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黒目川とその支流(溝沼、泉水、膝折の水路敷)
地図その1
OpenStreesMapで溝沼、泉水地区の地図を見る。
現在の黒目川に対して右岸の溝沼側に大きく低地が広がり、左岸の泉水(せんずい)側には高い崖がそびえている。
東林橋
まずは左岸側から見ていこう。東武東上線南側で最初の端になる東林橋から上流方向(南)を見たところ。写真右側から黒目側に合流してくる流れがある。
ここからの写真は2023/4/9撮影。
枯れ水路敷
そこに流れ込む水路敷は枯れていた。正面には東弁財の崖が見える。
崖下
水路敷は畑の間を抜けて崖下の黒目川通りにぶつかっている。
崖線
そこから左(南側)に目を向けると、駐車場越しに崖線が見える場所があった。だいたい地上3階にあたる高さに崖上の住宅が建っている。
豊川稲荷
黒目川通りと弁財の坂から下りてきた二本松通りの交差点脇にある豊川稲荷と石塔群。おそらくは近辺の路傍に置かれていたものを集めたのだろう。
弁財の坂
弁財の坂は古くから崖の上下を結ぶ道として使われている。弁財(古くは弁財原)の地名は中世の頃からこの地に弁財天が祀られていたことによるとされているのだが、肝心の弁財天がどこに祀られていたのかはよくわからない。
水路跡?
二本松通りの西側、黒目川から北へ向かって水路の跡と思われる未舗装路が伸びている。
この写真は2023/7/11撮影。
ホンダ
そこから黒目川通りへ向かうと、本田技研のモータースポーツを統括するホンダ・レーシング(HRC)本社などが入っている泉水の谷筋がある。谷の南側崖上には大きな建物がそびえ立ち、まるで城郭のようだ。
ちなみにこの谷、かつてはホンダ傘下のテクニランド(現ホンダモビリティランド)が運営する朝霞テックという遊園地があった。昭和39年(1964年)から48年(1973年)の9年間しか営業していなかったが、ゴーカートだけでなくブールや結婚式場などもあったそうだ。
この写真は2023/4/9撮影。
朝霞テック
国土地理院Webサイトから昭和41年(1966年)の空中写真(国土地理院撮影)
谷頭に広がる朝霞テックがよくわかる。
谷頭
崖上に回って南に回り込んだ谷頭から谷筋を見たところ。本田技研に向かってゆるやかな谷が広がっている。
この写真は2023/7/17撮影。
排水口
さて、今度は右岸側を見ていこう。東林橋の上流側に排水口が見える。右岸側には古地図に黒目川の支流が描かれており、合流位置はもう少し下流寄りだったようだが、現在はここで合流しているようだ。
ここからの写真は2023/4/9撮影。
池跡
東林橋を右岸側に渡って次の交差点を右に曲がって進んだところで振り返って見たところ。古地図では写真奥のあたりに池が描かれているのだが、その痕跡は見当たらない。
池に流れてくる支流は写真右側(東)の通りを流れていたようなのでこれは後で見に行くとして、先に朝霞第三中学校付近で黒目川から分かれていた蛇行跡を探してみよう。
砂利舗装
蛇行跡の黒目川への合流部分は区画整理されていて跡形もないが、さきほどの池跡からそのまま道を下流方向へ進んでいったところにある駐車場の山側に不自然な砂利舗装部分がある。ここが黒目川の蛇行跡だ。
ここからの写真は2023/7/11撮影。
昭和37年
国土地理院Webサイトから昭和37年の空中写真(国土地理院撮影)昭和22年の空中写真(米軍撮影)を参考に黒目川旧流路(オレンジ色の点線)を書き込んだもの。
溝沼あたりではかなり旧黒目川が南へ蛇行していたのがわかる。
草むら
駐車場の西側では、水路敷は草むらになって住宅とグループホームの間を抜けていく。
出口
さらに西へ進んで水路敷の出口。写真奥(南側)の住宅と手前には段差があるのがわかる。
道路
振り返って上流側は道路になっているが、写真右寄りの植え込みが水路敷かもしれない。いずれにせよ、水路敷は突き当たりの溝沼老人福祉センターのところで終わっていて、そこから上流は残っていない。
昭和22年の空中写真では突き当たりから左に向かう道路の方から旧流路が流れてきていたようだが現在特に痕跡はなく、二本松通りから上流は区画整理されてしまっているため流路も残っていない。
