神田川周辺の水路敷群(神田上水助水堀)
OpenStreetMapで
神田川に架かる淀橋から新宿中央公園付近の地図を見る。
神田川という名前は元々は井の頭池を源流とする平川を江戸の上水として整備した神田上水の最下流部を呼ぶ名前だったが、明治時代に上水としての利用がなくなって以降は上流も含め神田川と呼ばれるようになったという。
今回見ていく神田上水助水掘はその神田上水の水量を補うために南側にある玉川上水から水を分けていた水路で、甲州街道の西参道口交差点南側から都道431号東側を通り、新宿中央公園の西側を通って淀橋の上流側まで伸びていた。まずは淀橋から十二社(じゅうにそう)の熊野神社北側まで、淀橋浄水場の余水吐として使われていた流路跡を歩いてみたい。
まずは青梅街道が神田川を渡る淀橋を西から見たところ。淀橋といえば大手家電店の名前で有名だが、もともとはこの橋を由来とする周辺地域の地名であって、東京市三十五区の時代には淀橋区という区の名称でもあった。
淀橋そのものは道路拡張で架け替えられているが、親柱は大正13年(1924年)に落成した旧橋のものを再利用しているそうだ。
ここからの写真は2023/8/20撮影。
淀橋から神田川上流方向を見ると、矢印の部分に大きな排水口が見える。これが神田上水助水堀の出口で、現在でもそこそこの水量で水が出ているのが見える。写真正面の広場は新宿区立淀橋さくら公園として整備されているが、古くは神田川が右岸側に蛇行しており助水堀の出口も少し奥にあった。旧流路を挟んで東京電力の淀橋変電所などがある。
助水堀の暗渠上(おそらくは神田川旧流路跡)には、川跡を模した親水公園が作られている。
ところで、振り返って公園内に小さなマンホールが縦に並んでいる場所があり、その両脇には新宿区の境界標が並んでいる。
今昔マップ(1896〜1909年)ではこのあたりに助水堀から分かれて神田川右岸を北へ向かう水路があるのだが、水路の位置と境界標の位置は必ずしも一致しない。
公園内にある伏見稲荷大明神。東側の十二社通り沿いにあったが、再開発で移設されたものらしい。鳥居の形が貫(下の横板)のない珍しいものになっている。
淀橋さくら公園の南側は淀橋せせらぎ公園として整備されていて、ここにも細い水路風の流れが再現されている。
淀橋変電所南側の境界線には、なぜかブロック塀から空中に飛び出す形で境界標が設置されている。
十二社通りに出たところ。助水堀は写真正面のビル同士の間にある空間を抜けている。
十二社というのもこのあたりの旧地名で、新宿中央公園北側にある熊野神社に由来するようだ。
水路敷はビルの間を進む遊歩道として整備されている。
ビルの通路に張られた立入禁止のテープ。事件現場というわけではなく、こっそり喫煙している人が吸い殻を捨てるために使えなくしたらしい。
途中、道路を渡ったところからは「けやき児童遊園」(写真右側)となってまっすぐ南へ進んでいく。
公園最南部は倉庫が水路敷上に建っているため、南側に回り込んで下流方向を見たところ。
倉庫前の道路両脇には、新宿区ではなく水道用地の境界標が並んでいる。
前の写真手前の交差点を渡って少し南に進んだところにあるのが十二社熊野神社。室町時代の応永年間(1394〜1428年)に紀伊から中野に出てきて財を成した鈴木九郎(中野長者とよばれた)が故郷から熊野十二社権現を勧請したのが始まりという。
熊野神社の崖上から十二社池跡を見る。写真奥のグレーのビルあたりに池があったが、現在は全て埋め立てられてしまっている。
熊野神社裏の遊歩道。新宿中央公園の北側に建つエコギャラリー新宿への入口を案内している
エコ王子。
エコギャラリー新宿側からエコ王子を見る。写真右奥が熊野神社で、手前のスポーツコーナーとの間に結構な段差があるのがわかる。新宿中央公園と熊野神社の敷地は南側の角筈区民センター交差点から坂を下る十二社通りと異なり高台になっており、かつての助水堀は高台側を通って熊野神社の北側で滝になって落ちていたらしい。
ここからの写真は2023/11/26撮影。
熊野神社から高台を南へ進んだところに建っている写真工業発祥の地の碑。新宿中央公園の北エリアには昭和38年(1963年)に八王子・日野へ移転するまで小西六写真工業(のちのコニカ、現在のコニカミノルタ)が工場を置いており、明治35年(1902年)に前身である小西屋六兵衛店が写真感光材料工場として六櫻社をここに置いたことから写真工業発祥の地とされているそうだ。
小西六といえば赤いパッケージのサクラカラーブランドで黄色のコダック、緑の富士写真フイルムとともに35mm銀塩カメラ用カラーフィルムとして国内では有名であったが、昭和62年(1987年)コニカに社名変更したのち、平成18年(2006年)にはフィルム事業をDNP(大日本印刷)に譲渡して撤退している。
国土地理院Webサイトから
昭和22年の空中写真(米軍撮影)。
小西六写真工業と熊野神社の間に助水堀らしき隙間が写っているようにみえなくもない。このころ十二社池はすでにかなり縮小しており、北側だけ残っている。
角筈区民センター交差点から新宿中央公園西エリアを北向きに見たところ。写真手前の方から奥へ向かって助水堀が流れていたはずだが、まったく痕跡は残っていない。
今も残る「十二社池の上」バス停から角筈区民センター交差点を見る。助水堀は写真奥に見える新宿消防署西新宿出張所の付近に出てきていたはずだ。
交差点から南へ進み、新宿パークタワーの西側にある銀世界稲荷大明神に寄り道。神社にしてはハイカラな名前だが、幕末の館林藩主秋元家の角筈抱屋敷(私邸)にあった梅林が銀世界と呼ばれていたことに由来するという。
「
絵本江戸土産 十編 四谷新町」は、広重が描いた梅林とのことだ。四谷新町(よつやしんちょう)は別名を角筈新町(つのはずしんちょう)といい、現在の西新宿一丁目から三丁目を指すそうだ。
新宿パークタワーに西側を進んでいくと、砂利舗装された遊歩道がある。写真右側のビル群との間がかつての助水堀の流路だったらしい。
新宿パークタワー南側、甲州街道から北側の隙間を見たところ。このあたりに助水堀が流れていたのだろう。
甲州街道西参道口交差点の南側には、水路敷が残っているがその上に建物が建っている。
裏側に向かってかつて京王線が走っていた代々木緑道(玉川上水旧水路)から神田上水助水堀の分水口を見る。
最後にちょっと失礼して扉の隙間から水路敷を覗かせてもらった。建物の手前に鉄板で覆われた暗渠らしきものが見えている。