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烏山川周辺の水路敷群(中橋〜弁天橋)

OpenStreetMapで烏山川緑道の中橋から弁天橋までを見る。
今回は弁天橋よりもさらに上流の葭根大橋までの烏山川緑道と、経堂から千歳船橋に渡って流れる5つの支流を見ていこう。
今回は弁天橋よりもさらに上流の葭根大橋までの烏山川緑道と、経堂から千歳船橋に渡って流れる5つの支流を見ていこう。

中橋から上流方向の経堂大橋公園を見たところ。今回はここからスタート。
ここからの写真は2025/6/19撮影。
ここからの写真は2025/6/19撮影。

公園の西側で並走する城山通りを分かれていく。

経堂駅から南下してきた農大通りが渡るのが大橋。

大橋の西側でいったん城山通り脇に戻った緑道は再び通りを別れ北に寄り、北側の道路脇に出る。

そこから北に向かって伸びるくねくねとした道。地籍図や古地図でも水路として扱われてはいないのだが、地形図では小田急線の北側に向かって食い込んでいく谷筋があるのでそちらに向かってみよう。

進んでいくと水路敷のような細道が現れる。ところでその入口脇にある「福」と刻まれた境界標はなんだろうか。

その北側、一見写真奥の空き地へ向かう旗竿地の入口に見えるが、世田谷土木管理事務所の三角コーンが置かれており区が管理していることがわかる。
空中写真では空き地左側にも水路敷のような空間が続いている。
空中写真では空き地左側にも水路敷のような空間が続いている。

小田急線南側まで来て下流方向を見たところ。剣道場の左に空間があって、空中写真ではさきほどの旗竿までつながっているのがわかる。

小田急線北側の商店街に谷筋が伸びている。

ほとんど高低差のないうっすらとした谷筋がやや西向きに曲がりながら進む。

なんということのない丁字路が谷頭の位置にある。

谷筋から経堂西通り商店街を少し西へ向かったところにある子育地蔵尊。銘板によれば正徳5年(1715年)の建立という。

緑道に戻って次の中村橋へ。

中村橋から南側の城山通り経堂中村橋前交差点方向を見る。
写真右(西)側の歩道あたりに南から流れてくる支流が合流していた。今度はこちらに寄り道してみよう。
写真右(西)側の歩道あたりに南から流れてくる支流が合流していた。今度はこちらに寄り道してみよう。

しばらくまっすぐ南に進んだ水路跡は崖の手前で西から出てくる細道へ移る。

うっすら微妙な谷間を西へ。

谷頭は塀に囲まれている森だった。

裏側に回って森の中にある池(写真正面の立木の向こう)を眺めたところ。ここは経堂五丁目特別保護区として自然のままの状態が残されている。

保護区の隣にある長島大榎公園。写真手前の切り株が由来となった大榎で、樹齢400年を超えていたというが平成24年(2012年)に伐採されたそうだ。
公園敷地を寄付した大地主である長島氏は世田谷城主吉良氏の重臣であったといい、公園内にある経堂区画整理記念碑によれば周辺では昭和5年(1930年)から「経堂第一土地区画整理組合」、昭和6年(1931年)から「長島壮行一人施行耕地整理」、昭和14年から「経堂第二土地区画整理組合」という形で昭和34年(1959年)までに区画整理が行われたという。一人施行というのはなかなか見ないが、長島壮行氏は公選制になる前の第三代世田谷区長を務めた人物だそうだ。
公園敷地を寄付した大地主である長島氏は世田谷城主吉良氏の重臣であったといい、公園内にある経堂区画整理記念碑によれば周辺では昭和5年(1930年)から「経堂第一土地区画整理組合」、昭和6年(1931年)から「長島壮行一人施行耕地整理」、昭和14年から「経堂第二土地区画整理組合」という形で昭和34年(1959年)までに区画整理が行われたという。一人施行というのはなかなか見ないが、長島壮行氏は公選制になる前の第三代世田谷区長を務めた人物だそうだ。

公園内には石橋供養等と北見橋改築記念指道標という2つの石塔が立っている。
北見橋は烏山川ではなく品川用水の東京農大正門前に架かっていた橋だそうだ。
北見橋は烏山川ではなく品川用水の東京農大正門前に架かっていた橋だそうだ。

烏山川緑道に戻って次の新道橋。ここにも左側から谷筋が合流している。

新道橋から南へ向かう道路を見たところ。やたらと幅の広い道がジグザクに曲がりながら進んでいる。
ここからの写真は2026/2/4撮影。
ここからの写真は2026/2/4撮影。

