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妙正寺川・井草川の水路敷群(中新井川と中村用水)

OpenStreetMapで中新井川と中村用水を俯瞰した地図。中野区では江古田川と呼ばれていた川は、上流の練馬区では中新井川と呼ばれている。
中新井は豊玉地区の旧村名で、ねりまの地名今むかし 現町名16<豊玉 とよたま>によれば西側の「中」村が中世に新たに開墾した土地で「アライ」と呼んでいたのが、江戸時代には「中荒井」または「中新居」、明治時代には「中新井」で定着したらしい。
今回は、中新井川と、そこに千川上水から水を引いていた中村用水を見て行こう。
(2025/5/2追記)練馬区の水路敷ペイントを探す過程で見つかった都道442号北町豊玉線(庚申通り)の支流を追加した。
中新井は豊玉地区の旧村名で、ねりまの地名今むかし 現町名16<豊玉 とよたま>によれば西側の「中」村が中世に新たに開墾した土地で「アライ」と呼んでいたのが、江戸時代には「中荒井」または「中新居」、明治時代には「中新井」で定着したらしい。
今回は、中新井川と、そこに千川上水から水を引いていた中村用水を見て行こう。
(2025/5/2追記)練馬区の水路敷ペイントを探す過程で見つかった都道442号北町豊玉線(庚申通り)の支流を追加した。

下徳殿橋から下流の江古田川方向を見る。下流方向は改修済みの川道で、中野区内ではよく見る川底に細い流路が作られた形になっている。
ここからの写真は2020/3/11撮影。
ここからの写真は2020/3/11撮影。

上流側は練馬区の管理で、中新井川緑道という名前の遊歩道になっている。

次のブロックでは遊歩道はなくなり中央の緑地帯となっている。写真中央に見えるように、川筋が練馬区と中野区の区境になっており、左側の道路は中野区側になっているようだ。

練馬区が設置した看板の裏側(緑地帯側)には、ここが中新井川であることが明記されている。あえてこういう風に書かねばならないあたり、かつての状態が想像されるが、現在の緑道はきれいに整備されている。

緑道がもっとも南側に来たあたりにある徳殿公園。徳殿というのはこの辺りの小名(字)で、練馬の地名 今むかし(豊玉)によれば、年貢を免れて得した田んぼがあったので「得田」が「徳田」となって、中荒井村(中新井村)の小名としては「徳殿」となっていたのだという。
ところで、現在横断歩道は緑道を避けて描かれているのだが、その手前(写真左)にあるガードレールで封鎖された空間はもともと歩道として設計されていたのではないだろうか。
ところで、現在横断歩道は緑道を避けて描かれているのだが、その手前(写真左)にあるガードレールで封鎖された空間はもともと歩道として設計されていたのではないだろうか。

緑道の中央にそびえ立つ満開の桜。

桜の木の北側には、支流と思われる水路敷が流れ込んできている。先にこちらを見てみることにしよう。

水路敷は豊玉中学校に阻まれていったん痕跡を失っている。

豊玉中北側では、ゆるやかにカーブした道路になっている。

コジマの北側に回り込んで環七通りにぶつかったあたりが上流端だったようだ。

環七通りの下では、水害に備えた大規模な地下調整池の建設が進んでいる。環八通りと目白通りの交差点にある石神井川立坑と、野方駅南にある妙正寺川立坑を結ぶ全長5.4kmのトンネルを作り、西側の白子川調整池と、南側の神田川調整池を結ぶらしい。

中新井川に戻る途中にある豊玉氷川神社。この地に最初に勧請されたのは北野神社だそうだが、その後須賀神社が作られ、現在は氷川神社が主神となっているという。境内にあった古木から鎌倉時代には開かれていたのではと推定されている。

隣接する正覚院は太田道灌が江戸城を築城していた長禄年間(1547〜60年)に天満宮(現在の氷川神社)の別当寺として創建したと伝わる。

再び中新井川緑道へ戻り、豊玉南小の脇を進んでいく。

緑道は環七通りを跨いで西側にも続いている。

環七通りを渡る歩道橋から西側の緑道を見たところ。

学田橋交差点。ここから先は緑道ではなく中新井川児童遊園になっている。
学田は、北東に位置する豊玉小学校の学校の田んぼという意味の地名だそうだ。
学田は、北東に位置する豊玉小学校の学校の田んぼという意味の地名だそうだ。

