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妙正寺川・井草川の水路敷群(今川の支流)

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今回は、井荻駅近くにある西山橋南側にある分岐から、今川地区を抜けて行く井草川の支流を遡って行く。
今回は、井荻駅近くにある西山橋南側にある分岐から、今川地区を抜けて行く井草川の支流を遡って行く。

井草川本流との合流点から支流側を見たところ。こちらも本流同様に遊歩道として整備されている。
ここからの写真は2018/1/6撮影。
ここからの写真は2018/1/6撮影。

かなり幅の広い水路だったのだろう。まっすぐ西へ進んで行く。

道端になっていた柑橘類。みかんにしては黄みが強く丸っこい感じだが、なんの種類だろうか。

1ブロックだけ道路として使われているが、その先は再び遊歩道に戻って南へ転進。

南に向かう途中で、東側に見事な竹林を眺める。

遊歩道は再び西へ。

すぐにまた南へ向きを変え、環八通りの東側を進んで行く。

いったん遊歩道は東向きに曲がる。

曲がってすぐに遊歩道は道路に合流。道路中央の破線はセンターラインではなく、右側の水路敷を分けるために描かれているようだ。
杉並区では水路敷が道路脇に残っている場所で、車道の幅を広げず路肩として扱っているところに度々出会う。
杉並区では水路敷が道路脇に残っている場所で、車道の幅を広げず路肩として扱っているところに度々出会う。

