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南武線・武蔵溝ノ口〜宿河原

OpenStreetMapで武蔵溝ノ口駅から津田山第二踏切付近までを見る。
国道246号、平瀬川を越える下作延(しもさくのべ)地区を通るあたりでは踏切の数が比較的少なく、南に梶ヶ谷、東に津田山(七面山)、西に作延城址を含む緑ヶ丘霊園の高台があって南武線はその間を抜けている。
国道246号、平瀬川を越える下作延(しもさくのべ)地区を通るあたりでは踏切の数が比較的少なく、南に梶ヶ谷、東に津田山(七面山)、西に作延城址を含む緑ヶ丘霊園の高台があって南武線はその間を抜けている。

武蔵溝ノ口駅西側の大山街道踏切。付近に自動車が通行できる踏切がないため通行量が多い。南武線の踏切番号はNo.19となっている。
このページの写真はいずれも2025/11/28撮影。
このページの写真はいずれも2025/11/28撮影。

踏切北側から東急田園都市線溝の口駅への近道になっている溝の口西口商店街。昭和の匂いがするアーケード街になっている。

踏切北側の街道沿いにある昭和な商店。米と燃料とたばこという看板がいかにもだ。昔はプラッシーとか売っていただろう。今でも燃料店としては現役だそうだ。

国道246号の高架下を抜けて平瀬第一踏切(踏切番号No.20)へ。この踏切も混雑している。踏切西側にはかつて平瀬川の旧流路が流れていた。

現在の平瀬川は津田山の下を平瀬川トンネル(平瀬川隧道)で抜けて多摩川に放水されている。

津田山駅手前の平瀬第二踏切(踏切番号No.21)は南向きの一方通行になっている。

津田山駅西側の津田山第一踏切(踏切番号No.22)。踏切西側にはスーパーマーケットなどがあるが、かつては日本ヒューム管(現・日本ヒューム)の川崎工場があった。
津田山駅そのものも昭和16年(1941年)の開業時は日本ヒューム管前という駅名で、昭和19年(1944年)に南武線が国有化された際に津田山に改められた経緯がある。
津田山駅そのものも昭和16年(1941年)の開業時は日本ヒューム管前という駅名で、昭和19年(1944年)に南武線が国有化された際に津田山に改められた経緯がある。

今でこそおしゃれな橋上駅になっている津田山駅だが、2019年までは踏切脇の駐輪場になっている場所に駅舎があった。
かつてはそこから構内踏切を使って島式のホームに渡る構造で、写真右に当時の構内踏切に下りていく階段の跡が残っている。
かつてはそこから構内踏切を使って島式のホームに渡る構造で、写真右に当時の構内踏切に下りていく階段の跡が残っている。

踏切の南側には当時の写真を使った区役所の看板が設置されている。

スーパー西側にある2020年に閉鎖された屋内スキー場「スノーヴァ溝の口-R246」と、その隣にあるマンションの北側で南武線から別れた日本ヒューム管専用線が緑ヶ丘霊園の方向(写真左)に向かって伸びていた。

そのさらに西側にある川崎市子ども夢パーク。専用線は敷地北側を通っていた。

子どもパークの前で道路は北向きになるが、住宅地に入ったところで右側に不自然な残余地が残っている。
おそらくはここが専用線の軌道跡の一部で、写真のあたりに踏切があったと思われる。
おそらくはここが専用線の軌道跡の一部で、写真のあたりに踏切があったと思われる。

さきほどの踏切跡の北で道路を右に曲がって、南武線に残る津田山第二踏切(踏切番号No.23)へ。
ここは車両通行止めになっており、北側に踏切や道路がないためこのあたりの住民は津田山第一踏切まで行かないと南武線の北側には渡れない。
ここは車両通行止めになっており、北側に踏切や道路がないためこのあたりの住民は津田山第一踏切まで行かないと南武線の北側には渡れない。

OpenStreetMapで久地駅付近から宿河原駅までを見る。
久地駅からの南武線は多摩川と二ヶ領用水に挟まれた広い低地を通っている。
久地駅からの南武線は多摩川と二ヶ領用水に挟まれた広い低地を通っている。

久地駅手前の津田山第三踏切(踏切番号No.24)。昭和37年(1962年)に発生した二重衝突事故の現場はこの踏切であるという記載を見かけるが、Webサイトにある当時の事故写真を見ると違和感が残る。

