神田川周辺の水路敷群(弦巻川)
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音羽通りを見る。
音羽通りは徳川綱吉が生母桂昌院の発願により建立した護国寺への参道(御成道)として整備されたもので、江戸川橋からまっすぐ護国寺までつながっている。その東西に並行するように2つの水路(東に水窪川、西に弦巻川)が流れているが、今回は西側の弦巻川を歩いてみよう。
江戸川橋西側にある排水口は音羽通り東側を流れている雨水配管である坂下幹線のもので、元の水窪川の出口とも言える。弦巻川の出口は音羽通りの下で交差して江戸川橋の東側にある。ただし、大正期の地図で見ると弦巻川が江戸川橋西側の旧神田上水(現在の神田川よりもやや北寄りを流れていた)に流れ出ているように描かれているものがある。
この写真は2024/2/10撮影。
こちらが雑司ヶ谷幹線、すなわち弦巻川の排水口。位置関係から考えると弦巻川の方が上を通って出てきているようだ。
この写真は2023/12/23撮影。
音羽通り西側に広がる目白台(関口台)の崖下には神田川左岸に沿って江戸川公園が細長く伸びている。首都高速5号池袋線の下にあるのは弦巻川河口部にあたる江戸川公園の下流端。江戸川といえば現在は利根川の分流と指すが、かつてはこの辺りの神田川も江戸川と呼ばれていた。江戸川橋下流の左岸側には小石川区西江戸川町、小石川江戸川町という地名もあった。
ここからの写真は2024/2/10撮影。
江戸川公園から北へ向かうが、このあたりでは首都高速の下は崖で崖下の道路の方に弦巻川が流れていたように見える。
写真奥の目白通りは目白台に上っていくために嵩上げされているが、弦巻川は矢印のあたりで斜めに首都高速の方向から流れてきていたらしい。
目白通り北側の首都高速下には音羽児童遊園が細長く整備されている。このあたりでは地盤が高いが、古地図ではこのあたりで高速の西側に弦巻川が蛇行していたので、嵩上げされている可能性がある。
高速道路西側にある関口三丁目公園。古地図ではその手前の交差点あたりに橋があったように描かれている。
つづいて高速道路西側の崖上にある日蓮宗蓮光寺。寛永6年(1629年)に牛込寺町(現在の新宿区矢来町・天神町付近)で創建され、元禄11年(1698年)に当地へ移転したという。入口脇の標柱には「淘宮開祖 丸三翁之墓 在寺」とあるが、丸三翁とは天保5年(1834年)に淘宮術(とうきゅうじゅつ)という精神修養法を創始した横山丸三(まるみつ)のことだそうだ。
音羽児童遊園には、弦巻川を模したのかは定かではないが親水公園が設けられている。
高速道路の東側、児童遊園に沿っていた道路は途中で途切れ、立ち入ることができない水路敷となって続いている。
その先で児童遊園が崖上に、水路敷は崖下に分かれていく。
いったん道路が復活するが、すぐに通行止めになってしまいその奥は行き止まりになっている。
1ブロック先には大塚警察署があり、児童遊園も終わるため水路敷が確認できる道路などがない。大塚警察署南側の三丁目坂途中に「水」と矢印が描かれた不思議な標識が埋め込まれていた。
音羽通りの突き当たりに位置する真言宗豊山派護国寺。天和元年(1681年)に徳川綱吉が生母である桂昌院の発願で開山したもので、写真中央に見える仁王門は文京区指定有形文化財となっている。
そこから左へ曲がって不忍通りの護国寺西交差点へ。護国寺の西側に弦巻川の谷があり、本流は鬼子母神方向から不忍通りの北側を、支流の谷は雑司ヶ谷霊園から写真右側の高速道路脇を流れてきている。
OpenStreetMapで
護国寺から雑司ヶ谷鬼子母神堂までを見る。
弦巻川の本流は現在の弦巻通りに概ね沿って流れていたはずだが、昭和7年(1932年)に暗渠化された際に流路の付け替えが行われており、もともとは弦巻通りと異なる場所を流れていた部分がある。
また、国土地理院Webサイトで参照できる大日本帝國陸地測量部地図(例:
大正12年地図)などでは上流端は西武池袋線よりも東側にあるが、豊島区立中央図書館など所蔵の「明治44年北豊島郡高田村・豊多摩郡戸塚村全図」や特別区協議会Webサイトの「
