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烏山川上流の水路敷群(平太夫堀)
地図
OpenStreetMapで京王線北側の水路群を見る。
芦花公園駅と千歳烏山駅の間に向かって玉川上水から大きくは3つの水路が伸びているが、今回は一番東側を流れる平太夫堀を遡ってみる。(京王線より南側は別ページ
平太夫堀は玉川上水の分水である烏山用水(新烏山川)から分かれて旧烏山村の小字千駄山の高台を流れていた用水路で、甲州街道の北側で東西に分かれ西側は烏山用水へ戻り、東側は芦花公園駅東脇から環状8号線方向へ流れていた。平太夫は用水路を通した名主の名前だという。
なお、芦花公園駅付近の流路は地図や空中写真では判然としないのだが、今回は国会図書館所蔵の「烏山:甲州街道間の宿の民俗 世田谷区民俗調査第2次報告」(世田谷区民俗調査団編、1981)に記載されている地図を参考に推定した。
同じく国会図書館所蔵の「武蔵野 第76巻第1号」(武蔵野文化協会、1998)の記事「世田谷地域の中小河川」(下山照夫著)によれば、西側の下流域は水車用水または泉水用水、東側の下流域は南原用水と呼ばれていたという。
京王線
京王線芦花公園駅東側、写真奥のあたりで線路南側に向かって用水路が伸びており、北側の水路は道路の辺りにあったはずだが見た目はよくわからない。
ここからの写真は2024/8/12撮影。
アーケード
八幡山2号踏切から北へ伸びるアーケード。ここに用水路が流れていたと思われるが、このあたりも痕跡は残っていない。
旧甲州街道
芦花公園駅北交差点から旧甲州街道を西向きに見たところ。旧甲州街道上には水路跡はない。
商店
戦前からこの場所にあったかもしれない農機具店。
推定水路
全国Q地図の東京都3千分の1地図(1961〜1962年)に推定水路を重ねてみた。
前の写真右側の塀あたりに平太夫堀の水路が出てきていたように描かれているが、写真の方にはそれらしい跡は見当たらない。
甲州街道
甲州街道まで出てきてファミリーマートから平太夫堀が流れていたと思われるマンション脇(矢印)を見たところ。
境界線
マンション東側に掲示されていた地図で見ると、西側の境界線がだいたい水路跡といえそうだ。
空き地
マンション西側にあった自動車ディーラーの店舗が改築中のため、仮囲い越しに境界線を眺めることができる。しかし、特に水路らしい遺構は残っていない様子。
行き止まり
大きく北側に回って行き止まりになっている水路跡を下流方向に見たところ。
歩道
そこから西向きに伸びる歩道が水路跡ではないかと推定される。
旧流路
一方、甲州街道を少し西側に進んだところで、北へ向かう道路が平太夫堀の旧流路と思われるところ。
ここからの写真は2024/8/10撮影。
クランク
途中、クランクになっている場所は「世田谷区民俗調査第2次報告」の地図にもそのままの形で記載がある。
歩道ダブル
北へ進んでさきほどの道路に突き当たって左(西)へ。道路北側に続いている歩道が水路跡ではないかと思うのだが、道路南側の車止めがある歩道もいかにも水路敷っぽくはある。左側の歩道は1ブロックで終わっている。
分岐点
道路が突き当たりとなる場所が平太夫堀西側の水車用水(泉水用水)との分岐点になる。
新烏山川
ここでいったんその水車用水の方を見てみよう。いったん京王線まで戻って線路北側の新烏山川(烏山用水)を上流方向に見たところ。
写真奥で歩道が終わっているように見えるが、歩道部分は新烏山川で左(西)から合流しており、水車用水の方は写真さらに奥からまっすぐ合流していた。
ここからの写真は2024/8/12撮影。
旧甲州街道
旧甲州街道では、用水路は東から流れてきていたはずだが、このあたりも痕跡はない。
写真右側のあたり、街道から路地に入ったところに水車があったという。
居酒屋
旧甲州街道北側にある居酒屋付近に水路が出てきていたはずだがよくわからない。
北側
大きく北側に回り込んだところ。マンションエントランスのあたりで、手前(東)よりも奥(西)の方が道幅が広くなっている場所があるが、国土地理院Webサイトで参照できる旧1万地形図「上高井戸」(大日本帝國陸地測量部、昭和12年測量)ではこのあたりまで水路が描かれている。
甲州街道へ
すぐ先の交差点を右(北)へ曲がって甲州街道へ。
続き
甲州街道北側に続いている道路を進んでいく。
分岐点へ
さきほどの分岐点が見えてきた。
庚申塔
分岐点の手前(南)で北を向く2体の青面金剛庚申塔。
ここからの写真は2024/8/10撮影。
上流へ
分岐点から平太夫堀は道路右側(東)の歩道として上流へ向かっていく。
再び庚申塔
少し進んだところで道路右側にもう1体庚申塔が祀られていた。
武蔵丘小
全国Q地図の東京都3千分の1地図(1961〜1962年)を見ると写真右側の武蔵丘小学校北側に東西に水路があるように描かれているのだが、痕跡は残っていない。
欄干?
途中、交差点に橋の跡ではないかと思われる場所を見つける。奥の標識手前には欄干らしきものが残っている。
Y字路
道路右側の歩道が終わる部分で、平太夫堀はY字路の右側からくる道路の左脇を流れていたと思われる。
中央自動車道
中央自動車道の下まで出てきた。写真奥には北沢用水が流れていた跡があるが、平太夫堀はそこには向かわず下本宿通りを写真左へ向かっていた。
下本宿通り
中央自動車道の下から下本宿通りを西向きに見る。平太夫堀は道路左側を通りに沿って、北沢用水は道路右側を写真奥の方へ流れていたと思われる。
ここからの写真は2024/8/17撮影。
水路敷?
下本宿通りから玉川上水(北沢用水)に向かって水路敷のような空間があったが、水路敷というよりは東八道路の建設に伴って旗竿地の入り口が取り残されたもののようにも見える。
烏山用水へ
写真奥のあたりで平太夫堀は新烏山川こと烏山用水と分かれていた。新烏山川については改めて紹介しよう。
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