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和泉川の水路敷群(牛窪)
![地図その1](../main/osm_izumi06.jpg)
OpenStreetMapで牛窪の北半分(庚申橋から京王線まで)を見る。
笹塚駅の東側で玉川上水が大きく南へ蛇行しているが、それはこの牛窪が南に深く入り込んでいるためということになる。中野通りに沿って、南へ向かってみよう。
牛窪(または牛ヶ窪)という名前は牛裂きの刑という恐ろしい刑罰が行われた刑場があったからとされ、甲州街道脇には刑死者の霊を鎮めるために牛窪地蔵尊が建てられている。
笹塚駅の東側で玉川上水が大きく南へ蛇行しているが、それはこの牛窪が南に深く入り込んでいるためということになる。中野通りに沿って、南へ向かってみよう。
牛窪(または牛ヶ窪)という名前は牛裂きの刑という恐ろしい刑罰が行われた刑場があったからとされ、甲州街道脇には刑死者の霊を鎮めるために牛窪地蔵尊が建てられている。
![庚申橋](ushikubo_01.jpg)
中幡庚申塔がある庚申橋の後から南へ向かう道路を見る。牛窪の支流はここに合流していたとされる。
この写真は2023/8/2撮影。
この写真は2023/8/2撮影。
![幡ヶ谷第三公園](ushikubo_02.jpg)
水道道路手前にある幡ヶ谷第三公園へ。
ここからの写真は2023/8/16撮影。
ここからの写真は2023/8/16撮影。
![滝](ushikubo_03.jpg)
水道道路に沿って広がる公園内には湧水や小川、滝を模した親水公園が作られている。水道道路部分は盛り土で嵩上げされているため水路の跡は残っていない。
![境界標](ushikubo_04.jpg)
水道道路と中野通りが交差する笹塚出張所前交差点を越えて水道道路の南へ。西側の砂利道に残っていた東京都の境界標。
![酒呑地蔵](ushikubo_05.jpg)
中野通りの東側にある清岸寺に移設されていた地蔵橋の酒呑地蔵。宝永5年(1708年)造立とある。
この写真は2024/1/8撮影。
この写真は2024/1/8撮影。
![西へ](ushikubo_06.jpg)
牛窪の流れは東西ふたつあり、古地図では清岸寺の西側出入口付近で合流していた。中野通りの拡幅などもあり水路敷は残っていないい部分が多いので、残された水路敷を見ながら上流へ向かっていこう。
まずは清岸寺前から西へ延びる一方通行の道を入っていく。
ここからの写真は2023/8/16撮影。
まずは清岸寺前から西へ延びる一方通行の道を入っていく。
ここからの写真は2023/8/16撮影。
![欄干](ushikubo_07.jpg)
中野通り沿いに建つビルの裏側に回ったところで、欄干を発見。そこから南へビルの裏側を西側の水路敷が伸びていく。
![駐車禁止](ushikubo_08.jpg)
奥にあるバリケードを拡大してみたところ。立ち入り禁止ではなく駐車禁止と書いてあるようだが、いずれにせよ奥は藪になっていて入ることは出来なさそうだ。空中写真で見る限り、写真奥の方で行き止まりとなっているものと思われる。
![笹塚交差点](ushikubo_09.jpg)
中野通りと甲州街道が交差する笹塚交差点。東側の水路は写真右奥のスタジオ脇を、西側の水路は交差点の左側あたりを通っていたようだが、道路拡張によって交差点付近に跡は残っていない。
![牛窪地蔵尊](ushikubo_10.jpg)
交差点南東側にある牛窪地蔵尊と道供養塔。牛窪地蔵尊は最初に書いたように刑死者を慰霊するためのもので正徳元年(1711年)の造立、道供養塔はもともとは交差点南側の駒場道(鎌倉街道)の安全を祈念して文化3年(1806年)に造立されたものという。そのほかに路傍にあったと思われる庚申塔や、交通事故遭難慰霊碑などが並んでいる。
この写真は2024/1/12撮影。
この写真は2024/1/12撮影。
![笹塚跡](ushikubo_11.jpg)
