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黒目川とその支流(楊柳川)
地図その1
OpenStreesMapで楊柳川下流部を見る。
楊柳川は黒目川と落合川の間を流れる黒目川の支流だが、現在で流域は全て暗渠となっている。
楊柳(ようりゅう)とはカワヤナギもしくはヤナギそのものを指すか、絹織物の縮緬(ちりめん)という言葉だが、楊柳川の由来は名古屋城の別名である楊柳城とされ、現在の東久留米市八幡二丁目(旧前沢村)付近に尾張徳川家の御鷹場(鷹狩りをする場所)にあった楊柳沢御殿(前沢御殿とも)から取られたという。
(参考:「くるめの文化財 第6号」東久留米市教育委員会、1990)
橋跡
東久留米の廃減水路で見てきた黒目川蛇行跡の続きから。
蛇行跡は大圓寺山門前から曲橋を渡って前沢交番前交差点に向かう道路と交差する。元々の曲橋はここに架かっていた。
楊柳川
交差点からしばらく進んでいったところで現在の楊柳川暗渠との合流点を迎える。楊柳川は後で見ていくとして、先に蛇行跡を見てしまおう。
ちなみに東久留米市中央図書館に所蔵されている「東久留米市水路・河川網図(1:6000)」(以下では「河川網図」とする)には楊柳川は小平排水と記載されており、小平市の錦城高校北側から流れて楊柳川源流近くで楊柳側に注いでいる小平排水の一部として扱われていたようだ。
いなりやま緑地
黒目川と蛇行跡の分岐点から下流方向を見たところ。さきほど謎だった標識がこちら側ではなんとか読み取れて、「いなりやま緑地」と書かれていることがわかった。
稲荷山というのは旧左岸側(現在は蛇行跡と本流の間)の字名だが、稲荷神社があったのかどうかはわからない。
排水口
左岸側から分岐点を見たところ。楊柳川の水は現在こちら側に向かって流されているようで、大きな排水口が緑地の下から出てきている。
この写真は2023/6/7撮影。
蓋暗渠
さて、ここから楊柳川本流を見ていこう。さきほどの合流点から南へ向かってかなり幅の広い蓋暗渠が残っている。
ここからの写真は2023/6/4撮影。
崖
蓋暗渠は南に進んだところで崖に出会う。この蓋暗渠は特に通行止めともされていないので、入っていってみることにする。
東側
突き当たりから東側を見たところ。ほんちょう広場の前を通っていた廃滅水路は河川網図のうえでは現用水路としてここから崖下に沿って流れていたようだ。このあたりには水路らしきものが残っている。
ここからの写真は2023/6/7撮影。
蓋と階段
一方、楊柳川本流は西から蓋暗渠の下を流れてきている。写真中央付近に南から階段が降りてきていることをみると、蓋暗渠は通路として使用されているようだ。
崖が後退
さらに蓋暗渠を進んでいくと、いきなり左(南)側の崖が後退していく。写真には写っていないが左側には幸第一緑地という公園があり、全国Q地図の東京都3千分の1地図(1961〜1962年)には、河川網図でも水路としては扱われていない場所に水路が描かれている。ここに古くは楊柳川の支流が合流していたということのようだ。
崖上
振り返って崖が後退していくところを見る。崖上には緑地があり、おそらく支流の水路は崖下を流れていたと思われるが、水路敷としては残っていない。
ここからの写真は2023/10/17撮影。
幸第一緑地
崖上の幸第一緑地まで行ってみた。あまり人が入っている気配はない。
支流の崖
幸第一緑地の下から崖は西に向かって伸びている。途中までは道路もなく、道路から崖が見えるところまで回り込んで下流側を見たところ。
支流跡
そこから上流方向に全国Q地図に描かれた支流が道路として残っている。
石垣
石垣の崖を見ながら進む。この辺りでは崖下の擁壁に石垣を使ったところが多く、かなり古い時期に開発が進んでいたことがわかる。
支流の上流端
支流の上流端は写真奥の小山通りに突き当たるあたりだった。手前に向かって谷筋になっている。
段差
再び楊柳川の蓋暗渠に戻って西へ。途中かなりの高低差がある段差を越えていく。
ここからの写真は2023/6/7撮影。
保育園
蓋暗渠は道路を渡り、アスファルト舗装となって写真右に見える保育園の前を通り抜けていく。
車止め
水路敷は保育園の脇を通り過ぎたところで蓋暗渠に戻り、いったん南に曲がってから再び西へカーブして小山通りを横断する。
小山通りの西側には、幅広い蓋暗渠にたくさんの車止めが設置されている。
ここからの写真は2023/6/4撮影。
グレーチング
蓋暗渠は南へ、西へと向きを変えながら畑と住宅の間を抜けていく。写真手前に見えるグレーチングの下には、現役の水路が結構な勢いで流れていた。
遊歩道
畑の南側まで来たところから上流は、インターロッキング舗装の遊歩道として整備されている。
横断
遊歩道は道路を横断してさらに西へ向かう。
ジグザグ
ジグザグに進んでいく遊歩道。
さいわい通り
さいわい通りと交差するところ。通りの西側でいったん遊歩道が途切れている。
続き
さいわい通りの西側、駐車場の横から遊歩道が復活していた。
高低差
写真左(南側)がやや土地が高くなっているのに対して、黒目川よりの右(北側)は平らになっている。ただし、全国Q地図で東京都3千分の1地図(1967年)などを見ると、北側にも微高地があるのがわかる。
看板
水路はさいわい通りの西から徐々に北に寄っていき、写真奥の車止めで道路を渡って今度は南に寄っていく。
埋設物
車止めの脇にある看板には「この河川」と書かれており、遊歩道が現在でも河川扱いであることが伺える。
幅広
南へ向かう楊柳川上流は道路の一部となっている。
気になる
しばらく道路を進んでいったところ。矢印の部分が気になった。
廃減水路?
