妙正寺川・井草川の水路敷群(清水・桃井の支流)
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今回は、妙正寺川上流部へ南から合流する支流群を進んでみる。
妙正寺川上流にある寺前橋からスタート。橋から南方向にある沓掛小学校へ向かう道に、かつては水路があったとされる。
ここからの写真は2018/1/19撮影。
沓掛小学校の東側で水路は小学校の敷地に飲み込まれてしまい、たどれなくなる。。
寺前橋の西側にある妙正寺橋。欄干の銘板が妙に達筆だった。「はし」に濁点があるのも珍しい。
沓掛小学校西側では、旧水路は行き止まりの道路になっていた。
沓掛はこのあたりの旧町名で江戸時代の下井草村の小名としても見られ、長野県中軽井沢にあった沓掛宿と同様に沓(わらじ)を木に掛けて(あるいは木に掛けたわらじを買うために)休みを取った場所だという。
行き止まりの部分には、南北に流れていた水路敷に上る階段があった。
その水路敷は、妙正寺川に落合橋東側で合流している。こちらはきちんと整備されて遊歩道化されている。
写真右側のフェンスのあるところには、かつてプラネタリウムを備えた杉並区科学館が建っていたが、老朽化で2016年に取り壊され特別養護老人ホームへの建て替えが進んでいるそうだ。
その前後の交差点は、水路敷部分が緑色に舗装されている。
水路敷が西へカーブする手前で、さきほどの沓掛小学校に向かう流れが分岐している。
水路敷は落合橋から南下してくる道路と交差し、さらに西へ。
マンションの北側で、正面から来る水路敷と南側から来る水路敷が合流している。正面、直進する方もすぐに南に向かっている。
奥の水路敷も南へ向かう。いったんこちらの水路敷をたどっていこう。
突き当たりで西へ転進。西へ向かう道路の南側に水路があったとおぼしき空間が残っている。
西に向かう途中にある杉並区指定有形文化財「井口喜容家所蔵文書」。井口家は旧下井草村の名主を務めた一族で旧村内に数家あるようで、井口喜容家はそのうちの一つ。文書は高家今川氏支配下の旧下井草村の様子を伝える資料となっているそうだ。写真は井口家の長屋門という様式の建物。
桃井幼稚園に突き当たったところで南側を見る。道路東側の空間がどうやら水路敷と思われ、この先で南側を流れている流路から分岐していたようだ。
このあとは一度戻って、さきほどは通り過ぎた東側の水路敷を進んでみよう。
東側の水路敷に戻るところで、少し寄り道。桃井幼稚園から水路とは反対方向の北へ向かい、環状8号線の妙正寺西交差点の近くに小祠を見つけた。
そのまま東へ向かうと、妙正寺池、妙正寺川の名前の元になっている日蓮宗妙正寺がある。文和元年(1352年)の創建とされる。
さて、改めて東側の水路敷を南へ向かう。こちらの方が西側の水路敷よりやや幅が広く、植え込みもあって遊歩道としてきちんと整備されている印象がある。
西側の水路敷が突き当たりとなる道路を抜けた先で、こちらも西に向かってカーブしていく。
その先でも、道路に水路敷部分だけ緑色の舗装が施されている。
交差点を渡った先に四面道交差点から来た支流が合流している。こちらの探索は後回しということにしておこう。
四面道から来る支流は途中で二手に分かれており、さきほどの支流のすぐ西側にもう一本支流がある。
次の交差点の南側に、「民間信仰石塔」という看板が置かれた小祠がある。
中を見てみると「沓掛庚申塔」という看板があり、右側は宝永5年(1708年)造立の青面金剛庚申塔。左は安永10年(1781年)造立の三世安楽供養塔という。
遊歩道を進んでいくと、北側に畑が広がる一角がある。かつてはこのあたり一面がこういう景色だったのであろうと思わせてくれる。
畑の向こう、トラックのいる道路は北側の水路敷だ。
北側の水路敷と別れる場所まで来た。その先には環状8号線が見えている。
水路敷は環状8号線にぶつかるが、道路の向こうに上流部分が見える。
環八の西側へ渡り、上流端を目指す。こちら側は普通のアスファルト舗装だ。
次の交差点で、八丁交差点付近から流れて来る支流が合流してくる。こちらも探索は後回し。
上流端に向かうに従い遊歩道然としていたのが徐々に幅が狭く、水路敷らしい細道になっていく。
銭湯の先、上流端に向かって細い水路敷が続いていく。
中通公園の南側だけ、インターロッキング舗装になっている。
中通公園の先、交差点を渡ったところで、水路敷の南側に未舗装の土地があるのを見つけた。
未舗装の空間は南に向かって坂を上るような形になっていて、水路敷とするには微妙な感じ。昭和22年の空中写真でも水路らしきものはなく、宅地化の過程で何らかの理由で取り残されたのかもしれない。
再び上流へ。飛び出し事故があるのか、自転車止まれの標識が置かれている。
上流端である桃井原っぱ公園に到着。ここはかつて中島飛行機、富士精密工業、プリンス自動車工業、日産自動車の工場があった場所で、「ロケット発祥之地」の碑があるという。
それでは下流へ戻って、まずは八丁から来る支流を遡っていこう。幅広の道路を南に進んだところで、西に向かって支流が上っていく。
2ブロック西へ進んだところで、住宅地をえぐるように車止めが並んだ水路敷が残されている。ここでわずかに南へ移動したのち、再び西へ。
水路敷が南へ向かって曲がっていく途中に、段差の上から道路が突き当たっている。車止めが置かれているが、気をつけないと転落してしまいそうだ。
ガードレールに阻まれているが、気にせず水路敷を南へ進んでいこう。
桃井公園の横を抜け、交差点を渡った先はY字路になっている。水路敷は右側から来ていたようだ。
上流端となる青梅街道までたどり着いた。八丁交差点の東側、蕎麦屋の角から水路敷は始まっていたらしい。この支流は、沓掛用水とも呼ばれていたという。
さて、次は民間信仰石塔の東側で合流していた四面道交差点から来る支流を遡っていこう。西側の流れはまっすぐ南へ進んでいく。途中の金太郎はだいぶくたびれているようだ。
南に進んでいくと、左(東)に分岐する支流が見えた。
清水森公園の南で水路敷は直角に曲がって、西側の水路敷にたどり着く。
東側の水路敷に戻って南へ進んでいくと、パンダが描かれているところで道路に行き当たった。
水路敷は、西へ向かう道路に並行していたドブだったのだろう。妙に幅広い路肩がその名残と思われる。
その先の交差点で水路敷は左折し南へ。路肩が描かれていないが、道路の西側に水路があったようだ。
路肩が狭くなるところ、道路と別れ水路敷を西へ向かう。
ここでは、路肩の線は水路敷側に拡張されている。1ブロック南へ行って、交差点を西へ。
曲がった先では、幅広い道路の右(北)寄りに水路敷があったらしい。
道路が突き当たるところで水路敷はまっすぐ続いている。車止めというよりは欄干のようなものが残っている。
すぐに水路敷は南へ転進。いよいよ四面道交差点に向かって、環状8号線の東側を進んでいく。
徐々に水路敷が細くなっていき、右にカーブしながら四面道交差点へ。
上流端にある四面道排水場が見えてきた。水路敷は排水場の敷地に入っていってしまう。
環状8号線の四面道交差点脇に建つ四面道排水場。ここが支流の上流端となっている。この支流は清水用水とも呼ばれていたという。