神田川周辺の水路敷群(藤和緑地〜富士見ヶ丘)
OpenStreetMapで
八幡橋からやなぎ橋を見る。
今回は右岸側の水路跡を進んでみる。
八幡橋(はちまんばし)南詰の上流側には藤和緑地が設けられている。この辺りでは神田川は少し南側に蛇行していたようで、その跡であろうと思われる。
ここからの写真は2024/9/15撮影。
藤和緑地は親水公園になっているが、水は流れていない。
藤和緑地の西側で、神田川に南から2つの水路敷が合流している。
右側は藤和緑地の一部でもある水路敷(ただし、写真右側には神田川との間に民家がある)で、左側には上流にある塚山公園から流れてくる水路敷となっている。
まずは神田川寄りの水路敷から見ていこう。すぐに藤和橋から南へ向かう道路と交差するが、道路のほうがやや高い場所にあり階段を登る形になっている。
道路を渡ってすぐのところに神田川との分岐点がある。このあたりまでが藤和緑地となっているようだ。
続いて塚山公園へ向かう水路敷を進む。こちらは真新しい車止めが設置されており、左(南)側の土地が高くなっているのがわかる。
次の交差点の向こう、崖上の住宅からたくさんの排水管が水路敷に向かって落とされている。
一度神田川から南寄りに離れた水路敷はくねくねと曲がりながら再び神田川に近づいていく。
しかしここで神田川から分岐するのではなく、交差点の先は神田川と並行して流れていたようだ。
やや右にカーブしながら鎌倉街道に出る。街道の向こうは塚山公園として整備されているため、いったん水路の跡がなくなっている。
東京都立図書館TOKYOアーカイブ所蔵の文政3年(1820年)出版「
武蔵名勝図会 多磨郡之巻」に鎌倉橋の記述がある。
「上下高井戸宿の界にあり、古の鎌倉街道にて云々」とあり、江戸時代はこのあたりの地名も鎌倉橋北側、鎌倉橋南側と呼ばれていたそうだ。
鎌倉街道は各地に残っているが、この鎌倉街道は甲州街道から成宗須賀神社まで南北に名前が残っているが、もとは板橋の方へ向かっていたともいう。
鎌倉橋から見た塚山公園。神田川と今回歩いてきた右岸側水路の間の低地と南側の斜面を使って造成された公園で、高台には縄文時代中期の竪穴式住居跡が複数見つかっており、環状集落全体では周辺も含めると200基程度の住居があったと推定されている。
高台に保存されている竪穴式住居の複製。オリジナルは昭和60年代の発掘調査で発掘されたと看板には記載されている。
その近くには池が作られており、写真奥には復元された縄文時代の住居も見える。
塚山公園上流側にある少年野球場のフェンス越しに上流へ向かう水路敷を探す。写真右寄りで植え込みが途切れている部分にそれはある。
ここからの写真は2024/9/26撮影。
車止めの手前に自転車から降りるように促す看板があるが、手前側の野球場に沿った遊歩道側に入ってくる人向けのものではなかろうか。
交差点をひとつ越えてすぐ、神田川に向けて「遊び場42番」となっている広場がある。ここはおそらく神田川との間にあった水路の跡と思われる。
神田川左岸に回って対岸から遊び場42番を見ると、その下に排水口が出てきているのがわかる。
戻って水路跡を上流へ。この辺りでは水路跡は道路として利用されている。
道路は徐々に神田川に近づきながら上流へ進み、堂ノ下橋へ向かう。
神田川左岸側から堂ノ下橋のたもとに出てくる大きな排水口を見る。右岸側支流がここから排水されていたのではないかと思われるが、現在は枯れているようだ。
堂ノ下橋から上流へ向かう水路跡も道路として利用されている。
道路が突き当たって左右に分かれるところ、左側には車止めがあって崖下を右に曲がり、その先が水路敷になっている。
右側に目を向けると、木立のトンネルがある水路敷の先が神田川になっていた。
水路敷が直角に曲がるところ。苔の方は人や自転車の通り道に合わせているのかカーブを描いて生えていた。
神田川に架かる乙女橋からくる道路と交差した先では、いったん幅の広い道路になる。
すぐに道路から右(北)に、日本郵政高井戸レクリエーションセンター(写真右のフェンス内)の脇を通る水路敷が現れる。
その先で道路に合流。道路両側に歩道があるが、右側の歩道が水路敷だったようだ。
この辺りでは南北に通る水路跡の歩道は、道路よりもやや低い位置にある。
道路左(西)側の崖は三泉淵緑地として整備されている。北側には「山草園(万葉植物園)」という看板があり、220余種の野草が育てられているそうだ。
