここに踏切が描かれている。
南武線は戦後の第二京浜国道開通に伴って尻手駅まで高架化されているが、それ以前は踏切だったのだろう。
南武線は戦後の第二京浜国道開通に伴って尻手駅まで高架化されているが、それ以前は踏切だったのだろう。

南武線(奥)と浜川崎支線の貨物線(手前)が第二京浜を渡る京浜第2国道ガード。
(2025/12/3訂正追記)「南武線物語」によれば昭和20年代まではここに踏切があったそうだ。吉田茂首相が開かない踏切に怒って高架化されたという伝説があるそうだが、戦前から高架化工事は進んでいたという。
(2025/12/3訂正追記)「南武線物語」によれば昭和20年代まではここに踏切があったそうだ。吉田茂首相が開かない踏切に怒って高架化されたという伝説があるそうだが、戦前から高架化工事は進んでいたという。

ガードをくぐって川崎市幸区となり、尻手駅入口交差点から駅に向かう路地に入ったところにある小さな児童遊園。昭和5年の地図ではその奥に踏切があった。

尻手(しって)駅はホームが高架上にあるが、駅舎は東側の地上にある。尻手は鶴見区の地名なのだが、駅舎は川崎市幸区南幸町にある。

尻手駅の上りホームは駅北側を通る西口通り(川崎駅西口の意味)の南幸町ガード上にある。
尻手駅から北側の踏切はいきなり尻手第三踏切から始まるので、おそらくはここが尻手第一踏切だったのだろう。
浜川崎支線は西側にある3番線から発着している。
尻手駅から北側の踏切はいきなり尻手第三踏切から始まるので、おそらくはここが尻手第一踏切だったのだろう。
浜川崎支線は西側にある3番線から発着している。

南武線の西側から昭和5年地図で踏切として描かれている場所を見たところ。線路に対して斜めに横断する形になっているここが尻手第二踏切ではないだろうか。

そこからすぐ北側。日枝神社の裏にもうひとつ踏切跡と思われる場所がある。東側から見ると未舗装路が残っているのだが、西側は舗装路が線路に突き当たっている。

踏切跡の西側にある日枝神社。寛永15年(1638年)に滋賀県大津市の日吉神社(日吉大社)を勧請して山王大権現と称していたが、明治6年(1873年)に矢向村の村社となり日枝神社と改称したという。

日枝神社から北に向かったところにあるのが尻手第三踏切。現在の踏切番号としてはNo.2となっている。

尻手第三踏切から北隣の日枝踏切を見る。踏切手前で左に尻手短絡線が分かれていく。

なぜか尻手第三踏切よりも日枝神社からは離れた位置にある日枝(ひえ)踏切(踏切番号No.3)。南武線本線と分かれていく尻手短絡線もまとめて渡っている。

ここで尻手短絡線の方に寄り道してみよう。
日枝踏切のすぐ北側に車両通行禁止の最厳寺(さいがんじ)踏切がある。尻手短絡線の踏切番号は本線とは逆に新鶴見信号所側から振られているので、ここがNo.6となっている。
日枝踏切のすぐ北側に車両通行禁止の最厳寺(さいがんじ)踏切がある。尻手短絡線の踏切番号は本線とは逆に新鶴見信号所側から振られているので、ここがNo.6となっている。

ちなみに踏切名の由来になったと思われる浄土真宗本願寺派の最願寺(さいがんじ)は日枝神社よりも少し南にあるのだが、なぜか「がん」の字が踏切と異なっている。
延慶元年(1308年)の開基と伝わるから日枝神社よりもかなり古くからここにある。
延慶元年(1308年)の開基と伝わるから日枝神社よりもかなり古くからここにある。

次は矢向第五踏切(尻手短絡線踏切番号No.5)。ややこしいが南武線の本線には、日枝神社の北に矢向第一、矢向駅南側に矢向第二踏切があり、尻手短絡線に新鶴見信号所寄りから第三、第四、第五踏切がある。

矢向第五踏切のあたりでは尻手短絡線はやや西向きになっているのだが、その一つ西側に線路南北に突き当たる道がある。

国土地理院Webサイトの昭和22年空中写真(米軍撮影)。
尻手短絡線が開通したのは昭和26年(1951年)でこのときはまだ建設中だが、すでに路盤は出来上がっている。
一番西側にある江ヶ崎踏切と二ヶ領踏切の間にある道路は路盤で断ち切られているように見えるが、矢向第三と第四の間、矢向第四と第五の間にある道路はそのまま路盤を南北に横断しているように見える。正式に踏切として扱われていなかった可能性はありそうだ。
尻手短絡線が開通したのは昭和26年(1951年)でこのときはまだ建設中だが、すでに路盤は出来上がっている。
一番西側にある江ヶ崎踏切と二ヶ領踏切の間にある道路は路盤で断ち切られているように見えるが、矢向第三と第四の間、矢向第四と第五の間にある道路はそのまま路盤を南北に横断しているように見える。正式に踏切として扱われていなかった可能性はありそうだ。

