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東村山1号~7号踏切

OpenStreetMapで東村山駅周辺を見る。現在、東村山駅を中心とした連続立体化工事が進められている。

東村山といえば志村けん。ということで駅前の銅像からスタート。
ここからの写真は2022/9/10撮影。
ここからの写真は2022/9/10撮影。

通称大踏切と呼ばれる東村山1号踏切は駅北側にある。写真奥には高架線の土台が見えてきている。

東村山1号踏切脇から北側を見る。高架線は左右に余裕がない西武新宿線の真上に建設が進んでいる。

西武新宿線と西武園線が分かれる位置にある東村山2号踏切。

国土地理院Webサイトから昭和30年の空中写真(米軍撮影)を見る。
現在は残っていない東村山3号、4号踏切と西武園線の4号踏切が見える。
現在は残っていない東村山3号、4号踏切と西武園線の4号踏切が見える。

空中写真で東村山3号踏切があったはずの付近に行ってみたが、駐車場になっており痕跡は残っていなかった。

ところで、西武新宿線東側のこの道路、東村山市旧跡として指定されている鎌倉古街道(上ツ道)なのだそうだ。鎌倉街道の上ツ道(かみつみち)は、鎌倉から町田付近を通って東村山、所沢と進み、高崎へ向かっている。

鎌倉街道沿いにある白山神社。境内の牛頭天王(ごずてんのう)像は文政2年(1819年)の造立で、東村山市の有形民俗文化財に指定されている。
神社の北側には線路に向かって行き止まりの路地があるのだが、ここは踏切ではなかったようだ。
神社の北側には線路に向かって行き止まりの路地があるのだが、ここは踏切ではなかったようだ。

東村山4号踏切と思われる路地。工事用の入り口が設置されている。

すぐ北側に東村山5号踏切がある。この踏切は連続立体化工事後もそのまま踏切として残る予定となっている。

踏切手前には1955年の銘が入った古レールが柵として使われていた。

西武新宿線の東村山6号踏切は所沢駅近くにあるので、ここでいったん西武園線の方に目を向けてみよう。豊島園線と同様に、こちらも東村山2号踏切まで共有したあと、写真の東村山3号踏切からは西武園線にも別の踏切が存在することになる。踏切南側には東村山ふるさと歴史館がある。

踏切を渡る西宿通りを少し南へ進んだところにある諏訪神社。貞享(じょうきょう)2年(1685年)ごろに前川(柳瀬川の支流)の洪水で流れ着いた御神体を祀ったものという。

歴史館と諏訪神社の間、西宿通り東側にある八百屋。八百屋なのだが八百屋として営業している雰囲気はなく、看板の右側をよくみてみるとうっすら「貸金」という文字が読める。かつては貸金業を営んでいたのだろう。
Google Mapでみると左側は店舗として使用されていないものの、右側は花屋として営業していることがあるようで、よくよくみるとシャッターには「本日休業します」という札もかかっていた。
Google Mapでみると左側は店舗として使用されていないものの、右側は花屋として営業していることがあるようで、よくよくみるとシャッターには「本日休業します」という札もかかっていた。

連続立体化工事の西端となる西武園線東村山5号踏切。この踏切は工事後も残存することになる。

順番が逆になってしまったが、西武園線の廃止された東村山4号踏切は5号踏切のすぐ東側にあった。現在は工事用仮囲いで囲われてしまっていてよくわからなくなっている。

5号踏切を渡る道路は八国山通りと名付けられている。八国山は西武園線北側に広がる広大な緑地で、「となりのトトロ」の七国山のモデルとなったとも言われている(主人公の母親が入院していた病院のモデルとなった病院も緑地東部に囲まれる位置にある。
山とは言うものの実際には東西に広がる丘陵地で、はっきりとした山頂はないらしい。
山とは言うものの実際には東西に広がる丘陵地で、はっきりとした山頂はないらしい。