ところで、笹塚交差点や笹塚駅の名前にもなっている笹塚という地名は、笹塚駅から甲州街道を渡った北側、代々木警察署笹塚交番の向かいにあったとされるその名も「笹塚」という塚に由来するという。江戸時代、このあたりの甲州街道両側に塚があり笹が生い茂っていたことから笹塚と呼ばれ、地名になったと看板には書かれている。
この笹塚を甲州街道の一里塚とする説もあり、新宿追分(現在の新宿三丁目交差点)からはおよそ1里(約3.9km)のところにある。
いずれにせよ、看板以外に痕跡は残っていない。
この写真は2024/1/8撮影。
この笹塚を甲州街道の一里塚とする説もあり、新宿追分(現在の新宿三丁目交差点)からはおよそ1里(約3.9km)のところにある。
いずれにせよ、看板以外に痕跡は残っていない。
この写真は2024/1/8撮影。
![地図その2](../main/osm_izumi07.jpg)
京王線の南側、玉川上水との間に広がる牛窪の谷を見る。
![幡ヶ谷第一公園](ushikubo_12.jpg)
京王線を越えた南側。幡ヶ谷第一公園に水路を模した親水公園があるが、流れの向きは逆で南へ下っている。西側の水路は写真右奥のビル脇の窪みあたりを流れていたらしい。ここには都道が延伸される前は中村屋笹塚工場の東側部分があった。
ここからの写真は2023/8/16撮影。
ここからの写真は2023/8/16撮影。
![東側](ushikubo_13.jpg)
笹塚一丁目東交差点の東側に、東寄りの水路跡が残っている。次の交差点までは車も入れる道路として使用されている。
![車止め](ushikubo_14.jpg)
その先は虎縞というには微妙な感じの車止めがあり、東京消防庁技術安全所の脇を水路敷として抜けていく。
![入口](ushikubo_15.jpg)
水路敷は東京消防庁幡ヶ谷庁舎につきあたって西へ曲がり、都道420号の方に出てくる。写真は都道から水路敷の入口を見たところ。
ここから南の上流部分は都道東側の東京消防庁敷地を流れていたようで、敷地南側まで痕跡は残っていない。
ここから南の上流部分は都道東側の東京消防庁敷地を流れていたようで、敷地南側まで痕跡は残っていない。
![カーブ](ushikubo_16.jpg)
東京消防庁敷地がある大きな区画の南側に突然現れる曲線。おそらくはここが水路敷で、写真奥の都道西側に上流部分が見えている。
![西へ](ushikubo_17.jpg)
都道の西側に渡って上流部を見る。ここから最上流部までは道路として使用されている。
![行き止まり](ushikubo_18.jpg)
最上流部は住宅地の行き止まり道となっている。その先すぐに玉川上水が大きく南へ蛇行している部分に出るのだが、突き当たり付近が谷頭になっており分水なり接続なりがあったという記録は見当たらない(見つけていないだけかもしれないが)。
![水道用地](ushikubo_19.jpg)
つづいて都道西側に残る西側流路の跡を見ていこう。都道西側の中村屋笹塚工場跡の南側に、水道用地の境界標があった。
![水路跡](ushikubo_20.jpg)
境界標から道路を挟んで南側に狭い道路があるが、これが西側の水路跡と思われる。道路はすぐに都道に合流しており、古地図や古い空中写真などを見る限りそこからしばらくは現在の都道あたりを水路が流れていたらしい。
![分かれ道](ushikubo_21.jpg)
東京消防庁敷地の向かい側で都道から西へ分かれる水路敷が現れる。
![細道](ushikubo_22.jpg)
住宅の間を細い水路敷が抜けていく。
![特養](ushikubo_23.jpg)
途中で車両通行可能となった水路敷は、特養老人ホームにつきあたって終わっている。写真奥が谷頭となっているため、その辺りから水路が始まっていたようだ。こちらもすぐ奥に玉川上水があるのだが、そこと繋がっていたという記録は見つけられていない。
![コンクリート柱](ushikubo_24.jpg)
前の写真奥、インターロッキング舗装の道を進んでいくと西側の水路跡との間に通る道にコンクリート柱の車止めが立っていた。