旧支流
つづいてさきほどの池跡から南へ進み、池に流れ込んでいた旧支流を見ていく。こちらも現在は道路として使われており、このあたりでは水路らしさは残っていない。
ここからの写真は2023/4/9撮影。
クランク
途中で道路がクランク状に曲がっているが、昔からこういう形だったらしい。
溝沼氷川神社
ここでちょっと寄り道。クランクの先から南方向へ行ったところにあるのが溝沼氷川神社。
明治41年(1908年)までは地類神社と称し、寛文年間(1661年〜1673年)に畑の中から掘り出された地類権現の石像を祀ったのが始まりだという。古く地元では「じるいね様」と呼ばれていたのだそうだ。このあたりの旧小字名は「地類根(じるいね)」。
この写真は2023/10/10撮影。
戻り
旧支流に戻るがすぐに逆向きのクランク(こちらはやや角度が緩やか)があって、道路の位置は元に戻る。ここだけ道路が真っ直ぐ進んでいないのは元からそういう地形なのだろうか。
ここからの写真は2023/4/9撮影。
地蔵堂
二本松通りとの交差点には地蔵堂が建っている。その先は道路右側に歩道があり、ここが水路だった可能性はありそうだ。
くねくね
ところどころくねくねとしたカーブを進む。徐々に道路は南向きに転進していくのだが、左(東)側の方が土地が高くなっていることがわかる。
分岐点
朝霞第十小学校の南側で歩いてきた古い支流跡と、写真右手前の旧流路が分かれていた。溝沼老人福祉センターへ向かう旧流路は小学校にぶつかってその先は区画整理により失われている。
一方、写真奥の住宅がある一角は道路左側に谷が食い込んだ形になっていて、旧流路はそちらに蛇行していたようだ。道路から旧流路が離れる部分だけ歩道がないのがわかるが、住宅の方に流路跡は残っていない。
歩道復活
泉橋から来た道との交差点から歩道が復活するが、すぐに歩道部分はなくなり細い道になっていく。
黒目川
そのまま進んでいくと、道路は黒目川に突き当たる。旧流路はここでいったん左岸側に移行することになる。
滝の根公園
さてここで一度右岸の崖沿いにある滝の根公園に寄り道してみよう。滝の根公園は溝沼の中低地から東の崖に食い込んだ狭い谷の脇に作られており、公園内に湧き水も出ていて親水公園として整備されている。
ここからの写真は2023/4/16撮影。
吊り橋
公園北側の谷にはなんと吊り橋が設置されている。
谷
吊り橋から崖下の谷を見たところ。狭い谷間に住宅が密集して建っている。
水路敷
公園南側のマンション駐車場から西側に向けて一区画分水路敷が残っていたが、滝の根公園から黒目川の間にはほとんど水路のあとは見られない。
地図その2
続いて、旧流路が左岸に移ったところから川越街道の新座大橋までの地図を見る。
このあたりでも右岸側には崖下の大きな中低地があるのだが、河岸段丘となっているようで流路の跡は見られず、朝霞第四小学校の南に谷筋だけが残っている。
道路
左岸側の蛇行跡は道路として使用されている。
なお、この道路を挟んで左(南)側は膝折町四丁目、右(北)側は住居表示が実施されておらず大字溝沼字泉水前となっている。朝霞市は明治22年(1989年)に新座郡膝折村と岡、台、根岸、溝沼の各村が合併して新たに膝折村となったあと、明治29年(1896年)に北足立郡に編入、昭和7年(1932年)に町制施行時に解消して朝霞町となった(昭和42年市制施工)。
朝霞の名前は村内にこのとき開設された東京ゴルフ倶楽部の名誉総裁、朝香宮鳩彦王(やすひこおう)にちなんでいるが、膝折は川越街道の膝折宿を元にしており室町時代の武将 小栗助重(のちに出家して宗湛=そうたん=を名乗り室町幕府の御用絵師となる)が賊に追われて当地まで逃れてきた時に乗ってきた馬が膝を折って死んでしまったことに由来するという。
ここからの写真は2023/4/9撮影。
蛇行
途中、黒目川の方へ分かれていく道があるが、これも水路跡のようだ。
水路跡
一方、黒目川と離れていく方の道路も途中で水路敷として分かれていくが、その先通り抜けることはできない。
遊歩道
黒目川に一旦戻り、道路から少し上流寄りにある黒目川から黒目川通りへ抜ける遊歩道を見る。こちらも水路の跡と思われる。
分岐
