Natrium.jp
烏山川周辺の水路敷群(太子橋〜勝橋)
地図その1
OpenStreetMapで烏山川緑道の太子橋から勝橋までを見る。
下流側と異なりこの区間では昭和初期に耕地整理が行われ、烏山川の流路は大きく変更されている。そのため流路跡は消失しているところも多いが、北側を並走する分流の跡や南側から合流する若林支流も含めて痕跡を探していこう。
水路の位置については以下を参考とした。
・特別展「世田谷の用水」図録(世田谷区立郷土資料館, 2025)
・公益財団法人特別区協議会Webサイト「東京府荏原郡世田谷町」(東京逓信局, 1917)
・国土地理院Webサイト旧1万地形図「世田ヶ谷」明治42年測量版大正14年測量版昭和3年測量版昭和12年測量版(いずれも大日本帝國陸地測量部)
など
太子橋
太子橋から烏山川緑道を上流方向に見たところ。今回はここからスタート。
ここからの写真は2025/6/5撮影。
前田橋
すぐに前田橋の跡を通り過ぎる。
分岐点
世田谷区立太子堂小学校の手前にあった弁天橋付近に出たところ。写真奥あたりから左(南)側に分流が分岐していたが、そちらの水路跡は残っていない。
旧町名
旧町名の表札。「東京市世田谷區」だったのは昭和7年(1932年)10月から昭和18年(1943年)6月までのわずか11年弱しかないレア旧町名だったりする。太子堂町という町名自体は昭和43年(1968年)まで存続していた。
西山橋
太子堂小学校を過ぎてS字にカーブする烏山川緑道のカーブ中間点あたりにある西山橋跡。
水車橋
次の水車橋跡。明治時代の烏山川は緑道よりもやや南側を蛇行しながら流れていたが、昭和4年(1929年)に設立された若林耕地整理組合により昭和11年(1936年)までに現在のような直線に付け替えられた。
橋名
前田橋から上流側の橋跡には橋名を記した標柱が設置されている。
昭和橋
次は昭和橋。名前から考えて耕地整理のときに新しく造られたのだろう。
耕整橋
その次の耕整橋は耕地整理で出来た新しい橋であることが名前からも明らかだ。
耕整橋のやや上流側で烏山川の旧流路から北に分かれた分流が横切っていて、若林稲荷神社の方を流れていた北側の分流と合流していた。
分流については、あとで改めて見て行くことにする。
麒麟と河馬
なぜ英語?
下堰橋
下堰橋を過ぎたところで烏山川緑道は左へカーブ。
稲荷橋
稲荷橋から北を向くと若林稲荷神社が見える。あとで分流を辿るときに行ってみよう。
宮下橋
宮下橋の先には環状七号線が見えてきている。
若林橋
環状七号線が烏山川を渡る若林橋。耕地整理前はここから南寄りに烏山川が流れていたが痕跡はない。
ゴリラ
ここで一度太子橋まで戻って北側の分流を見ていこう。
太子橋から北側を見るとビルに大きなゴリラが乗っかっているのが見えるが、映画のセットを引き取ってここに設置したものだそうでゴリラビルと呼ばれているらしい。
茶沢通りは昭和の耕地整理後に出来た新しい道で、太子橋のやや西側にゴリラビル前の交差点あたりから北側の分流が合流していた。
この写真は2025/6/23撮影。
北側分流
ゴリラビル前の交差点から西を見たところ。北側分流はこの道路を流れてきていたが、道路を見てもそれらしい感じはあまりない。
ここからの写真は2026/1/12撮影。
丁字路
そのまま西へ進んでいくと、丁字路が北、南、北から連続して道路に突き当たってくる場所に出る。分流は一番手前の丁字路に向かって北側から流れてきていたようだが、その痕跡は残っていない。
斜め
3つめの丁字路を右(北)に曲がるとすぐに左斜めに曲がってクネクネした路地がある。ここが北側流路跡ということになる。
この写真は2025/6/5撮影。
三角地
北側の流路がもっとも北に位置する場所では大きな三角の土地が道路となっているが、どうやら写真左側に水路があったようだ。
ここからの写真は2026/1/12撮影。
道路と水路跡
三角地を回り込んで南寄りに進むと、太子堂八幡神社に向かう右の道に左の私有地から水路跡が合流してくる。地籍図では境界線の跡しかないが、写真中央に見える住宅の裏側を水路が流れていたようだ。
太子堂八幡神社
太子堂八幡神社の鳥居を南側から見たところ。北側分流は点線のあたりを流れていたと思われる。
