神田川周辺の水路敷群(永福二丁目左岸)
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永福二丁目付近を見る。
今回は永福稲荷神社の南側、左岸側の水路跡を見ていこう。
京王井の頭線永福町駅から南に行ったところにある永福稲荷神社。旧永福寺村の鎮守で、永福寺を開山した秀天和尚により享禄3年(1530年)に創建されたという。
この写真は2024/9/15撮影。
永福稲荷神社から神田川に向かって坂を降りていく途中、永福寺の門柱脇にある地蔵堂。
この写真は2024/9/23撮影。
稲荷神社の東側にある曹洞宗永福寺。大永2年(1522年)開山で、旧永福寺村や現在の永福町の地名はこの寺に由来する。
ここからの写真は2024/9/15撮影。
さて、神田川の明治大学和泉キャンパス対岸に神田川の北側(左岸側)を並走する支流の出口がある。ここから支流の水路敷を遡ってみよう。
マンション駐車場脇を抜ける水路敷を進むと、すぐに道路になる。
全国Q地図の
東京都3千分の1地図(1959〜1960年)を見ると、ここから都道427号瀬田貫井線(永福通り)までは道路北側を水路が流れていたようだ。
前の写真左側(南)の住宅地には、1960年ごろまで武蔵野養魚場があって川魚を養殖していたという。
途中、道路北側に水路跡と思われる空間が残されている。
永福通りとの永福一丁目交差点。ここから先は道路南側を水路が通っていた。
片側一車線に広がった道路はゆるやかにカーブしながら進んでいく。道路左(南)の歩道が水路だった場所。
さらに進んでいったところで南向きの路地を見る。古地図で水路があった場所にあり、写真奥の突き当たりにある門扉の左側に水路敷らしき隙間がある。空中写真ではそのまま神田川左岸の永福南公園の手前まで続いているようだ。
この写真は2024/9/24撮影。
そのすぐ先、道路南側に水路敷が出てくる場所に着いた。ここから上流は道路が山側を通り、水路敷は神田川寄りを通っている。
この写真は2024/9/15撮影。
前の写真左に写っている保育園の手前、門の脇に神田川に向かう水路敷があったが藪になっていて入れなかった。
この写真は2024/9/23撮影。
道路と別れた水路敷を進むと、もう一つ神田川に向かう細い水路敷がある。
ここからの写真は2024/9/15撮影。
いったん神田川まで出て、神田川が北側に蛇行していた跡を見る。蛇行跡は永福南公園として整備されている。
公園側から下流寄りの2つの水路敷に通り抜けることはできないようだ。
3つ目の水路敷は公園北側に出口がある。車止めが通路をふさぐ形でおかれているため、水路敷に入るにはその脇をすり抜けていかなければならない。
黄色い車止めがある丁字路を進んで北側水路に戻るとする。
北側の水路敷に戻って上流方向へ。道幅がいったん狭くなった先に銀色の車止めがあり、その先は道路として使用されている。
道路はすぐ西側で行き止まりになっているが、水路跡としてはそのまま草むらとして続いてはいるようだ。
西側に回ってみた。木立の脇に水路跡があるのだが、入っていくのは難しい。
振り返って上流方向は片側一車線のくねくねと曲がる道路になっている。ここでも水路は道路南側(左)を流れていた。途中何本か神田川と繋がる水路があったことが古地図ではわかるが、民有地の境界線として残っている以外の跡はない。
ここで再び神田川に戻り、神田橋下流側を右岸の下高井戸おおぞら公園から見たところ。左岸側の家並みの間にトタンの塀があり、その下に開講している排水口と封鎖されている排水口が見える。
ここからの写真は2024/9/23撮影。
北側の道路から見たところ。トタンの塀手前は空き地になっており、古い東京都のマークが描かれたマンホールが並んでいた。ここは都有地のように見えるがどうなのだろう。
さて、北側の水路跡に戻ろう。
あまり都会では見ない「急カーブ」の路面標識と「つづら折り」の黄色い標識。道路北側が崖になっていて見通しも悪いが、そこそこ交通量もあって注意が必要だ。
ここからの写真は2024/9/15撮影。
その先もくねくねと曲がっていくが、写真奥でかつては神田川本流が南へ分かれており、そこから先は道路南側に神田川本流が流れていた。
最後はまっすぐ神田川から分かれてきているが、このあたりでは道路南側(左)が神田川本流であった。
神田川から左岸側を見ると、改修前の流路跡が公園として残っていた。そこには「川は」と銘打たれた謎の銅像が飾られている。
この写真は2024/9/23撮影。