道路が徐々に崖上に向かって高度を上げていくのに対して、歩道は道路と別れ水路敷として低地を進んでいく。
レクリエーションセンターの外周に沿って北側に回り込んでいく。
レクリエーションセンターの北側で、写真右(東)側を流れる神田川に向かう分岐点があった。
いったん神田川に向かってみる。車止めとグレーチングのある水路敷を進む。
神田川右岸に出て振り返ったところ。対岸から見てみたがこの下に排水口はなかった。
神田川の正用下(しょうようしも)橋の脇で道路を渡る。正用は付近の旧字名で、鎌倉時代の荘官や地頭の直営田を正作とか用作というそうで、そこから出た名前ではと言われている。
神田川の流れに合わせて水路敷は西から流れてくる形になる。左(南)の崖上にはテニスクラブがあり、右(北)は住宅地にになっている。
崖上に向かう道路の下には、斜めになった車止めが設置されていた。
環状八号線が見えてきた。水路跡は西から流れてきてそのまま環八を渡っている。
高井戸駅の歩道橋で環八を渡って西側へ。水路跡は片側一車線道路になって徐々に神田川に近づいていく。
道路はやなぎ橋に向かってやや右へ曲がるが、水路跡は写真左側のやなぎ橋公園南側崖下を流れてきていたようだ。
やなぎ橋から公園西側の支流分岐点あたりを見る。このあたりでは南側から擁壁が迫ってきているが、その先の方で富士見ヶ丘から流れてきた支流が合流していたらしい(神田川改修で合流部分は失われている)。
さきほどの擁壁下の護岸に封鎖された排水口があった。
擁壁が南へ後退していくところ、住宅地との間に水路跡と思われる細い溝が残っている。ここに富士見ヶ丘から流れてくる支流が出てきていたと思われる。入っていくことはできないので、大きく南側へ回ってみよう。
住宅地南側の道路まで出て上流側を見たところ。写真手前は嵩上げされているようだが、水路は写真右あたりまで道路に沿って流れていたようだ。
写真奥に都営高井戸西一丁目アパートが見えてくるが、その手前右側の植え込みから神田川に向かって流れていく水路敷があったと思われる。
植え込みのあたりを神田川に向かって水路があったようなのだが、こちら側からは痕跡はわからない。
高井戸西一丁目アパートの奥で道路は突き当たりになっている。水路はここに右側から流れてきていた。
ここでいったん神田川に出て旧本流の流路跡を見ていこう。
さきほどの高井戸西一丁目アパートの間を通る道路から神田川に出るとあかね橋があるが、その一つ下流側にあるむつみ橋に出て左岸側からむつみ橋緑地を見たところ。橋のたもとに小さな排水口があるが、そのあたりにむつみ橋緑地の南側を通っていた旧流路が出てきていた。
神田川を斜めに渡るむつみ橋から見たむつみ橋緑地。神田川はもともとこの辺りでは南側に蛇行していた。
むつみ橋緑地西端を見る。門扉のあるあたりがさきほど南側の道路から見た水路跡の出口と思われ、旧踏切はその奥、木立のあたりを通っていたと思われる。
あかね橋南側から見る高井戸西一丁目アパート東側の行き止まりとなっている路地が本流旧流路の続き。
その西側は駐車場前の道路になっているが、西側は車止めで封鎖されているので車で通り抜けることはできない。
高砂橋南側の道路をまたいだ西側は自転車駐車場として使用されている。
途中、3ヶ所ほど神田川との間をつなぐ水路敷がある。
自転車駐車場が終わった先で富士見ヶ丘通りが見えてくる。
神田川に架かる月見橋の南詰に出てきた。写真奥のあたりで旧本流と現本流(神田川左岸の支流へ向かっていた)が分かれていた。
さて、ふたたび支流に戻って高井戸西一丁目アパートの西側を神田川方向へ曲がる。
くねくねと曲がっていく。ところで、写真中央右寄りに車止めがあるような…
支流の方も進んでいくと富士見ヶ丘通りが見えてくる。
富士見ヶ丘通りの西側。ゆるやかにカーブする道の右(北)側に幅広い路肩があるが、ここが水路敷と思われる。
道路が高井戸公園に突き当たって左(南)折れるところ。水路は右側の路地から流れてきていた。
路地を進むと、高井戸公園と神田川寄りにある京王電鉄の資材置き場との間に水路敷が残っていた。
水路敷と神田川右岸は通れないので、左岸側に回って支流の分岐点を下流方向に見たところ。
高井戸公園から張り出している斜面は森になっていて分岐点の水路敷がどこにあるのかはよくわからない。