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烏山川周辺の水路敷群(水無川)
地図
OpenStreetMapで粕谷近辺の地図を見る。
目黒川の上流部にあたる烏山川の支流である水無川は梶山橋のひとつ上流にある千歳橋で合流しているので、今回はそのあたりから上流へ向かって進んでみる。
梶山橋
環状八号線の東側、希望ヶ丘公園の北東入口に残っている梶山橋の銘板。ここから上流である西側に向かって進んでいく。
このページの写真は2022/1/2撮影。
千歳橋
都道118号調布経堂停車場線が烏山川を東西に越える千歳橋。烏山川はここから道路北側に移るが、水無川はそのまま環八に向かっていく。
温水プール
北側に千歳清掃工場、南側にはその温水を利用した区立千歳温水プールがある。
ところで、世田谷区に現在「千歳」という地名はなく、かつての千歳村が明治22年(1889年)に合併する前の地名である船橋、八幡山、粕谷などに分かれているが、何故か廻沢(めぐりさわ)だけは千歳台という地名になっている。
千歳村が明治26年(1893年)に東京府に編入されるまでは、このあたりは神奈川県北多摩郡だった。現在は世田谷区の烏山地区と呼ばれている。
千歳台
環状八号線の千歳台交差点。水無川は環八の西側、写真奥のガスタンクの北側を流れていた。
蘆花恒春園
環八を渡って西側、都道から北に分かれて蘆花恒春園の西側を進んでいくのが水無川の流路跡。このあたりでは水路としての形は失っている。
蘆花恒春園は、明治・大正期の文豪 徳冨蘆花の自宅と墓地を中心とした公園で、「恒春園」という名前も徳冨蘆花が付けたものという。
カーブ
いかにも川跡らしい緩やかなカーブを描きながら道路は西側に向きを変えていく。
自動車学校
公園の南側を抜け、自動車学校の北側を進んでいく。平らな広い土地が必要となる自動車学校は河原に造られていることが多い気がするが、ここも水無川右岸の低地を利用して造られている。
千歳通り
くねくねと曲がっていた道路は千歳通りにぶつかって行き止まりとなり、その先は遊歩道になっている。
遊歩道
交差点の西側。かなり幅広い遊歩道になっている。千歳通りには、かつて品川用水という玉川上水最大の分水路があった。陸軍撮影の昭和16年(1941年)空中写真を見ると、写真中央あたりで品川用水をかさ上げして水無川を南北に越えていたように見えるが、昭和27年(1952年)ごろまでには姿を消してしまったという。
道路脇
1ブロック先で遊歩道は道路と並走することになる。
原の橋
遊歩道がやや北寄りに向きを変えたところで、粕谷区民センター通りを渡るところにあったのが「原の橋」。ここから上流には、旧橋名を記した標柱が立っている(ここでは写真中央の標識奥と写真左電柱の右脇)。
現在も地名として残っている粕谷(かすや)は千歳村に合併する前の村名で、由来には諸説あるようだが鎌倉時代に当地にいた土豪の糟谷三郎兼時によるとされる。神奈川県伊勢崎市に糟屋庄という源頼朝の御家人であった糟屋氏の領地があり、その後北条氏に使え「時」の字を賜った一族がいるというので、その糟屋氏の支族だったりするのかもしれない。
賤ケ岳の七本槍の一人、糟屋武則もこの糟屋氏の子孫とされ、苗字を粕谷と書いた文献もあるという。ただし、こちらの糟屋氏は播磨国人で、系図が正しいかどうかは定かでないらしい。
水無川のお話し
その原の橋の北側に、「水無川のお話し」という看板が立っている(同じものがさらに上流にもある)。この看板によれば、水無川は烏山川の支流であるにも関わらず、何故か昭和39年(1964年)の河川法改正時に「二級河川烏山川」の上流として公示されてしまい、本来の烏山川と名前が入れ替わってしまったという。流域としては水無川が目黒川水系のもっと上流に位置しているのは確(旧烏山川は少し東側の高源院境内にある弁天池あたりが上流端とされる)かで、川としてはこちらが本流であったと考える向きもある。
いずれにせよ、世田谷区の地元では長らく「水無川」(三鷹市では水無川上流端のさらに上流を中川としている)として親しまれていたということで、地名はその土地の人に何と呼ばれているかが大事なのだという話だ。
親水公園
原の橋から上流は、水路を模した親水公園として遊歩道が整備されている。
粕谷橋
粕谷橋の標柱から上流は道路と並走となる。川幅から考えると、道路部分も元は川だったのではないだろうか。
新大橋
新大橋から上流では、道路と遊歩道の幅が同じくらいになっている。
水際の散歩道
途中、橋名かと思えば「水際の散歩道」という標柱だった。環八から京王線までの間の水無川をこう呼んでいるらしい。
栄橋
栄橋から上流はだいぶ川幅が狭くなる。橋名を書いた標柱と、欄干を模した車止めがあるが、いずれも遊歩道化したときに改めて設置されたもののようだ。
境橋
「さかえ」橋の次が境(さかい)橋。何の境なのかだが、写真右側が粕谷、左側が上祖師谷なのでその境ということだろうか。
西之橋
西之橋。二車線道路なので飛び出し注意の標識が目立つ。
雲雀橋
雲雀橋。ここも二車線道路を渡る。
愛橋
愛(めぐみ)橋。車に注意の標識が欄干の足元にあるのだが、植栽で隠してしまっては役に立たないのではないだろうか。
南水無橋
南水無橋。北水無橋というのはなく、この辺りの地名が南水無と呼ばれているらしい。千歳烏山駅前の道路が狭くバスが入れないため、千歳船橋から来る京王バス歳23系統は南水無を起終点としている。橋の西側に終点の降車場があり、バスは北向きに転回して戻っていく。