遊歩道とさきほどの水路敷の続きは、黒目川通りの手前で分岐している(上流側からみたところ)。
崖
黒目川通りから西側の崖を見たところ。この辺りではかなりの高低差があるのがわかる。蛇行跡はここから黒目川方向へ向きを変え、パチンコ店の駐車場を抜けていくのだが、そのあたりでは水路の跡は残っていない。
排水口
駐車場の河川敷側に回って黒目川右岸を見たところ。蛇行跡との合流点には大きな排水口が見える。
駐車場の中で蛇行跡は右岸、左岸の流れが合流しているのだが、とりあえず右岸側の方から見ていこう。
未舗装
右岸の河川敷から未舗装の水路敷が上流に向かっており、その先は道路として使われている。
くねくね
黒目川に並行して南へ向かうくねくねとした水路跡。
車止め
旧川越街道の手前に車止めがあり、標識はないが自動車は通過できないようになっている。
砂利路
旧川越街道の南には、砂利路が続いている。
コンクリート舗装
途中でコンクリート舗装に変わった水路敷は、旧川越街道の旧道(江戸時代の川越道中)を渡り、ガードレールの車止めを越えてさらに南へ進んでいく。
突き当たり
最後は住宅に突き当たってそこから上流はたどれなくなる。現在の黒目川と別れるところは少し上流寄りにあり、そこだけ新座市が右岸側にはみ出した飛地になっている。そこから先は左岸側に蛇行跡が残る。
飛地
黒目川右岸河川敷から新座市飛地部分を下流方向に見たところ。
水車
ここでいったんパチンコ店の駐車場で合流していた左岸側の蛇行跡を探してみる。駐車場の上流部分はコンクリート工場の敷地になっていて痕跡は残っていない。旧川越街道の黒目川橋南側に「ひざおり水車広場」という水車のモニュメントが置かれた場所があり、その下に排水口が見える。写真奥の道路が左岸側の蛇行跡だ。
江戸時代の明和元年(1764年)から始まって昭和10年代まで黒目川沿いには多くの水車があり、粉挽き、油搾りなどから、天保2年(1831年)から4年(1833年)にかけて銅を伸ばして針金などを作る伸銅作りが行われるようになったという。
ここからの写真は2023/7/17撮影。
Uターン
道路はすぐに黒目川に向かってUターンしている。
南へ
その先は、黒目川に沿うように南へ向かう。
分岐
道路は旧川越街道旧道の大橋付近で黒目川から分かれていた。
丸
大橋を渡って上流よりの右岸に丸型の排水口があるが、これが蛇行跡の出口なのかどうかは接続する水路敷がないためよくわからない。
ここからの写真は2023/4/9撮影。
角
さらに上流寄りの右岸に角形の排水口がある。ここから写真奥の道路も旧流路であったようだ。
空き地
道路の先には、大きな空き地があった。空き地は川越街道に向かって緩やかにカーブしていて、ここだけ旧流路がそのまま水路敷として残されているものと思われる。
川越街道
駐車場北側から空き地越しに川越街道を望む。この先は畑中の水路敷で取り上げているのでそちらをご確認いただきたい。
土管
大橋まで戻りつつ左岸側を見ると、こちらにも比較的大きな排水口がある。蛇行跡とは別に、この位置へ川越街道から流れていた用水路があったようで、そちらも見に行ってみよう。
用水路
用水路は蛇行跡と交差する形で南東から流れてきており、川越街道と旧川越街道の間を幅広の道路として進んでいる。
分かれ道
途中、道路は膝折公園前に向かうが、用水路は写真中央奥の細い道の方だったようだ。
川越街道へ
その後、しばらく進んだところで右折して川越街道へ。川越街道から上流はこちらも畑中の水路敷で取り上げているのでご確認いただきたい。
住宅展示場
新座大橋から黒目川河川敷の右岸側に下りて、左岸側の住宅展示場あたりを下流方向に見たところ。写真左側の駐車場部分は朝霞市の飛地となっており、古くはそこに蛇行跡があったのかもしれない。
コーナンドイト
対岸に渡って左岸側を見ると、こちらには四角い大きな排水口が口を開けていた。写真右側のビルあたりは今度は新座市の飛地になっており、写真奥のコーナンドイトに向かって水路があったらしい。この辺りでは水路敷と市境は必ずしも一致しておらず、市境の方がおそらくは古い黒目川の流れに沿っているのではないかと思われる。
何度も書いて恐縮だが、続きは畑中の水路敷でまとめてあるのでご確認いただきたい。
by Natrium