大正14年東京府下高田町戸塚町全図」ではさらに上流が描かれている。
ブルーマップや住居表示新旧対照表で確認した範囲では、首都高速と都電荒川線(さくらトラム)の間はおおよそ公図境界(一部は豊島区と文京区の区境になっている)が川筋を示しているようで、都電荒川線より西側の上流部分については高田村・戸塚村全図を参考に流路を推定した。
首都高速護国寺ランプがある護国寺西交差点の西側、マンションの踊り場になっている崖下に弦巻稲荷神社が祀られている。由緒は不明だが崖上にある腰掛稲荷神社との関係を指摘する意見があるようだ。
池袋駅から護国寺西交差点に降りてくる道路は小篠坂(こざささか)と呼ばれており、弦巻川の支谷を利用している。写真右側の建物は護国寺の墓地がある台地の崖下に細長く作られていて、水路敷があったようにも見えるが私有地になっている。
坂を登っていくと右側に墓地の擁壁が迫ってくる場所がある。擁壁と歩道の間にある微妙な空間が水路敷なのかどうかはよくわからない。
坂を登り切ったところで雑司ケ谷霊園の南側にある此花亭は墓参に来る人が立ち寄る花屋で、霊園の敷地に食い込むように建っている。支谷の谷頭はこのあたりとなる。
雑司ヶ谷という地名は小石川区と高田町に分割された雑司ヶ谷村が元になっており、地名の由来は諸説あるようだ。霊園のWebサイトでは「ケ」と大きく書いているが、住居表示では「雑司が谷」、駅名は都電が「雑司ヶ谷」、東京メトロが「雑司が谷」と統一されていない。鬼子母神は「ヶ」と小さく書いているようだ。
さて、小篠坂を下って首都高速西側の弦巻通りへ入る角へ。明治期の古地図では、弦巻川もこのあたりに出てきていた。
しかし、その一つ南側にくねくねと曲がる細い路地があり、どうやらこちらが元々の流路らしい。
いったん弦巻通りに出て自噴井戸から旧流路が出てくるところ(矢印)の方を見る。そこまでは新旧流路が一緒に上流から流れてきていた。
水路敷を進んでいくと、すぐに右(西)側が崖になる。ここに水路の跡はないが、水が流れ出てきている右側の崖下に区境があり、かつては弦巻川がそこを流れていたという。
前の写真左側に幟が見えるが、ここには清土鬼子母神堂がある。清土(せいと)はこのあたりの旧地名で、永禄4年(1561年)にこの地で鬼子母神像が出土したという。その鬼子母神像が祀られているのが雑司ヶ谷鬼子母神堂ということなのだそうだ。
弦巻通りを上流方向に歩いていくと、南側に「菊池寛旧宅跡」の看板があった。戦前を中心に活躍した作家、実業家であった菊池寛は晩年をこの地で過ごしたという。
その先で1ブロックだけ文京区が弦巻通りの北側にはみ出している部分。民家と駐車場の間にある区境に沿って未舗装の小道があるが、水路敷なのかどうかはわからない。公図の境界は現在の区境よりもやや川筋っぽく曲がっている。
続いて南側に蛇行していた部分は民家になっており、痕跡は残っていない。
再び文京区が北側にはみ出している部分も駐車場になっている。写真奥の住宅は崖上にあり、弦巻川はこの辺りを南北に蛇行していたことが想像される。
日本女子大学寮を過ぎたところから川跡は弦巻通りをなぞるようになり、北へ曲がりながら商店街へ入っていく。
商店街を進んでいくと、交差点の右側にベーカリーがある。弦巻川はここから上流部分では通りよりも東側を流れていた。
「ここに弦巻川ありき」と描かれた壁がそこに旧流路があったことを記録している。
この写真は2024/2/24撮影。
雑司ケ谷霊園南端付近に位置する日蓮宗清立院(せいりついん)の崖下あたりを弦巻川が流れていたらしい。清立院は鎌倉時代中期の寛喜年間(1229~1232年)頃に真言宗の寺院として創建されたのち、日蓮宗に転じたという。
ここからの写真は2024/2/10撮影。
清立院の参道横(前の写真左)にある白鳥稲荷大明神。
社の裏に石橋供養塔があり、享保18年(1733年)に地元の木村氏が石橋を架けたことからここにあった橋を木村橋と呼んだと言われている。
さらに道路を挟んで清立院の向かいにある日蓮宗寶城寺の崖下を通っていく。寶城寺は元禄15年(1702年)に当地へ移転してきたが、それ以前は新宿区の戸塚公園付近にあったそうだ。