城山通りまで出たところ。写真正面の家がかなり高い位置にあるのがわかる。水路跡と思われる地籍図上の長狭物は写真右側の歩道部分で、右に曲がっている。

城山通りから斜めに南へ向かう道路左に水路跡と思われる長狭物がある。写真奥で道路はクランクになっていて、長狭物は道路右側に映っている。

クランクの先、道路右側の長狭物は写真奥の突き当たりで終わっている。地形としてもそのあたりが谷頭だろう。

烏山川緑道に戻って新道橋から上流はやや北へ。木立の間の遊歩道を進んでいく。
ここからの写真は2025/6/19撮影。
ここからの写真は2025/6/19撮影。

木立が終わり、小田急線の高架橋が見えてきた。その手前には経堂橋があった。

小田急線の高架下を抜けていく。北側の道路には石仏橋があった。写真右奥には世田谷区立石仏公園がある。

公園内にある小さな石仏。
これが石仏公園という名前の由来ではなく、新編武蔵風土記稿では「石仏耕地」、明治2年(1869年)経堂在家村絵図では「石仏」という小字があったのだが、明治8〜9年には字豊後と字北橋場に分割されている。
経堂という地名の由来になったという説がある仏教経典を納めた石室のことを指すのではともいう。
(参考:「世田谷の地名:区域の沿革・地誌・地名の起源 上」世田谷区教育委員会, 1984)
これが石仏公園という名前の由来ではなく、新編武蔵風土記稿では「石仏耕地」、明治2年(1869年)経堂在家村絵図では「石仏」という小字があったのだが、明治8〜9年には字豊後と字北橋場に分割されている。
経堂という地名の由来になったという説がある仏教経典を納めた石室のことを指すのではともいう。
(参考:「世田谷の地名:区域の沿革・地誌・地名の起源 上」世田谷区教育委員会, 1984)

ところで、経堂橋と石仏橋にはそれぞれ西側から水路が合流していた。いずれも合流付近は人工的な用水路だが、上流部分は自然の谷筋を使用しているので支流と考えて良いだろう。
写真は経堂橋から線路南側の側道を千歳船橋駅方向に見たところ。道路左側のやたらと広い路肩部分が水路敷ではないかと推定される。
ここからの写真は2026/2/6撮影。
写真は経堂橋から線路南側の側道を千歳船橋駅方向に見たところ。道路左側のやたらと広い路肩部分が水路敷ではないかと推定される。
ここからの写真は2026/2/6撮影。

次の交差点で水路は南から道路右側の歩道を流れてきていたようだ。

地籍図を見ると水路は南公園を斜めにやや西方向から流れてきていたようだ。

南公園の向かい側から城山通りに向かって砂利敷の水路敷が残っている。フェンスの網が取れてしまっているが、通路として利用されている雰囲気はない。

城山通りに出て東側から見たところ。写真右に水路敷を塞ぐフェンスがあり、こちらは無事なようだ。
ここでいったん城山通り左側(南)を通る水路敷(歩道幅が広がっている部分)はその先で南側から出てきている。
ここでいったん城山通り左側(南)を通る水路敷(歩道幅が広がっている部分)はその先で南側から出てきている。

城山通りに出てくる水路敷はアスファルト舗装されているがフェンスに阻まれて通行はできない。写真奥で右(西)から曲がってくるのが見える。

西側の入口は工事用フェンスで塞がれている。そこからまた歩道部分に水路敷があり、すぐ南の交差点で西から渡ってくる。

西側の水路敷(道路左側)を見たところ。写真左の建物脇に「右日光道、左中仙道」と彫られた道標が立っている。
地籍図では次の交差点までしか水路敷と見られる長狭物は描かれていない(道路左側)のだが、全国Q地図の東京都3千分の1地図(1969〜1970年)にはさらに先へ水路が伸びているのが見える。
地籍図では次の交差点までしか水路敷と見られる長狭物は描かれていない(道路左側)のだが、全国Q地図の東京都3千分の1地図(1969〜1970年)にはさらに先へ水路が伸びているのが見える。

地図ではまっすぐ進んでいるように見えるのだが、現地では道路が一旦右へシフトしている。

1970年の地図では突き当たりの一つ手前にある丁字路まで道路左に水路が描かれているが、見た目では痕跡はわからない。

続いて石仏橋から小田急線北側の側道を千歳船橋駅方向に見たところ。道路右側の歩道が水路敷だったと思われる。

天祖神社南交差点。写真奥の植え込みあたりで右から水路敷が出てくるように見えるのだが。

昭和22年空中写真(米軍撮影)では線路沿いと北の団地裏に2つの流れがあるように見える。
南側の流れは全国Q地図の1969〜1970年地図ではそのまま側道沿いを流れているようだ。
南側の流れは全国Q地図の1969〜1970年地図ではそのまま側道沿いを流れているようだ。