次の矢向第四踏切(尻手短絡線踏切番号No.4)。

ところで、JR東日本の踏切には踏切脇の月形柵(本来は月の字の形をしているのでそう呼ばれるが、写真では日に見える)と非常ボタン標に踏切名が書かれている(非常ボタン標には踏切番号も記載)のだが、なぜか矢向第三から第五踏切では月形柵の方は洋数字、非常ボタン標は漢数字になっている。

矢向第四踏切西側にある突き当たりの道路。いかにも廃踏切っぽさはあるがどうだろう。

矢向第三踏切(尻手短絡線踏切番号No.3)はこれまでの踏切寄りもやや道路幅が広い感じ。

次の二ヶ領踏切(尻手短絡線踏切番号No.2)は片側一車線の大きな踏切。実は南武線の本線にももう一つ同じ二ヶ領踏切がある(久地駅から宿河原駅に向かって二ヶ領用水を渡ったところにある)。どちらも南武線と並行して川崎を縦断している二ヶ領用水に由来している。
写真奥の街路樹手前に西に向かって踏切跡があったようだが、現在は廃道になってしまっていて痕跡は残っていない。
写真奥の街路樹手前に西に向かって踏切跡があったようだが、現在は廃道になってしまっていて痕跡は残っていない。

尻手短絡線は二ヶ領踏切の先で北へカーブして品鶴線に合流するが、合流する手前にあるのが江ヶ崎踏切(尻手短絡線踏切番号No.1)。
写真右上を通っているのは横須賀線用の増設された線路だ。
写真右上を通っているのは横須賀線用の増設された線路だ。

南武線本線に戻って矢向駅を目指す。矢向第一踏切(南武線踏切番号No.4)は矢向駅南側に伸びる留置線の端にある。写真左には停泊中の車両先頭が見える。
現在は写真左奥は矢向第二住宅と横浜市矢向地区センターになっているが、そこも含めここには昭和35年(1960年)まで矢向電車区の車庫があった。
現在は写真左奥は矢向第二住宅と横浜市矢向地区センターになっているが、そこも含めここには昭和35年(1960年)まで矢向電車区の車庫があった。

矢向駅南側を斜めに渡る矢向第二踏切(踏切番号No.5)。写真右側には歩道橋があるが、あまり使用している人はいないようだ。

歩道橋に上って北側の矢向駅を見たところ。駅東側にも留置線がある。
この駅の跨線橋もなかなかの時代もののように見える。
この駅の跨線橋もなかなかの時代もののように見える。

踏切西側に渡って南側の留置線方向を見る。かつて留置線の左側には、貨物駅である川崎河岸(かわさきかし)駅へ向かう支線があって東にカーブしていた。
最後にその跡を見に行ってみよう。
最後にその跡を見に行ってみよう。

国土地理院Webサイトから昭和22年空中写真(米軍撮影)。
矢向駅から東へ伸びる貨物支線には多数の踏切があったように見える。また、現在の川崎幸市場へ向かう引込線にも踏切があった。
この貨物支線と川崎河岸駅は昭和2年(1927年)南武線本線と同時に開業したが、昭和47年(1972年)に廃止された。
(参考:「鉄道要覧:国鉄統計ダイジェスト 昭和52年版」)
矢向駅から東へ伸びる貨物支線には多数の踏切があったように見える。また、現在の川崎幸市場へ向かう引込線にも踏切があった。
この貨物支線と川崎河岸駅は昭和2年(1927年)南武線本線と同時に開業したが、昭和47年(1972年)に廃止された。
(参考:「鉄道要覧:国鉄統計ダイジェスト 昭和52年版」)

日枝踏切から北に向かう道路を進んでいったところで西側に矢向地区センターの入口があるが、その道路がおそらくは貨物支線の路盤跡と思われる。したがって、写真手前部分が踏切跡であったはずだ。
東側は線路跡に沿った土地割が空中写真では見られるのだが、それとわかる線路跡はない。以前は東側に木製の柵が残っていたそうだが、現在は残っていない。
東側は線路跡に沿った土地割が空中写真では見られるのだが、それとわかる線路跡はない。以前は東側に木製の柵が残っていたそうだが、現在は残っていない。

尻手第三踏切から北に向かって線路跡へ。道路と並行して建つ家が多い中で一ヶ所だけ斜めになっているのが線路跡で、そこに踏切もあったと思われる。この辺りは線路跡がすっかり宅地化されてしまっている。