都電荒川線(さくらトラム)へ向かう道路には水路敷と思われる歩道が残っていた。
明治通りのバイパスとなる環状5の1号線工事が地下で進む早稲田23号踏切から大鳥神社を見る。大鳥神社は正徳2年(1712年)鷺明神として鬼子母神境内に創祀とあり、明治維新による神仏分離で当地へ移転したそうだ。
環状5の1号線は高戸橋と千登世橋の間にある坂道の途中で明治通りを分かれて地下に潜り、都電の下を通って東池袋交差点方向へ抜ける予定になっている。
早稲田23号踏切からいったん北側の路地を見に行く。踏切から見るとこのあたりは谷になっており、都電をくぐるあたりではこちらが川筋であった可能性も高い。高田村全図では、都電を渡ってすぐか、もしくは写真奥のあたりで南側の弦巻通りから水路が移ってくるように描かれている。
この写真は2024/7/16撮影。
今度は弦巻通りから南側の鬼子母神表参道へ移り、雑司ヶ谷鬼子母神堂へ。
なお、鬼子母神の読み方だがこちらは「きしもじん」と読み、都電の駅名は「きしぼじん」と読んでいる。
この写真は2024/2/24撮影。
こちらと清土の鬼子母神は改心して釈迦に帰依し子供の守護神となったことから鬼のツノがない字を用いるのが本来の姿で、祀られている鬼子母神像も菩薩形をしているそうだ。
ここからの写真は2024/2/10撮影。
鬼子母神表参道をさらに進んでいった先、弦巻通りの北側にある日蓮宗法明寺。鬼子母神は法明寺の境外仏堂となっている。
少し手前に戻って弦巻通りの方を進んでいく。くねくねと曲がる川跡の通りの奥には東京音楽大学の池袋キャンパスが見える。
東京音大の北側に回ってみたところ。こちらもなにやら川跡っぽいS字カーブになっているが、高田村全図や陸地測量部地図で見た限りでは水路ではないようだ。
この写真は2024/7/16撮影。
弦巻通りに戻って西へ。雑司谷小学校の跡地に残された、いまどき珍しい二宮金次郎像(負薪読書図)。
二宮金次郎といえば昔は働きながら勉強に勤しむ子供の姿としてもてはやされたが、史実として確認できない逸話であることや児童労働の問題、本を読みながら歩くのは危ないなどの理由で撤去が進んでいる。最近では歩きスマホの問題もあるという話が出てきているので、座っている像なども作られているそうだ。
ここからの写真は2024/2/10撮影。
明治通りに突き当たるところで大きな「大鳥神社参道」の看板下で弦巻通りは終わっている。弦巻川は明治通り北側から斜めに流れてきていた。
明治通り西側の上流部分へ。左右にもっと細い路地が並走しているのだが、弦巻川は中央の道を流れていたと思われる。
ここからの写真は2024/7/26撮影。
そのまま進んでいくと、陸地測量部地図などで上流端となっているあたりの三叉路に出る。ここからは谷筋を見ていくことになる。
ここで一度少し戻って並走する南側の路地を見ておこう。ここも一見水路敷のように見えるが、弦巻川を挟んだ農地の畦道だったのかもしれない。
この写真は2024/2/10撮影。
OpenStreetMapで
池袋駅南側を見る。
陸地測量部などで上流端となっている三叉路付近で谷筋は3つの方向から合流していたように見える。谷筋は北から順に
(1) 立教通り北側のリビエラ東京裏あたりからホテルメトロポリタン北側にある元池袋史跡公園(丸池跡とされる)を通ってくる谷、
(2) 西武池袋線の池袋3号踏切(旧上り屋敷駅前)北側付近から来る谷、
(3) 目白通り北側の三井住友銀行裏駐車場の窪地から来る谷と考えられる。
高田村全図のルートは(1)の谷をなぞっている。
まずは地図上流端から南側谷筋へ向かってみる。すぐにY字路になっていて谷筋は左右に分かれている。
この写真は2024/7/26撮影。
南側の(3)の谷から順に見ていこう。合流点から左に向いたところに細い水路敷に見える坂道がある。
ここからの写真は2024/2/10撮影。
ゆるやかなカーブを描く水路敷(?)は、若干だが窪んでいる場所を流れているのがわかる。
レンガの壁から出ているのは暗渠に落ちる排水管なのだろうか、ぐるぐる巻きになっていてよくわからない感じだ。
