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白子川周辺の水路敷群(南一丁目・土支田四丁目の水路敷)
地図
OpenStreetMapで和光市南一丁目付近を見る。
白子川の左岸で、和光市立第五小学校の周りにぐるっと水路敷が通っているので、そこを探索してみる。
芝屋橋
東京都練馬区と埼玉県和光市の県境にある芝屋橋からスタート。橋の北側に、突然広い歩道が現れるが、ここが今回進む水路敷の合流点にあたる。
ここからの写真は2017/2/19撮影。
畑
川べりの谷間には、まだ畑が残っている。
あいさつ通り
第五小学校沿いの歩道には「あいさつ通り」という名前が付けられている。防火水槽の取水口が並ぶ先で、水路敷は左に曲がる。
小学校脇
第五小学校の周りを取り囲むように幅の広い水路敷が進んで行く。
道路へ
突き当たりで右に曲がってすぐに道路に合流。左へ転身する。
正門前
第五小学校の正門前を水路敷は西へ。
分かれ道
道路が坂道を上って行くところで、水路敷は校舎に沿って左へ。
遊歩道
ここから先は遊歩道として整備されている。
遊歩道の終わり
小学校の先、南児童館の角で遊歩道は終わり。
坂道
道路に出たところで右側にはかなり高低差のある崖が現れる。写真は崖上に向かう坂道を見たところ。
脇道
崖下の道路を進んで行くと、白子川に向かって水路敷と思われる草むらがあった。
崖下
自然崖の下をやや広めの道路が続く。
分岐点
そのまま、白子川からの分岐点にたどり着いた。
上流から
上流側から分岐点を見る。崖と崖の谷間に、住宅が密集して建っているのがこのあたりの特徴。
都県境
さて、ここからは改めて和光市南一丁目と、白子川の対岸にある土支田四丁目の水路敷を見ていく。OpenStreetMapで周辺の地図を見る。
芝屋橋から上流部分の白子川は昭和33年(1958年)の22号台風(狩野川台風)による水害を契機に蛇行が激しい流路の改良を行うことになり、昭和35年(1960年)に現在の流路に改修された。その結果、川の両岸に埼玉県大和町(現和光市)と東京都練馬区の土地が飛地として取り残される形となったため、昭和36年(1962年)7月に都県境の変更が行われた。
北足立郡大和町大字白子(現在の和光市南一丁目)からは字牛房田の一部(現在の和光市立第五小学校対岸2ヶ所)と字俵久保の南半分程度、字西俵久保のほぼ全域が東京都へ移管され、練馬区土支田町(現在の土支田四丁目)からは旧下土支田村字俵久保の一部が埼玉県へ移管された。
改修前の旧白子川流路跡はほとんどが宅地化され痕跡をとどめていないが、その周辺には支流や分流の痕跡が残っているのでそれらを見ていこう。
なお、牛房田」の読み方については資料が見当たらない。「牛房」は「ごぼう」と読むのでおそらくは「ごぼうだ」と思われる。また、俵久保という字名は土支田(どしだ)通り南北に広がる大きな地名で、北側は現在の土支田四丁目となっていて大泉町一丁目が埼玉県新座郡小榑村だった頃は三方を埼玉県に囲まれたところにあった。白子村字俵久保はその北側に小さく張り出したところにあり、北側は現在和光市南一丁目の一部となっている。
参考資料は以下の通り。
・国立国会図書館デジタルコレクション:「練馬区勢概要 昭和36年版」(練馬区, 1962)、「和光市史 史料編3(近代現代)」(和光市, 1984)
・国土地理院Webサイト:「旧1万地形図(石神井)昭和12年測量」(大日本帝国陸地測量部, 1940)、「旧1万地形図(成増)昭和12年測量」(大日本帝国陸地測量部, 1940)
・全国Q地図「東京都3千分の1地図(1965〜1966年)
地籍マップβ版
都県境の水路
まずは芝屋橋の南側、都県境に沿って残る水路を見る。左右に別れる道路の間にグレーチングで蓋をされた水路跡があって、南側の駐車場に向かっている。
ここからの写真は2026/1/4撮影。
駐車場
東京都3千分の1地図(1965〜1966年)では駐車場の奥、写真右側のあたりから水路が描かれている。
石垣
さらに駐車場の南側、袋小路の奥に見える石垣の手前に水路敷が残っているが、ここから南側の谷頭にはアプローチする場所がない。
クランク
一方、東京都3千分の1地図にはさきほど見て行った南一丁目の水路敷に北から合流してきている水路が描かれているが、マンション敷地に突き当たって西寄りに曲げられている。
崖と階段
曲がった先は階段のある崖となっている。地図では水路が写真左から来てマンション敷地を通っているのだが、宅地開発に伴って写真左側は嵩上げされているようで、水路の跡は消えている。
牛房田