南北の流れが合流しているところから北を見る。写真奥の木立が天祖神社で、水路は左の団地裏から出てきて鋭角に手前に曲がってきていた。

西を向いて上流へ。

植え込みの脇をくねくね進む。

急に道幅が細くなって西側の道路へ。

細道を出たところで左に曲がって側道へ戻る。元の水路は線路南側から右斜めの方に流れてきていたようだ。丁字路付近は少し嵩上げされているように見える。

小田急線南側へ。道路右側にブロックで舗装された歩道があるが、南側流路はここを流れていたようだ。
ここからの写真は2020/11/22撮影。
ここからの写真は2020/11/22撮影。

右に曲がり、左(南)側に擁壁を眺めながら西へ進む。

写真奥に城山通りが見えてきた。

城山通り脇の窪地を水路敷が通る。

城山通りに出た。水路敷はいったん通りの北側歩道あたりを流れていたようだが、空中写真ではまっすぐ写真奥から流れてきていたようで、城山通りの開通に伴い流路が変更されたように見える。

城山通り南側の水路敷に入る。
ここからの写真は2026/2/6撮影。
ここからの写真は2026/2/6撮影。

南側の道路との交差点にはやたらとゴツいコンクリート製の車止めがあった。

苔むした蛇行する水路敷。

商店街の通りに出るところにあるコンクリート製車止めは1つだけだった。
ここからの写真は2024/8/2撮影。
ここからの写真は2024/8/2撮影。

車止めの脇には「菅刈橋跡」という看板があった…のだが、現在は撤去されてしまっている。
菅刈荘(庄)は新編武蔵風土記稿に出てくる地名で世田谷区、目黒区、大田区にまたがり現在でも目黒区に地名として残っているのだが、江戸時代に編纂された資料にしかその名がなく実在を疑う意見もあるそうだ。
国立国会図書館デジタルコレクション所蔵の「世田谷区史 上巻」(東京都世田谷区, 1951)では「何等文献なく俗説でその名が傳つているに過ぎない」としており、経堂在家村の小字として菅刈谷戸があって菅刈橋もあったとは書かれているが新編武蔵風土記稿との関連は書かれていない。
菅刈荘(庄)は新編武蔵風土記稿に出てくる地名で世田谷区、目黒区、大田区にまたがり現在でも目黒区に地名として残っているのだが、江戸時代に編纂された資料にしかその名がなく実在を疑う意見もあるそうだ。
国立国会図書館デジタルコレクション所蔵の「世田谷区史 上巻」(東京都世田谷区, 1951)では「何等文献なく俗説でその名が傳つているに過ぎない」としており、経堂在家村の小字として菅刈谷戸があって菅刈橋もあったとは書かれているが新編武蔵風土記稿との関連は書かれていない。

上流はビル横の隙間になっていて、奥は行き止まりのようだ。

はっきりとした水路の跡は残っていないが、さらに上流部分は東側の道路を写真奥にある銭湯の方から流れてきて、途中で西へまがっていたと思われる。
ここからの写真は2026/2/6撮影。
ここからの写真は2026/2/6撮影。

世田谷温泉四季の湯は残念ながらバーナー故障により休業中だった。

銭湯の先で道路は丁字路に突き当たるが、その少し西側に品川用水(現千歳通り)からの分水路と思われる水路敷が残っている。

国立国会図書館デジタル之苦笑ん所蔵の「世田谷の河川と用水」(世田谷区教育委員会, 1977)ではこのあたりに品川用水の分水口、もしくは自然漏水があったと推定している。
千歳通りの北側にはいかにもそれらしい路地があって、品川用水の土手を故意に壊した盗水事件が嘉永5年(1852年)にあったがその可能性もあるらしい。
千歳通りの北側にはいかにもそれらしい路地があって、品川用水の土手を故意に壊した盗水事件が嘉永5年(1852年)にあったがその可能性もあるらしい。

さて、石仏公園に戻って北側にある橋場橋の跡。
ここからの写真は2025/6/19撮影。
ここからの写真は2025/6/19撮影。

公園を出て大きな並木の間を進む。

やや西向きに進んだところにある二本橋跡。

さらに進んでいくと、緑道の脇に管理事務所が世田谷から砧に切り替わることを示す看板があった。
このあたりで住所は経堂から船橋になるのだが、船橋は旧千歳村の領域になるので明治26年(1893年)までは東京府と神奈川県の府県境があった。
このあたりで住所は経堂から船橋になるのだが、船橋は旧千歳村の領域になるので明治26年(1893年)までは東京府と神奈川県の府県境があった。

千歳船橋駅前から北に伸びる森繁通りが渡る弁天橋跡。今回はここまで。