矢印の部分、塀と塀の間に排水路が落ちてきている。位置としては、南側にある米津(べいしん)寺境内を通り抜けている前沢の廃減水路ではないかと思われるのだがどうだろう。
米津寺
米津寺は万治2年(1659年)開基の臨済宗妙心寺派寺院で、武蔵国久喜藩主から出羽国長瀞藩主となった譜代大名・米津(よねきづ)家の墓所がある。米津家はこのあたりの前沢村などに所領(知行地)があり、この地に墓所を定めたという。
遊歩道?
さて、その先では再び道路と分かれアスファルト舗装の水路敷となる。写真左奥には小さな祠が見える。
階段
途中、崖上に上る大きな階段がある。
幸第3緑地
崖上の幸第3緑地から見た楊柳川の水路敷。このあたりでもまだかなりの川幅があったように見える。
畑
緑地の西側は農地となっており、緑地のある住宅地とはかなり高低差がある。Google Mapで過去のストリートビューを確認すると住宅地のところは嵩上げされているようで、本来はこちらの農地のように南へ向かって徐々に高くなっていく地形だったようだ。
小金井街道
水路敷は小金井街道に出会う。楊柳川は写真左側の北浦通りになっているようだが、ここで写真右側にも水路跡と思われる場所があるので少し寄り道しよう。
歩道
小金井街道の西側歩道がやたらと幅広く、車止めのたっているあたりが水路敷ではないかと思われる。写真右奥のガソリンスタンドと駐車場の間に、水路敷と思われる細い路地がある。
路地
細い路地に入ってみよう。
水路跡
進んでいくと、途中で西向きは完全に水路敷になっている。入っていくことは難しそうだが、Google Mapで見ると写真の先で行き止まりになっているのがわかる。
古地図などでもこの水路敷は確認できないのだが、駐車場のあたりはもともと田んぼなので楊柳川の水を田んぼに取り入れたあとの排水路があったのかもしれない。
北へ
路地の方はそこから北へ向かって八幡第4緑地近くの道路に出て終わっている。こちらが水路敷なのかどうかは確証は持てない。
地図その2
OpenStreetMapで小金井街道から楊柳川上流端を見る。
北浦通り
戻って北浦通りを西へ進む。写真右側(北寄り)だけ歩道があるが、こちらが暗渠部分かもしれない。
カーブ
北浦通りは緩やかに左右へカーブしながら八幡(はちまん)団地東交差点に向かう。
交差点
八幡団地東交差点から先は、道路脇に幅広い水路敷がそのまま残っている。
稲荷神社
交差点から南の坂道を上ったところにある稲荷大明神。扁額にはおそらく瘡守(かさもり)大明神とも書かれており、天然痘の平癒祈願のために建てられたのかもしれない。
この神社の北側に広がる墓所のあたりは廃寺となっている延命寺の境内だったところで、ここに最初に書いた楊柳沢御殿(前沢御殿)が寛永18年(1641年)から延宝4年(1676年)まで置かれていた。
神社の前で突き当たりとなっている道路は都道234号前沢保谷線(都道は南に曲がってもう少し続いている)で、旧延命寺と米津寺がある街道沿いは前沢宿という宿場であった。
(参考:「くるめの文化財第22号」東久留米市教育委員会、2006)
蓋暗渠
一方楊柳川の方は八幡団地の前で蓋暗渠になっていた。全国Q地図の東京都3千分の1地図(1969〜1970年)などを見ると団地ができる前は道路もなく、少し蛇行しながら楊柳川が流れていた様子が見て取れる。
団地と蓋
八幡団地の前を抜けていく蓋暗渠。暗渠の上を越えている配管は送水管だろうか。かつては写真右側にも団地があったのだが、現在は改築中のようだ。
上流へ
団地の中で道路は南へカーブしており、団地南端では楊柳川は道路よりも東寄りから流れてきている。
最上流部
団地南側に台地側にある八幡第七緑地へ上っていく小道があるのだが、そこから西方向に楊柳川最上流部の水路敷を見ることができる。ここから先は入っていくことができない。左側の崖がやたら高低差があるように見えるが、ここも住宅地の開発で嵩上げされているので元々いきなりこれだけの高低差があったわけではないが、緑地に向かっては結構な斜度で上がっていくためそれなりに崖地ではあるようだ。
上流端
階段の途中で木立越しに上流端を見ることができる。上流端は都道4号(所沢街道)にあるコンビニの駐車場下からいきなり始まっており、古くはこの辺りに湧き水があったのではないかと推測される。