続いて芝屋橋から上流側、第五小学校脇の河川敷から対岸の旧字牛房田を見たところ。埼玉県から東京都に移管された部分(写真奥の住宅手前)だけ住宅地になっていないが、住宅地にしようにも道路がつながっていない。
俵久保
少し上流に白子川が南北に蛇行していた場所がある。
写真左寄りに埼玉県だった場所があり、右奥には東京都だった場所がある。
窪み
対岸(右岸)に渡って蛇行跡を白子川方向に見る。白子川は写真手前の電柱付近(道路が窪んでいる)に左から出てきて、道路付近で北に曲がり写真斜め右奥へ流れていたはずだ。現在ではすっかり住宅地になっている。
ちなみにこの道路自体も地籍図では水路敷として描かれている。
庭球場
前の写真手前の交差点から西へ向かう道路。写真左奥には練馬区立土支田庭球場が見えるが、地籍図ではさきほどの交差点からこの道路を八坂中学校西側まで水路敷が描かれている。
この写真は2026/1/9撮影。
行き止まり
ひとつ西側にある行き止まりの道。区画整理されてしまっているため流路跡は残っていないが、対岸(左岸)にある写真奥のマンション下流側に出てきて、道路手前の方に流れ、写真右の駐車場方向へ流れていたはずだ。
ここからの写真は2026/1/4撮影。
谷筋
前の写真から振り返ってみると南側に庭球場が見えるのだが、庭球場を東側からぐるっと回り込むように浅い谷筋がある。
写真は庭球場南側からさらに南へ伸びている谷筋を見たところで、写真奥には擁壁で嵩上げされた住宅の脇に谷頭の坂道がある。
この谷筋は古いもののようで、水路があった記録は見当たらない。
未舗装
左岸に戻って左岸にはみ出している旧都県境(だいたい点線のあたり)を見たところ。
左岸側の河川敷にある道はちょうど旧都県境付近で未舗装の行き止まりとなっている。
排水口
水路跡の道路が河川敷に出たところから右岸方向を見たところ。
対岸に見える旧家の右脇の方から旧家の北側を回って分流が白子川に合流していたが、合流点のところに排水口があるのがわかる。
俵久保
そこからやや上流寄り。分流の流路跡と旧都県境はここでは少しずれがあり、旧都県境の方がやや上流にある。
右岸側水路敷
右岸側に回ってやや下流側にも白子川(写真奥)に向かう水路敷が残っている。このあたりに向かって分流の末端部のひとつが東西に流れていたはずだが、宅地化されてしまっていて痕跡は残っていない。
水路敷と路地
その水路敷南側にある道路を下流方向に見たところ。点線部分に地籍図で水路敷が描かれているのだが、上流側は途切れていてどこにもつながっていない。
位置関係から考えておそらく分流の末端部から付け替えられた水路の跡ではないかと思われる。
ここからの写真は2026/1/9撮影。
切れ端
そこから西側を南北に通る道路。なぜか白子川の手前、写真左の駐車場前の少し道路が広がっている部分だけ地籍図で水路敷として描かれていて、周辺とはつながっていない。
ブルーベリー園
分流末端のひとつはブルーベリー園の北側(写真奥の木立手前)を流れていた。
ちなみに練馬区には約30ヶ所のブルーベリー観光農園があって、6月から9月には摘み取り体験ができるそうだ。
ここからの写真は2026/1/4撮影。
分流
ブルーベリー農園の西側。
地籍図ではここで白子川分流が2本交差して下流に向かっている。
一方大字白子の張り出し部分も交差していて、写真左に見える練馬区立八坂中学校の校庭東端を白子川方向へ旧都県境が通っている。
八坂中学校東側
八坂中学校東側を白子川に向かう道路。分流は道路を横切っているが、そこから白子川に向かって道路の左右に地籍図上では水路敷がある。
この写真は2026/1/9撮影。
八坂中学校
八坂中学校南側を通る道路を西向きに見たところ。白子川分流は道路よりもやや北寄り、中学校の校庭部分を流れていた。
庭球場の方へ向かう水路敷は、地籍図では写真右側の倉庫前あたりから唐突に始まっている。
八坂中学校の校庭に地籍図には3本の水路敷が描かれているが、いずれも水路の跡は残っていない。
ここからの写真は2026/1/4撮影。
越後山橋東
白子川に戻って越後山橋から下流側を見たところ。八坂中学校北側から出てくる旧都県境はここで現在の白子川と合流している。
旧都県境が出てくる位置にも地籍図上は水路敷があるが八坂中学校敷地内で失われた3本の一番東側にあたり、白子川に突き当たる行き止まりの路地だけが残っている。
越後山橋
越後山橋から和光市方向(北)を見たところ。正面の道路(坂道)は越後山と呼ばれている旧白子村の台地から下りてくるのだが、坂道には全国Q地図の東京都3千分の1地図(1965〜1966年)に水路が描かれている。ちょっと寄り道してみよう。