太子堂八幡神社は創建時期不明ながら前九年の役(1050〜1062年頃)の折に源頼義、義家親子が戦勝祈願したと伝えられており、その頃にはすでにあったということになる。
弁財天社
前の写真奥に写っている八幡神社の鳥居脇に弁財天社がある。
カーブ
八幡神社前の道路から左(西)に向かったところ。分流は写真正面のカーブを通って、右側手前の住宅裏の方へ流れていたようだ。
斜め
カーブ途中で二股に分かれる道路を右に曲がり、道路が北向きに曲がって行くところ。地籍図には写真正面方向から出てくる分流の跡が残っているが、住宅地として払い下げられたようで痕跡は残っていない。
痕跡
北側に回り込んで水路の入口跡を見たところ。駐車場の境界あたりに水路があったと思われるが、水路としての痕跡はない。
ここからの写真は2025/6/5撮影。
直角
振り返って上流側、いったん道路に出てくる水路跡だが、すぐに直角カーブのところで見失う。
地籍図では写真右奥方向から流れてきていたように見えるが、実際に現地で見ると痕跡は見当たらない。
また、明治42年の地形図では写真左方向に水路が描かれているのだが、耕地整理区画になっていることもあって道路の位置とは一致せず実在したか確認は難しい。
行き止まり
上流側に大きく回り込んで水路跡の行き止まりになっている路地を上流側から見たところ。
上流側
振り返って上流側を見たところ。分流の水路は写真奥の丁字路を左から曲がってきていた。
西へ
角を左(西)に曲がって上流へ。
稲荷神社へ
進んでいくと右(北)側の台地方向に若林稲荷神社が見えてくる。
若林稲荷神社
崖上に社殿がある若林稲荷神社は江戸時代からあった福寿稲荷神社に、代田にあった天祖神社が明治10年合祀されたものという。
環七
分流も緑道北側で環状七号線に出る。
ここからの写真は2026/1/23撮影。
若林踏切
環七に出たところで若林歩道橋に上って世田谷線の若林踏切を見たところ。この踏切は線路側にも信号があるので道路に遮断機などがなく、分類としては第四種踏切になるそうだ(都電荒川線にも同様の踏切が何ヶ所かある)。
若林橋東詰
続いて若林橋から上流側を見ていこう。環七を渡って東側から烏山川緑道の上流方向を見たところ。写真奥には天神橋が見えている。
この写真は2025/6/5撮影。
欄干
緑道の両脇には若林橋の欄干が残されている。
この写真は2025/6/17撮影。
天神橋
次の天神橋。地籍図では交差点の左右に水路敷(右に烏山川旧本流、左に若林支流旧合流部)があるのだが、そこはあとで見にいくことにする。
ここからの写真は2025/6/5撮影。
若林支流
天神橋の少し上流側に、世田谷線若林駅の方向(南)に伸びる水路敷があった。
ここに烏山川の若林支流(若林川とも呼ばれる)が合流している。いったんこちらに寄り道してみよう。
コンビニ脇
コンビニ脇のフェンスから覗き込んでみると、若林駅上りホームに突き当たるところまで水路敷が伸びているようだ。
砂利道
若林駅南側に回ってみると、支流の上流へ向かう砂利道がある。正面奥は突き当たりになっているようで、「世田谷の用水」に収録されている「東京府荏原郡世田谷村之図 甲・乙号」ではまっすぐ先からも水路がきていたようだがそれは失われている。一方、右(西)に曲がって行く方には地籍図上の痕跡が残る。
西側
道路を西側に回り込んでみるとすぐに水路敷の入口と思われる場所があるが、民家敷地に巻き込まれていて通ることはできない。
ここからの写真は2026/1/23撮影。
南へ
先ほどの世田谷村地図ではそこから南へ向かう道路に若林支流の水路があった。
車止めとグレーチング
途中で左(東)に向かう路地をみると、車止めの前でグレーチングが道路を渡っている。ちょうどこの場所あたりに東側の水路があったと思われる。
この写真は2025/6/5撮影。
嵩上げ
ひとつ南側の路地は嵩上げされて坂道になっているが、奥の車止めあたりが水路の跡だろう。写真右側の駐車場では擁壁になっている。
ここからの写真は2026/1/23撮影。
行き止まり
さらに南へ進むと空き地があるが、そこに向かって東から坂道が下りてきて突き当たりになっている。
その手前にある構造物は水路跡のようにも見えるがどうなのだろう。
交差点
水路跡の道路の方は交差点を越えてさらに南に続いている。
水路跡?