進んでいったところで山手線に突き当たった。踏切があるわけでもないので大きく回り込んで上流側を探しに行くしかない。
目白駅北側から駅前方向を見たところ。目白通りに出る手前で、道が大きく窪んでいるのがわかる。交差点右側にある三井住友銀行が入っているビルの裏、北側に駐車場があるのだがどうやらそこが窪地の先端のように見える。
この写真は2024/7/22撮影。
続いて(2)の谷を見ていく。(1)の谷と別れ西に向かう道路は、西武池袋線までいかにも川跡らしく緩やかに蛇行している。
ここからの写真は2024/2/10撮影。
左手に南池袋一丁目公園を眺めつつ、写真奥の突き当たりにある住宅の脇には行き止まりになっている細道があり、川跡としてはそこでいったん途切れる形になる。
西武池袋線の西側に回り込んで、北側から旧長崎道踏切の方向を見たところ。谷筋は写真奥あたりにあったようだが、整地されてしまったようでよくわからない。
この写真は2024/7/26撮影。
JRの西側へ回って旧長崎道踏切の少し北側(写真中央のゴミ集積所付近)にはわずかな窪みがあるのだが、そこに水路敷や道路はない。
ここからの写真は2024/7/22撮影。
北側の道路を西へ進み、南側の西武池袋線方向を見たところ。線路手前がうっすら凹んでいるのがわかるが、水路があるほどの谷間ではなかったのかもしれない。
西武池袋線の池袋3号踏切。かつてファミリーマートがあった写真左側の空き地あたりが、地形としては谷頭のように見える。写真左側にはかつて上り屋敷駅があった。
最後に(3)の谷を見ていく。陸地測量部などの地図が示す上流端からそのまま上流へ向かい、西武池袋線のアンダーパス付近で谷筋も西武池袋線をくぐっていたことになる。
ここからの写真は2024/7/16撮影。
高田村全図では、西武池袋線の西側で弦巻川は大きく西側に屈曲していた。アンダーパスを通ってすぐ左に向かう路地がちょうどいい位置にあることは確かだが、確証はない。写真奥、JR線の手前で路地は突き当たりになっており、水路の跡は確認できない。
三たびJRの西側へ。高田村全図ではJRに沿って川筋が北から流れていたことになっており、線路脇から大ガードへ向かう道の写真奥あたりを線路方向へ向かっていたのではないかと思われる。
高田村全図の地番で確認すると、弦巻川はこのあたりから手前に流れてきていたと考えられる。大ガードへ向かう道路の北側で川筋はわずかに東側からクランク状に曲がっていたようだ。
道路北側は区画整理されてしまっており、ホテルメトロポリタンの脇に残る窪みがある程度になっている。
この写真は2024/2/3撮影。
ホテルメトロポリタン北側にある元池袋史跡公園が弦巻川の水源、丸池の跡だと言われている。
この写真は2024/7/22撮影。
公園には、池袋地名ゆかりの池と書かれた石碑と、池袋地名の由来と書かれた看板がある。現在は小さな公園だが、かつては三百余坪(約1,000㎡)もある大きな池だったという。
高田村全図や高田町全図ではここが上流端になっているのだが、豊島区立中央図書館など所蔵の「大正15年東京府下高田町北部住宅明細図」にはさらに上流が描かれている。地図では高田町から出てしまうため上流端が描かれていないのだが、谷筋を進んでみよう。
この写真は2024/7/16撮影。
元池袋史跡公園から西へ進み、劇場通りを渡って谷筋は西池袋公園の脇を抜けていく。
ここからの写真は2024/2/3撮影。
立教通りまで出て西側を見たところ。地形としては写真右側にあるリビエラ東京の裏側あたりが谷頭と思われる。リビエラ東京は昭和25年(1950年)に料亭「白雲閣」として開業しているが、当時は立教大学越しに富士山の白雲たなびく様子から名付けられたのだという。
谷頭とは言ってみたものの、池袋のこのあたりは高台で、西側の眺望が開けていたのだろう。
最後に大ガード西側を南へ向かう道路の擁壁に描かれた「雑司ヶ谷いろはかるた」の弦巻川を描いた「そ」のふだを紹介しておこう。
「卒塔婆も鎌倉も木村も弦巻川の橋の名」という読みだそうで、丸池から護国寺に向かって弦巻川に架かっていた橋の名前が描かれている。
この写真は2024/2/10撮影。