いろいろ調べてみたところ、国立国会図書館デジタルコレクション所蔵の「電気車の科学 15巻9号(通巻173号)」(電気車研究会, 1962)に事故の詳細が記載されており、事故が発生したのは津田山第三踏切のすぐ隣(津田山寄り)にあった別の踏切であることがわかった。
この踏切は、写真奥に見える工事現場が古くは帝国臓器製薬(現・あすか製薬)川崎研究所であり、その入口として昭和10年(1935年)ごろに専用踏切として開設された(参考:朝日新聞1962/8/8記事)ものであった。
朝日新聞の記事によれば、1962/8/7夕方、帝国臓器側から出てきたトラックと登戸行下り電車が衝突、脱線した先頭車両が上り線側にはみ出していたところに運悪く登戸発上り電車が衝突、死者3名、重軽傷者155名を出す大惨事となってしまった。
地図でもわかるように踏切の南側は津田山方面から左カーブしている場所で見通しが悪く、踏切は帝国臓器側から坂を下って入る形になっていたため踏切に侵入していたトラックの発見が遅れたようだ。当時この踏切は警報機も遮断機もない第四種踏切(一部記事に第三種とするものがあるが、当時の写真に警報機は映っていない)で、帝国臓器専用なので通称帝国臓器踏切と呼ばれていた無名の踏切であったという。
津田山第三踏切も当時からあったはあったが、写真をみても歩行者が通るのがやっという小さな踏切(こちらも第四種)で、事故後に帝国臓器踏切が廃止され、津田山第三踏切が拡張されたものと思われる。
昭和37年は5月に国鉄戦後五大事故とされる三河島事故が発生した年でもあって鉄道事故増加への懸念が強まっていたところで、この踏切事故を契機に踏切の安全対策が進められていった。
この踏切は、写真奥に見える工事現場が古くは帝国臓器製薬(現・あすか製薬)川崎研究所であり、その入口として昭和10年(1935年)ごろに専用踏切として開設された(参考:朝日新聞1962/8/8記事)ものであった。
朝日新聞の記事によれば、1962/8/7夕方、帝国臓器側から出てきたトラックと登戸行下り電車が衝突、脱線した先頭車両が上り線側にはみ出していたところに運悪く登戸発上り電車が衝突、死者3名、重軽傷者155名を出す大惨事となってしまった。
地図でもわかるように踏切の南側は津田山方面から左カーブしている場所で見通しが悪く、踏切は帝国臓器側から坂を下って入る形になっていたため踏切に侵入していたトラックの発見が遅れたようだ。当時この踏切は警報機も遮断機もない第四種踏切(一部記事に第三種とするものがあるが、当時の写真に警報機は映っていない)で、帝国臓器専用なので通称帝国臓器踏切と呼ばれていた無名の踏切であったという。
津田山第三踏切も当時からあったはあったが、写真をみても歩行者が通るのがやっという小さな踏切(こちらも第四種)で、事故後に帝国臓器踏切が廃止され、津田山第三踏切が拡張されたものと思われる。
昭和37年は5月に国鉄戦後五大事故とされる三河島事故が発生した年でもあって鉄道事故増加への懸念が強まっていたところで、この踏切事故を契機に踏切の安全対策が進められていった。

北側にしか改札口がない久地駅。構内踏切があったころの構造をそのまま残している。
久地駅は南武線開通時の昭和2年(1927年)には久地梅林停留場として開業している(昭和19年の国有化時に改称)。当時は周辺に市街地はなく、観光地としての集客を狙った駅であった。
久地駅は南武線開通時の昭和2年(1927年)には久地梅林停留場として開業している(昭和19年の国有化時に改称)。当時は周辺に市街地はなく、観光地としての集客を狙った駅であった。

久地駅北側にある久地踏切(踏切番号No.25)。

久地踏切から久地駅のホームを見る。下りホーム北端には構内踏切に下りる階段の跡があるが、階段はホーム延伸のために埋められてしまい階段脇の斜めの線だけが見える。

久地駅北側で南武線は二ヶ領用水を越える。その先にあるのが二ヶ領踏切(踏切番号No.26)。
同じ名前の踏切が尻手短絡線にもあるが、二ヶ領用水が南武線と並走して流れているためだろう。
同じ名前の踏切が尻手短絡線にもあるが、二ヶ領用水が南武線と並走して流れているためだろう。

東名高速道路をくぐって南武線が西向きにカーブしていく手前にある不動第一踏切(踏切番号No.27)。

不動第一踏切の西側には、南武線が戦時買収された昭和19年(1944年)に廃止された宿河原不動駅があった。

宿河原不動駅は、近くにある新明国上教会への参拝客を目論んで設置されたものだった。
新明国上教会は大正元年(1912年)に関山盛衆によって開かれたもので、当時は新宗教を興すことが難しかったため不動明王に仮託したことから宿河原不動尊の通称で呼ばれていたという。(参考:新明国上教の由来)
新明国上教会は大正元年(1912年)に関山盛衆によって開かれたもので、当時は新宗教を興すことが難しかったため不動明王に仮託したことから宿河原不動尊の通称で呼ばれていたという。(参考:新明国上教の由来)

宿河原不動駅から教会に向かう道はかつて門前町として栄えていたようで、現在でも戦前に建てられたのではないかと思われる古い民家や商店が残っている(商店として営業しているところはないようだ)。しかし、それも最近は徐々に建て替えが進んでおり、いずれは消えてしまうだろう。

西へ進んで不動第二踏切(踏切番号No.28)へ。踏切北側(写真奥)が低地になっているのが見えるが多摩川の古い蛇行跡がある。

踏切南側には二ヶ領用水宿河原線(宿河原堰から多摩川の水を二ヶ領用水に送っていた支線)を挟んで川崎市緑化センターがあり、一般開放されている。
園内を流れる二ヶ領用水宿河原線を、二ヶ領本線から分水された五ヶ村掘が越えていく。水道橋には大正13年の銘が残る。
園内を流れる二ヶ領用水宿河原線を、二ヶ領本線から分水された五ヶ村掘が越えていく。水道橋には大正13年の銘が残る。

緑化センター西側にある八幡踏切(踏切番号No.29)は線路に向かって築堤を上る形になっており、車両通行はできない。

宿河原駅東側にある宿河原第一踏切(踏切番号No.30)は踏切両側から階段で上る構造になっている。自転車用にスロープが付いているが、当然車両通行はできない。

宿河原第一踏切から宿河原駅を見る。駅北側(写真右奥)に留置線があって車両が停泊しているが、かつてそこから多摩川に向かう宿河原砂利線が伸びていた。