児童遊園は川筋にそって北へカーブしていく。

途中、道路が左側に分かれて行き、児童遊園は北に向かって進んでいく。

マンションの間に挟まれた児童遊園は、見た目だけなら公園のように見える。

公園の東側は昔自動車教習所があった場所で、現在は温泉施設付きのマンションになっている。写真の設備はプールというわけではないようだが、児童遊園側からも優雅な眺めが楽しめる。

児童遊園の北側で、再び道路中央に緑道が現れる。

前の写真奥に見える時計塔から先は、学田公園になっている。

学田公園は野球グラウンドを中心とした公園になっているが、かつての中新井川はここに水源(中新井池)があったとされる。
その公園脇の遊歩道を抜けて、さらに北へ向かっていく。
その公園脇の遊歩道を抜けて、さらに北へ向かっていく。

公園北側で、西から来る中村用水が合流している。とりあえず、右の中新井川を上流まで行ってみよう。

公園を過ぎたところで、中新井川は街路樹のある一方通行路として続いている。

学田公園北交差点で豊中通りを越える。豊中通りの下には、中村地区の浸水対策施設として雨水貯留管が埋め込まれている。

さらに北に進んだところで、東の豊玉公園に向かって「はなみずきのみち緑道」という緑地帯があった。水路敷なのかどうかは古地図をみてもよくわからない。

中新井川のほうは、ゆるやかな左カーブを描きながらさらに北へ。

カーブの先で並木道は終わり、ヘアサロンの横に細い水路敷が見えてくる。

インターロッキング舗装された水路敷が続いている。

最後は舗装道路になって千川通りへ。

千川通りの分水口から下流方向を見たところ。中新井川としては、ここが上流端となる。

少し日が陰ってきたが、最後に中村用水を見て行こう。

遊歩道は1ブロックで終わり、両サイドに歩道がある道が住宅街の中を抜けていく。

地面が波打っているのはこの辺りの地盤が柔らかいためだろうか。

北側だけになった歩道がいきなり行き止まりとなるが、水路敷は南側から直角に出てきている。

南北に走る並木道。

すぐに並木のない道になるが、マンションに突き当たって西へ曲がる。

道幅がここから北寄りに広がっているので、北側が水路敷だったのだろう。

道路幅がいきなり狭くなる交差点で、水路敷は北向きに。

車道と同じくらいの幅がある歩道が水路敷なのだろう。

中村小学校前で今度は西へ。

すぐに道路と分かれ、細めの水路敷として北へ。

1ブロック行くと水路敷の幅はさらに細くなる。

建設中の建売住宅の脇を西へ。

歩道が切れたところを北へ。

北に進んでいくと、歩道が少し高くなっている場所があった。縁石の上に残っているのは元の水路敷の護岸なのだろうか。

しばらく北へ進んでいくのだが、結局突き当たってまた西へ向かう。

水路が北に向きを変えていくところに、鳥居のある祠(稲荷利大神祠 不動堂)がある。右が稲荷神社、左が不道明王とのこと。写真中央を斜めに走る道路が下練馬道という古道で、川越街道から鷺宮まで結ぶ道だったそうだ。鎌倉街道の一つともされている。

祠の向かい側(前の写真を撮影した位置)には、糀屋三郎右衛門という味噌蔵がある。昭和14年(1939年)に上野からこの地へ移ってきたということだが、元は茨城県稲敷市の名主だったそうだ。

祠から下練馬道を南へ向かったところには、良辨塚がある。良辨(弁)塚は南北朝時代の僧侶で、近くの南蔵院に滞留した良辨僧都(りょうべんそうず)が延文2年(1357年)に建立されたものと伝わる。

良辨塚の敷地内には、周辺から集められた石塔群が置かれている。

さらに南へ寄り道。中杉通りの近くには幕末に創建された御嶽神社がある。

そこから南東方向には中村の鎮守である八幡神社がある。地元の言い伝えでは正保年間(1644〜48年)以前の創建といい、境内にはかつて首つぎ地蔵という地蔵尊があった(現在は南蔵院に安置されている)。首と胴体が別々の場所にあったものを、夢枕のお告げで合わせたものだという。