交差点の南側は、一方通行なのにやたらと幅の広い道になった。ここでは水路敷も車道扱い。

早稲田通りの手前で一方通行路と別れ、マンションの手前を環八通りへ向かう。

清水三丁目交差点の北側で環状8号線にぶつかる。水路敷はそのまま環八通りの西側に続いているようだ。

環八通りを渡って西側、清水三丁目交差点を巻くように水路敷は南に曲がって行く。

早稲田通りの南側。西松屋とダイシャリンの間を遊歩道が抜けて行く。

今川一丁目公園の壁画を見ながら西に向きを変える。

今川一丁目公園より一本南側の交差点に佇む地蔵尊。

今川一丁目公園から西へ向かって行くと、すぐに遊歩道は道路にあたって南へ転進。

ここでは水路敷も道路の一部になっている。水路敷はすぐ先の交差点で西へ。

交差点から西を見たところ。普通は交差点の中心にある十字路のマークが、水路敷を除く道路が交差する中心位置に描かれているため、北西に偏っている。

またもや、すぐに水路敷は南へ曲がるが、ここは遊歩道になっている。

遊歩道は1ブロックだけで、すぐにまた西へ曲がって道路の一部として進んで行く。その先は井荻中学校だ。

井荻中学校に突き当たったところで支流は南に向かうが、そこから北の四宮小学校の方へむけて遡って行く流れもあった。先にそちらへ寄り道してみよう。

北側の支流は、四宮交差点の手前で道路の東側から西側へ移動。

四宮交差点の北西側。早稲田通り沿いのコンビニ前に不自然な空間がある。ここは水路敷ではないだろうか。

コンビニの脇から、四宮小学校へ北に向かう水路敷があった。

水路敷は四宮小学校に突き当たって終わっている。昭和22年(1947年)の空中写真では、この先も北へ水路が続いており、現在校庭になっている部分で東に曲がっていた。

東側の道へ戻る。ここから北側にはそれらしい痕跡は残っていない。

さて、それでは井荻中学校まで戻り、南側に回り込んで上流へ進んで行こう。

井荻中学校の南を抜け、中央大学杉並高校へ向かう水路敷は道路脇に舗装されながらもその姿を留めていた。

途中、南に向かって未舗装の小道が。通り抜けることは出来ないようだが、これも水路敷だろうか。

北側にも水路敷らしき脇道があった。

水路敷は杉並高校の校庭にぶつかって、いったん途切れている。

杉並高校の校庭西側を上流側から見たところ。塀の間で水路敷が行き止まりになっている。
ここから再び上流を目指す。
ここから再び上流を目指す。

北側を観泉寺、南側を杉並高校に挟まれたそこそこ幅のある水路敷を進む。

慶長2年(1597年)創建の観泉寺。桶狭間で敗れた今川義元の曽孫、今川直房は徳川二代将軍秀忠に高家(幕府で儀式や典礼を司る役職)として仕え、井草村一体を知行地として与えられたことからこの観音寺を拠点としていたという。
ここには、今川氏累代墓(都旧跡)があり、このあたり一帯の町名である今川も、今川氏が由来だ。
ここには、今川氏累代墓(都旧跡)があり、このあたり一帯の町名である今川も、今川氏が由来だ。

観泉寺の向かいに安置されている祠の脇に置かれている道標。写真では「左ほりの内」とあり、反対側は「右長命寺」、裏側には「向ぞうしがや」とあり、それぞれ高円寺近くの妙法寺、練馬高野台の長命寺、雑司ヶ谷の鬼子母神だとすれば、もとからここにあったのではなく井草公園あたりに建っていないと位置が合わない気がする。

一方、水路敷は車止めをまたいで道路の向こうへ続いている。

水路敷北側には、周辺から集められた子育て地蔵や馬頭観音、青面金剛庚申塔がたくさん安置されている。

ここに置かれている石仏は比較的状態が良いものが多い。写真右から二番目の青面金剛庚申塔は宝永2年(1705年)の銘があるので、富士山の宝永大噴火の2年前に作られたものというわけだ。この塔の傘の部分にも富士山の灰が降り積もったのかもしれない。

地蔵群を抜け、さらに西へ向かう。

苔むした水路敷を進む。

水路敷はアパートの通路と並行しながら徐々にカーブして行く。

アパートの西側には、古い住宅局の境界標が埋められていた。

途中でインターロッキング舗装となるがさらに進んで行くと、車止めが3つ並んでいる場所に出た。右側は道ではなく、道路に面している左の車止めはともかく、前後の車止めの存在意義がよくわからない。

しばらく行くと、直進する水路敷に左(南)から支流が合流してくる。
直進方向はもうすぐ上流端なので、とりあえずこのまままっすぐ進んで行こう。
直進方向はもうすぐ上流端なので、とりあえずこのまままっすぐ進んで行こう。

上流端が近づく。

インターロッキング舗装の水路敷は、唐突に駐車場に突き当たって終わっている。

上流端から下流方向を見たところ。写真手前の駐車場があるところは古い空中写真では屋敷森になっており、そこに湧き水があったか、あるいはさらに西側の六ヶ村分水から水が引かれて来ていたのかもしれない。

少し戻って南から合流してくる支流へ向かう。金太郎の車止めが並んでいるまっすぐな水路敷がしばらく続く。

金太郎どうしが向かい合わせ。

金太郎の先で水路敷は西へ。

その先でも、金太郎どうしが向かい合わせになっている。

今度は南へ。

どこを切っても金太郎状態。

連続金太郎はここで終わって、西向きに道路に向かって曲がって行く。

西に向かう道路は、交差点を境に左右に微妙な食い違いがある。矢印のように水路が移動していたのだろうか。

幅広の道路は杉並区勤労福祉会館の北側を通過。

交差点の先、南側にある駐車場に向かって微妙な隙間があった。位置的には水路敷ではないような気がする。

幅広の道路が終わったところで、水路敷は南へ。

水路敷はすぐに西へ転進。

やがて水路敷は丁字路となり南北へ。

南側は、すぐに青梅街道にたどり着いて上流端となる。ここから六ヶ村分水を分けていたのだろう。

北側はまっすぐ道路まで伸びて行く一方。途中で東西に分岐がある様子。

東西の分岐を西側から見たところ。このあたりは早いうちから宅地化されていたのが昭和22年の空中写真でみてとれるが、当時からすでに水路敷のまま取り残されていたらしい。