八幡第七緑地
崖を上ってきて八幡第七緑地の看板越しに崖下方向を見たところ。ここには、小平市の錦城高校北側の新青梅街道を渡ったあたりから始まる小川用水の末流「小平排水(小平排水溝)」が流れていたと「東久留米市水路・河川網図」に描かれており、河川網図では楊柳川そのものも小平排水と記載されている。
旧久留米村役場跡
楊柳川上流端から所沢街道を南へ上り、すぐに左(東)に曲がったところにある東久留米市環境部が入っている場所は、明治10年(1877年)に周辺の前沢村、下里村、柳窪村が共同で設立した成蹊小学校があったところで、明治22年(1889年)に前沢村などが合併して久留米村が誕生した際には村役場が置かれた場所でもある。
前沢八幡神社
落合川最上流部との分水嶺を通る都道234号前沢保谷線を少し下流方向へ進んでいったところにある前沢八幡神社。楊柳沢御殿(前沢御殿)があった正保元年(1644年)から延宝4年(1677年)ごろの創建とされるが、それ以前の元弘年間(1331〜1334年)に新田大明神という神社があった。元弘の乱で鎌倉幕府北条得宗家を倒し鎌倉時代を終わらせた新田義貞の次男、新田義興が勧請したと伝わるが、現在ではその新田義興を祭神として祀る新田神社が境内にあるそうだ。
河川網図によれば、八幡神社近辺から前沢宿に向かって廃減水路が描かれており、楊柳沢御殿の手前で南北別れたあと米津寺の境内で合流して楊柳川へ流されていた。この廃減水路は断片的にしか残っていない。
水路敷
その廃減水路の断片として、小金井街道の前沢宿バス停(清瀬駅、東久留米駅方向)向かいに残る細い水路敷。
砂利路
米津寺の参道近辺にも、何ヶ所か水路敷と思われる空間が取り残されている。
石橋供養塔と力石
最後におまけで楊柳川北側の黒目川周辺を少しみておこう。大圓寺通りを西へ進み、黒目川を渡る中橋から北へ向かう小山通りとの交差点に石橋供養塔が建てられている。看板には明治23年(1890年)に中橋と上流側の落馬(おちば)橋、下流側の曲橋を石橋として作った時の供養塔とある。石橋供養塔は埼玉県を中心に関東に多くある江戸時代からの民間信仰で、通行の安全を祈願したとも、橋を疫病や災いが渡らないように願ったものとも言われている。
供養塔の前には3つの力石があり、若者が力自慢のため力石を担いで坂登りの競争をしたという。一番大きい石には45貫と彫られているそうで江戸時代の1貫=3.75kgで換算すると約169kgもあり、本当にそんな重さのものを担いで走れたのかは定かではない。
ここからの写真は2023/6/7撮影。
御嶽神社
その力石を担いで登ったであろう坂の上には御嶽神社がある。由緒は明らかでないが、近辺にはいくつか御嶽神社を奉じる御嶽講があるようなのでここもその一つかもしれない。おそらくは「おんたけ」と読む木曽の御嶽教ではなく、「みたけ」と読む青梅市の武蔵御嶽神社の系統ではないだろうか。
堂坂
御嶽神社脇から下り方向に見た坂道。坂学会のサイトによれば堂坂(東久留米には神宝町にも堂坂があるがそれとは別)というが、この坂道を169kgの力石を担いで登ってきたということか。
坂本橋
中橋のひとつ上流側にある歩行者専用の坂本橋南詰にある「桜の公園」は黒目川の蛇行跡にある。この公園は東村山都市計画道路3・4・21号小平久留米線のルート上にあり、ちょうど写真手前の位置あたりから写真左奥に向けて計画道路が抜けていく予定になっている。このため、地元では計画道路に反対運動があるようだ。
東久留米総合高校
桜の公園の対岸から上流の落馬橋方向を見ると、南詰にある東久留米総合高校のほうに向かって矢印の位置に水路敷がある。手前の矢印へ南から向かってくる水路敷と、高校の方から奥の矢印を通って手前に塀沿いを進み手前に合流する二つがあるようだ。奥の矢印の水路敷は、河川網図で廃減水路として記載されている。
砂利
東久留米総合高校通りから見た廃減水路。
ポスト
そこからすぐ南側、郵便差出箱1号(丸型)いわゆる「丸ポスト」の手前から下流方向に向かう砂利路は廃減水路として河川網図に描かれていない(東久留米総合高校通りの歩道は廃減水路として記載されている)。こちらの水路敷は途中で道路になって、最終的にはさきほどの落馬橋下流側にある下流よりの水路敷につながっている。
by Natrium