盛橋
盛(さかり)橋。歩道にガードレールがあるため、ここでは遊歩道をまっすぐ渡っていくことができない。
歳23
盛橋の西側にある南水無バス停で出発を待つ歳23千歳船橋行き。ここだけ立派な道路になっているが、前後は未完成となっている。
千歳烏山駅の再開発計画では、駅南まで来ている補助216号線を北へ延伸して甲州街道までつなぎ、途中京王線の南側に駅前広場を設ける計画になっている。一方、京王線は連続立体化工事がすでに始まっており、両方が完成すればこのバス停は廃止されてしまう運命かもしれない。
天神橋
天神橋。橋名の標柱があるのはここまでとなる。写真奥で水際の散歩道は京王線にぶつかって終わりとなっている。
地図その2
京王線から上流側の地図を見る。水無川としては中央自動車道と交差するあたりに上流端があるが、高速道路の北側、三鷹市には中川という名前でさらに上流があり、現在は中川遊歩道として整備されている。
鉄橋
京王線の北側に回って下流方向を見る。千歳烏山駅のホーム下は鉄橋になっており、川跡がそのまま残されている。
自転車駐車場
京王線北側の水路敷は、自転車などの駐車場として使用されている。
ここにも橋があったと思われるが、古地図を見ると昭和40年代に団地ができるまでは橋はなく、川の南側に道があったらしい。
旧甲州街道
自転車駐車場は旧甲州街道に出たところで終了。
石仏石塔群
旧甲州街道北側には、水路脇に周辺から集められたのであろう石仏、石塔が並んでいた。割れたり一部が欠けているものが多く、一番右の地蔵尊を除けば状態は良くない。
舗装
舗装された水路敷が西へ向かう。
行き止まり
南側を並走していた道路はどんどん幅が狭くなり、最後は行き止まりとなってしまう。水路敷だけが先へ続いている。
甲州街道
水路敷が北に向きを変えたところで、甲州街道と交差する。
北へ
甲州街道からさらに北へ。アスファルト舗装の水路敷が続く。
柵
この水路敷は自転車で通れるはずなのだが、車止めは自転車には厳しい配置になっている。
トラジマ
ところで、前の写真左側から来る道路にも虎縞模様の車止めが設置されている。写真奥の道路に出るところには車両向けの標識もあり、止まれのペイントもあるのでちょっと不思議な位置関係だ。
合流点
その先で水路敷はいったん車両通行可能となり、2本の水路が合流している場所に出る。
左側が水無川の本流、右側が支流だが、まずは距離の短い右側の支流から進んでみよう。
歩道
道路左側の歩道が水路敷と思われる。本流と南北に並走していた支流は徐々に北に向きを変え離れていく。
カクカク
川跡によくあるカクカクと曲がった道。
鉄塔
写真正面の鉄塔あたりで歩道は終わっているが、水路としてはまだ中央自動車道の高架下を抜けて北へ続いている。
波板
高速道路の北。開渠に波板で蓋をするという珍しい水路敷があるが、封鎖されているので入っていくことは出来ない。
開渠
波板の下に開渠が残っているのがわかる。
上流端へ
東側から行き止まりの道へ入り、波板暗渠の上流端方向を見たところ。水路敷は写真の先にある農地の西側に残っているが、最後はマンションの敷地に突き当たって終わっている。
西へ
さて、改めて今度は本流をさかのぼっていく。西に向きを変え、舗装された遊歩道が伸びている。
給田四丁目緑地
給田四丁目緑地の北側を蛇行しながら進む。
給田水無公園
給田水無公園の脇を蛇行しながら、徐々に北へ向きを変えていく。
日陰
日当たりの悪い水路敷を北へ。
中央自動車道
水無川の遊歩道は中央自動車道に突き当たって終わっている。三鷹市との境となるこの場所が、二級河川烏山川としての水無川の上流端となるが、高速道路の北側にまだ上流がある。
中川
三鷹市に進んで高速道路の北側。ここから上流は中川遊歩道として整備されている。
反射板
世田谷区側のそっけない車止めと比べると、反射板がついてきれいにデザインされた車止めが目を引く。
休憩所
途中、休憩所も用意されている。
看板
中川遊歩道の看板があった。
排水管
遊歩道の植え込みに落ちる排水管が水路敷の名残。
高低差
途中、道路と水路敷の高さがかなり違っている場所がある。道路側がかさ上げされているようだ。
上り
道路に向かって遊歩道が上っていく。
畑
上流端に近づくにつれ、水路敷と回りの高低差はなくなっていく。
東八道路
中川遊歩道は東八道路にぶつかって終わっている。中川としてはここが上流端ということになる。
かつては、玉川上水から牟礼分水(牟礼村分水)がここまで水を運んでいたという。また、東八道路南側には、さきほど一度渡った品川用水が東西に通っていた。
中本宿通り
最後に地図のエリアから北へ外れるが、牟礼分水のうち一番北側に水路敷が残っているので見ていこう。東八道路から北へ進む中本宿通りから、水路敷が分かれている。
細道
細い水路敷が北へ進んでいく。
食い違い
途中、道路を挟んで水路敷は若干東寄りに移動する。
赤舗装
三鷹市ではおなじみ赤い舗装の水路敷。
牟礼二丁目
牟礼二丁目交差点脇で水路敷の上流端となる。
供養塔
牟礼二丁目交差点北側にある道供養塔と地蔵尊。牟礼分水はさらに北から導水されていたようだが、これ以上北側には通れるような水路敷は残っていないようなので、今回はここまでとする。調子に乗って通しで歩いてしまったが、写真のタイムスタンプを見ると約4時間、距離は5kmほどしかないのでかなりゆっくり歩き回った探索だった。
by Natrium