そこから東側、裏手に当たる道路は公園に突き当たっているが、公園部分が貨物支線の路盤跡で通路部分が踏切だったと思われる。

公園西側を見ると民家に突き当たって終わっている。路盤はそのまま西へ続いていたはずだが、ここから先は住宅地になってしまっている。

西側には路盤跡の公園が「さいわい緑道」となって川崎河岸駅方面に向かっている。

緑道の中には汽車などが描かれたタイル画があった。
ここからの写真は2025/12/4撮影。
ここからの写真は2025/12/4撮影。

タイル画の川崎河岸よりに、「川崎河岸駅」の駅名標を描いたものがあった。
矢印は矢向駅方向を示しているが、駅の場所は逆方向でこれは終点の川崎河岸駅から矢向駅を示したと解釈すべきか?
矢印は矢向駅方向を示しているが、駅の場所は逆方向でこれは終点の川崎河岸駅から矢向駅を示したと解釈すべきか?

公園北側にある南河原こども文化センターのところに踏切跡がある。
ここからの写真は2025/11/30撮影。
ここからの写真は2025/11/30撮影。

川崎駅西口から品鶴線の西側へ向かうバスが通るバス通りを越えて西へ。この交差点も踏切だったと思われる。

緑道にある「やすらぎの道しんめい」の看板。この辺りは川崎市幸区神明二丁目で、地元ではやすらぎの道しんめいと呼んでいるが、正式名称はさいわい緑道ということらしい。

次の踏切跡には地元の小学生が描いた壁画がある。
ところで、川崎幸市場(川崎市地方卸売市場南部市場)に向かっていた引込線はこのあたりで写真手前右方向に分かれていた。いったんそちらへ向かってみる。
ところで、川崎幸市場(川崎市地方卸売市場南部市場)に向かっていた引込線はこのあたりで写真手前右方向に分かれていた。いったんそちらへ向かってみる。

さきほどのバス通りを西側から見たところ。引込線は写真右側にある川崎市南部学校給食センターのあたりに通っていたようで、写真奥の交差点付近に踏切があったと思われる。

北側から給食センター(左)と川崎幸市場(右)の間を通る道路を見る。
写真中央の左右に門扉があるあたりに引込線が通っていたらしいが、痕跡は残っていない。
写真中央の左右に門扉があるあたりに引込線が通っていたらしいが、痕跡は残っていない。

貨物支線が第二京浜(国道1号)を越えていた南河原公園入口交差点。第二京浜が完成したときにも立体交差化はされていないので、踏切があったと思われる。空中写真ではその手前にも踏切があるようにも見えるが、別の踏切として管理されていたかどうかはわからない。
交差点の向こう、貨物支線後の南側には南河原公園が広がっている。
交差点の向こう、貨物支線後の南側には南河原公園が広がっている。

前の写真手前に写っている石柱をよく見ると「南武鉄道貨物線軌道跡」と書かれた石碑だった。
この写真は2025/12/4撮影。
この写真は2025/12/4撮影。

公園北側にある南河原こども文化センターのところに踏切跡がある。
ここからの写真は2025/11/30撮影。
ここからの写真は2025/11/30撮影。

公園東側に隣接する南河原小学校に突き当たる道路も踏切跡。
昭和22年空中写真を見ると少し右(西)側にも踏切跡があったかもしれないがはっきりしない。
昭和22年空中写真を見ると少し右(西)側にも踏切跡があったかもしれないがはっきりしない。

南河原小学校東側の踏切跡を北から見たところ。

次の踏切跡は高層マンション脇の河原町団地南側交差点にある。
マンション左側の空間にもかつては引込線があったようだが、踏切跡らしきものは残っていない。
マンション左側の空間にもかつては引込線があったようだが、踏切跡らしきものは残っていない。

交差点を越えて並木道を進んでいく。
昭和22年の空中写真では左手前に引込線が分かれていくあたりに踏切があったようにも見えるがはっきりした場所はわからない。
昭和22年の空中写真では左手前に引込線が分かれていくあたりに踏切があったようにも見えるがはっきりした場所はわからない。

川崎河岸駅があったあたりの幅広くなっている部分は緑道公園として開放されている。

緑地公園の東端、国道9号/409号(府中街道/多摩沿線道路)に出るところ。
昭和22年の空中写真では多摩川右岸にある船着場まで線路が伸びているので、ここにも踏切があったのではないかと思われる。
昭和22年の空中写真では多摩川右岸にある船着場まで線路が伸びているので、ここにも踏切があったのではないかと思われる。

多摩川の河原に出て船入(船が入る入江)の跡を北側から見たところ。
船入のあった部分だけ南北より土地が低く、埋め立てた後にマンションを建てたようだ。
ここからの写真は2025/12/4撮影。
船入のあった部分だけ南北より土地が低く、埋め立てた後にマンションを建てたようだ。
ここからの写真は2025/12/4撮影。

船入跡から多摩川河口方向を見たところ。川崎河岸まで南武線を運ばれてきた砂利は、ここから船に積まれて東京や横浜へ向かっていたという。