交差点を東に少し行ってマンション裏手の隙間を下流方向に見たところ。この隙間が水路跡のように見える。
上流側は別のマンションの敷地になっていて水路跡は残っていない。
看板
交差点から南へ。写真左の看板裏側に東から出てくる水路敷があり、ここからは東側が若林支流の流路跡になる。一方、直進方向も水路跡ではあったようだ。
水路敷
車止めに向かって水路敷が出てくるが、写真奥で南に曲がっている。こちらは後で見に行くとして、先に直進していく道路の先を見ておこう。
西側水路跡
道路側を南へ進んで交差点のところで若干西寄りにずれてさらに南へ向かう路地がおそらくは西側水路の跡。地籍図では道路もしくは水路がくねくねと曲がっているのだが、現在の路地はまっすぐ南へ向かっている。
写真奥の方は行き止まりで擁壁があり、世田谷村地図ではその手前で東側の支流から分かれてきていたように描かれている。
上流へ
水路敷の方へ戻って角を曲がって南へ。
ここからの写真は2025/6/5撮影。
階段
途中で西から道路が入ってくるところを道路側から東向きに見たところ。
坂道
水路敷は坂道を上って道路と交差。
緑の小道
若林支流の上流部は「緑の小道」として地元住民による管理活動が行われているそうだ。
緑
その名の通り緑に囲まれた小道を進む。
上流端
世田谷通りに出たところの上流端から下流方向を見たところ。
中堰橋
烏山川緑道に戻って中堰橋から上流へ。
ここからの写真は2025/6/17撮影。
谷中橋
次は谷中橋。
本村橋
本村(もとむら)橋。本村と谷中は明治22年(1889年)に合併により世田谷村となった旧若林村の小字名だ。若林という地名の歴史は古く、応永8年(1401年)の「長弁私案抄」に記載があるという。
松陰橋
松陰(しょういん)橋。
松陰神社
松陰橋を左に曲がっていくと幕末の思想家 吉田松陰を祀った松陰神社がある。
厚徳橋
緑道に戻って次の厚徳橋。厚徳は地名ではないので、吉田松陰にちなんで名付けられたのだろうか。
杉大門橋
杉大門橋。烏山川旧本流は杉大門橋手前を左から右へ斜めに流れていたが、橋の付近は耕地整理によって痕跡を失っている。
山堰橋
左から国士舘中学高校の擁壁が迫ってきたところにある山堰橋。
旧本流
山堰橋を南側から見たところ。写真の道路右側に烏山川旧本流があって山堰橋で緑道と分かれていったん南に回り、すぐに杉大門橋に向かって北に戻っていた。
勝橋
世田谷区役所通りと交差する勝橋に辿り着いた。中堰橋から勝橋の間は緑道の整備から40年が経ち、現在改修工事が進められているそうだ。
かつ?かち?
ところでこの橋、上流側の看板は「かつはし」なのだが、下流側の標柱には「かちはし」と書かれている。どちらが正しいものやら。
ここからの写真は2026/1/12撮影。
天神橋から若林駅
最後に天神橋まで戻って緑道に合流する北側の旧本流を見て行く。
まずは天神橋から若林駅方向を見たところ。地籍図では道路右側(東)に水路敷が残っており、若林駅上りホーム手前で東を流れる若林支流から分かれてきていたようだ。
旧本流
一方、烏山川旧本流は天神橋に向かって北から流れて、天神橋で烏山川緑道の方に曲がっていた。
天神橋から北へ向かうとすぐに駐車場のある交差点に出るが、ここで本流は左(西)から手前に曲がり、分流がまっすぐ右(東)へ分かれていた。
若林歩道橋下
ちなみに環七の若林歩道橋下から分流の上流方向を見ると、駐車場のある交差点に向かって緩やかにカーブしている。
ここからの写真は2025/6/17撮影。
カーブ
駐車場から上流方向へ。旧本流は緩やかに蛇行しながら現在の烏山川緑道と並走している。
くねくね
クネクネと曲がる川跡を遡って行く。
松陰橋北
松陰橋から北に向かう道路と交差する。烏山川旧本流に架かっていた橋の名前に関しては資料が見当たらないので、ここに架かっていたであろう橋の名前はわからない。
若林小学校
旧本流はさきほどの交差点を過ぎたところに烏山川緑道の杉大門橋付近から流れてきていたのだが、その流路は耕地整理で失われている。
そのまま道路を進んでいくと若林小学校に出るが、こちらも勝橋北側を通る古い分流の跡と思われる。
細道
若林小学校西側、杉大門橋から北へ向かう道路との交差点から先は細い路地になっていて、北向きにカーブしている。
カクカク
カクカクと小刻みに曲がりながら進んだ先には世田谷中学校が見える。
世田谷中学校
世田谷中学校の前では環七から西へ延びてくる東京都市計画道路補助52号線の工事が進められており、中学校の前を通っている水路跡らしき道路も巻き込まれて消える運命にある。
世田谷区役所通り
勝橋北側の世田谷区役所通りに出る。ここから上流方向については機会を改めて見て行くことにしよう。
by Natrium