排水
ちなみに越後山橋のたもとには北側から流れ出ている排水口が見える。
急坂
西向きに崖を上る坂道は結構な急坂で、上り切ったところが丁字路になっている。
子育地蔵
丁字路の西側にある子育地蔵。地図では電柱の右側に水路が描かれており、写真ではわかりにくいが奥の方に水路敷らしき残余地も残っている。その先は旧家があり、湧水か井戸があったのかもしれない。
越後山の森緑地
さきほどの坂道の途中から南に上ったところにあるのが越後山の森緑地だが、ここは練馬区大泉町一丁目で対岸は練馬区土支田四丁目。崖下の一角だけ和光市南一丁目が出っ張った形になっているのだが、もとは右岸側にあった旧大字白子字西俵久保の根元になっていた部分で東京都に移管されずにそのまま和光市に止まっている。
全国Q地図の東京都3千分の1地図(1965〜1966年)などいくつかの地図ではこの出っ張りが東京都であるかのように描かれているが、国土地理院Webサイトの「旧1万地形図(石神井)」(1937年測量)では白子村の一部として描かれており、東京都側であったことはないように思われる。
越後山橋西
越後山橋まで戻って白子川上流方向を見たところ。白子川右岸方向に向かって旧字西俵久保がある。
ちなみに写真右奥の大泉町一丁目となっている部分は旧新座郡小榑(こぐれ)村の飛地(字越後山)で、明治22年(1889年)に橋戸村と合併して榑橋(くれはし)村となったあと明治24年(1891年)に石神井村大字上土支田(旧上土支田村)などと合併して東京府北豊島郡大泉村となった地域で、1891年までは埼玉県だった。
越後山という地名は小榑村、橋戸村、白子村の3村にまたがっており古くは越後の人が開拓した土地だったことからそう呼ばれたというが、付近一体には縄文時代から住民がいた遺跡が複数見つかっている。
(参考:練馬わがまち資料館「旧地名12<橋戸村 はしどむら>」など)
八坂歩道橋
南一丁目の西端付近から白子川上流方向。写真右側にある八坂歩道橋までが南一丁目で、橋を渡った右岸側が旧字西俵久保となる。
なかざと幼稚園
左岸側を少し上流に進んだところ、越後山の森緑地の南端にフェンスで囲まれた一角があるが、ここには湧水池がある。
湧水池
フェンス越しにみた湧水地。公開はされていないが池として管理されているようだ。
体育館
右岸側、八坂中学校南側の道路から中学校の体育館方向を見たところ。体育館のある部分は道路の左写真から外れたところも含めて西俵久保がやや東側に膨らんだ形になっていた。
ここから道路と旧都県境は南に向かうが、白子川分流は西にある八坂小学校方向から流れてきていて、旧都県境とは微妙に一致していない。
八坂小学校
中学校からの道路が越後山橋からの道路と合流するY字路から八坂小学校方向を見たところ。
旧都県境は写真正面の住宅付近を通っていたが、分流の方は八坂小学校脇の道路部分を流れていたようだ。八坂小学校の敷地はほぼ全域が西俵久保の領域にある。いずれにせよ、西俵久保を含め都県境が変更された昭和36年の時点で交換された土地に住んでいる住民はゼロで、交換に際して特に問題とはならなかったらしい。
小学校前
八坂小学校と八坂中学校の間にある白子川へ向かう道路の両側にも地籍図で水路敷が描かれている。小学校校庭にも水路敷があるが、こちらの水路跡は失われている。
この写真は2026/1/9撮影。
分岐
旧都県境は小学校脇の道路途中で道路に合流しており、道路が白子川に突き当たって左(上流側)に曲がっている場所が旧都県境の南端であり、白子川と右岸の分流が分かれていた分岐点でもあった。
ちなみに川向こうに見える右側の住宅の部分(右の木立がある八坂台児童公園に隣接している)だけ白子川左岸に河川敷の通路がないのだが、白子川が若干手前の方に蛇行していたためらしい。
この写真は2026/1/4撮影。
土支田八幡宮
最後に八坂小学校前から坂道を上ったところにある土支田八幡宮。
鎌倉時代末期の創建と伝わっており、江戸時代までは天神社、北の神社、俵久保の天神様などと呼ばれていた。社伝では元弘3年(1333年)新田義貞が分倍河原の戦いで一度敗れた際、家臣で新田四天王筆頭とされた篠塚時成がこの八幡宮にて戦勝を祈願した御利益により逆転勝利し鎌倉へ軍を進めたという。境内にはその時に植えられたという「伊賀の松」があったが、現在は古い切り株のみが残っているそうだ。
(参考:国立国会図書館デジタルコレクション所蔵「練馬区の歴史(東京ふる里文庫;1)」練馬区郷土史研究会/東京にふる里をつくる会, 1977、「練馬の伝説」石神井図書館郷土資料室, 1977など)
この写真は2026/1/9撮影。
by Natrium