再び国土地理院Webサイトから昭和30年の空中写真(米軍撮影)。
西武園線はさらに西へ、狭山湖と西武園競輪場に向かって空中写真左上に伸びていくが、以前は村山線の末端部として現在よりも南寄りの多摩湖線の方へ進んでいた。
空中写真では、村山貯水池前駅へ向かっていた村山線は昭和26年(1931年)ですで廃止になっており、一方の多摩湖線は西武園ゆうえんちまで延伸する前で旧多摩湖駅が左下に見えている。
西武園線はさらに西へ、狭山湖と西武園競輪場に向かって空中写真左上に伸びていくが、以前は村山線の末端部として現在よりも南寄りの多摩湖線の方へ進んでいた。
空中写真では、村山貯水池前駅へ向かっていた村山線は昭和26年(1931年)ですで廃止になっており、一方の多摩湖線は西武園ゆうえんちまで延伸する前で旧多摩湖駅が左下に見えている。

西武園線の東村山6号踏切は廃止されている。空中写真から推定した位置は現在では八国山緑地の入り口になっている。線路の南側は北山公園になっているが、現在直接渡る道はない。
ここからの写真は2023/9/28撮影。
ここからの写真は2023/9/28撮影。

踏切跡と思われる場所に立つ朽ちた看板の柱。西武鉄道の踏切によくある「でんしゃにちゅうい」と書かれていたのかもしれない。

振り返って山側をみると、「御大典記念 帝国在郷軍人会 北多摩郡連合分会 常設射撃場」と書かれた石碑が立っていた。東村山ふるさと歴史館の記事によれば、大正3年(1914年)から西武園線が開通する昭和5年(1930年)まで線路南側の北山公園に射撃場があったという。

八国山緑地を薮をかき分けながら西へ進んで、西武園線の東村山7号踏切に出る。

線路南側を西へ進んでいくと、山門になぜかアンパンマンの石像がある禅宗照光寺の前を通る。旧村山線はこの辺りを東西に通っていたようだが、線路跡は残っていない。

再び線路北側に回って西武園線の東村山8号踏切を見る。

そして西武園駅手前の西武園線東村山9号踏切。

少し東村山方向へ戻って西武園駅を見る。2面3線の大きな頭端式ホームを抱えた終着駅だが、終日2000系や9000系の4両編成がのんびり単線を往復している。

西武園駅には、競輪開催時に使われたであろう臨時改札が並んでいる。現在も使用しているのかは定かではない。

さて、それでは西武新宿線に戻って所沢よりの踏切を見ていこう。
OpenStreetMapで所沢街道の立体交差から所沢駅までを見る。
OpenStreetMapで所沢街道の立体交差から所沢駅までを見る。

国土地理院Webサイトから昭和22年の空中写真(米軍撮影)。
この時点では所沢街道はまだ開通しておらず、南側の旧道には跨線橋と踏切が見える。北側の現在引き上げ線になっている部分はすでに廃道になっているようだ。
この時点では所沢街道はまだ開通しておらず、南側の旧道には跨線橋と踏切が見える。北側の現在引き上げ線になっている部分はすでに廃道になっているようだ。

線路東側の道路から見たところ。線路の両脇に橋台の跡と思われる構造物が残っていた。

つづいて所沢街道に取って代わられた旧道から踏切跡を見る。駐車場南端の駐車禁止と書かれた部分が旧道で、写真奥に踏切があったと思われる。

一見すると駐車場の一部にしか見えないが、壁沿いに「公道につき駐車禁止」という所沢市役所の看板が立てられていてここが市道として管理されている様子がうかがえる。もっとも境界標もなく、現地ではどこまでが公道なのかはよくわからない。

旧道北端から南を見たところ。北側の新道との接続部分は払い下げられて住宅になってしまっており、突き当たりを曲がって新道に出る形になっている。南側は新道の嵩上げ部分に行手を阻まれて行き止まり(歩行者は階段で新道に上れる)で、結果として住宅街に不自然に幅広い道が取り残された形になっている。

旧道北端から少し所沢駅寄りにある東村山6号踏切。西向き一方通行だが、線路部分が谷間になっているため通過する車両がフロアを擦りそうになっている。

東住吉交差点から引き上げ線の方に向かって進む道路。突き当たりの先が廃道になった部分で、現在は痕跡としては残っていない。

最後に所沢駅南側の東村山7号踏切。現在ここの南側に所沢駅ふれあい通りのアンダーパス建設工事が進んでおり、完成すればこの踏切の交通量はかなり減ると思われる。