今度は逆に下練馬道に沿って北へ向かうと、中村北公園の向かいにある老人クラブ農園の脇に「下練馬道」の道標がある。

さて、中村用水に戻って千川通りへ向かって行こう。水路は徐々に北に向きを変え、北向きになったところに中村公園がある。

中村公園からは千川通りまで一直線に水路が北上している。

千川通りのわりと何ということもない交差点が中村用水の分水口。

分水口に北側には中村不動尊と銘打たれた不動明王が安置されている。

分水口から学田公園へ向かって戻る道すがら、中村北二丁目の民家軒先にあった地蔵尊。

学田公園の北東に位置する大きな寺院が南蔵院。良辨塚を作った良辨僧都が中興したと伝わるが、創建は不明らしい。

おまけで、練馬駅から南へ都道442号北町豊玉線(庚申通り、豊玉庚申通り)を南へ進んでいくと、通りから西に逸れたところにあるのが「三の橋庚申」という扁額が掲げられた庚申塔文字塔。三の橋というくらいで、このあたりに水路と橋があったという説もあるのだが、地図などでは確認ができない。庚申塔の北には、2014年まで庚申市場という昭和33年(1958年)築のビルがあったそうだ。

その庚申通りだが、東京時層地図の昭和戦前期を見ると目白通りから通りに沿って環七と合流するところ(中新井川緑道の北側)まで、道路右側(東)を水路が流れているように描かれている。
地籍図を見ても通り沿いに水路敷は残っていないが、三の橋庚申の近辺と、庚申通りを挟んで東側の路地に水路敷が残っているのでそこも改めて見ていこう。
写真は中新井川緑道北側で環七を渡る豊玉南歩道橋から庚申通りを北向きに見たところ。地図上の水路は南に向かう車線がUターンして環七に合流する入口のあたりまで描かれていたが、おそらくは中新井川と繋がっていたと思われる。
庚申通りは目白通りから真っ直ぐ南下してくる道で、水路はその右側(東)を流れていた。
ここからの写真は2025/4/29撮影。
地籍図を見ても通り沿いに水路敷は残っていないが、三の橋庚申の近辺と、庚申通りを挟んで東側の路地に水路敷が残っているのでそこも改めて見ていこう。
写真は中新井川緑道北側で環七を渡る豊玉南歩道橋から庚申通りを北向きに見たところ。地図上の水路は南に向かう車線がUターンして環七に合流する入口のあたりまで描かれていたが、おそらくは中新井川と繋がっていたと思われる。
庚申通りは目白通りから真っ直ぐ南下してくる道で、水路はその右側(東)を流れていた。
ここからの写真は2025/4/29撮影。

庚申通りを北へ進んでいき、豊中通りとの交差点にある東武ストアを見たところ。庚申通りは拡幅されていて道路両側に歩道があるが、水路がどこにあったのかについては手がかりがない。

交差点から豊中通りを東向きに見たところ。地籍図にはないが、全国Q地図の東京3千分の1地図(1965〜1966年)などでは豊中通りの北側(左)に水路が描かれており、その先の交差点を北から曲がってきている。

一つ先の交差点から北を見たところ。ここから北の道路左(西)には地籍図上に水路敷が描かれている。とはいえ、見た目ではそれとわかるような痕跡はない。

地籍図で水路敷が途切れる丁字路のすぐ先、東へ伸びる細い路地(練馬区有道路として管理されている)に練馬区ではおなじみの水色に塗られた水路敷ペイントがあった。
だいぶ傷んでいるが、文字の部分だけ塗り直したような跡が残っている。
だいぶ傷んでいるが、文字の部分だけ塗り直したような跡が残っている。

東側まで行って振り返って見たところ。こちらにも水路敷のペイントがあり、塗り直した水路敷の文字が読める程度に残っていた。

そこから北を見たところ。地籍図上は水路敷ではないが、道路右(東)側に長狭物があって突き当たりまでつながっている。おそらくは水路の跡と思われるが、現在それらしい痕跡は残っていない。

庚申通りに戻ってすぐ北側。三の橋庚申(写真左奥の仮囲いの向こう側)に向かう道路の左側に地籍図では水路敷が描かれている。

三の橋庚申は目の前で新築マンションの工事が始まったためやや隠れてしまったが、祠が新しくなっており現在でも大事に管理されている様子が見て取れる。

三の橋更新から右に曲がって北を見たところ。道路左側の心持ち広い路肩部分に地籍図で水路敷がある。

次のやたらと広い交差点からさらに北に水路敷は続いているが、写真奥の交差点が上流端となっている。

庚申通りの水路はまっすぐ北へ進んで目白通りの交差点が上流端となっていた。写真正面の道路は古くからあったものではないので、目白通りよりも北側にある千川上水から分水していたのかどうかは地図上では確認することはできなかった。