越戸川・谷中川とその支流(谷中川上流部)
OpenStreetMapで
谷中川中流部分を見る。
谷中川を大泉中央公園付近にあったらしい最上流部まで遡っていくことにする。まずは中流部分にある支流から見てみよう。
谷中川中流にかかる「ふれあい橋」から西側を見る。なんということのない道だが、どうやらここが支流の合流部分らしい。
ちなみにこのあたり、和光市認定道路網図によれば、かつては大字下新倉字谷中川と呼ばれていた。
ここからの写真は2018/8/5撮影。
前の写真で中央あたりに見えていた「とびだし注意」の看板の脇に水路敷が西に向かって伸びていた。
上流側では、歩行者に向けて「とびだし注意」の看板が向いているが、これは正しい方向なのだろうか。
水路敷はディスカウントストアの裏手を進み、笹目通りまで向かっている。
笹目通りに出たところ。正面はマンションの向こうが崖になっているので、その辺りが水源だったのかもしれない。
笹目通りの北側から見たところ。水路敷のある場所が谷間になっているのがわかる。
さて、それでは続いて東武東上線の南側に続く谷中川上流部を見ていこう。
和光市駅から谷中川へ向かう途中、外環自動車道のアンダーパス部分に設置されていたニホニウム(原子番号113、nihonium, Nh)のモニュメント。すぐそばに2004年にニホニウムの合成に成功した理化学研究所があるため、2016年の命名を記念して設置されたもののようだ。和光市駅から理化学研究所まで行く道は、「ニホニウム通り」という名前もつけられているという。
ちなみになぜ「ニッポニウム(nipponium, Np)」でないのかというと、1908年(明治41年)に東京高等師範学校教授だった小川正孝が、原子番号43の新元素として発見したと発表しているから。
原子番号43は実際には自然界に存在しないテクネチウム(Tc)で、小川が発見したのは周期表で一段下にあるレニウム(原子番号75、rhenium, Re)だったらしい。1930年(昭和5年)にX線分光解析の結果ニッポニウムがレニウムであると判明した年に小川は亡くなったといい、その結果は長らく公表されていなかった(2003年に遺品として残されていた乾板のX線スペクトルから同定され、レニウム説が確認されている)。
レニウムは1925年にドイツのW. K. F. Noddackらが発見しており、5年早かったら原子番号75が日本人が発見した最初の元素になっていたところだったのだ。(化学と工業, Vol.66-7, July 2013の記事などを参考としました)
ここからの写真は2018/6/2撮影。
東武東上線沿いにあるワンパク公園。写真奥に見えるフェンスの真ん中あたり、東上線の北側には谷中川の開渠があるので、かつてはこの公園の中を谷中川が流れていたものと思われる。
谷中川はグラウンドの中に描いた点線のあたりを流れていたものと推測される。
ワンパク公園の南側で、谷中川の水路はセンターラインのある道路を遡っていく。
道路はすぐに工場敷地に突き当たってしまい、いったん水路をたどれなくなる。
旧川越街道まで回っていって下流方向を見たところ。工場の敷地に向かって結構な水量のある開渠が残っていた。
反対側の歩道から見ると、旧川越街道に架かる橋になっているのがわかる。
旧川越街道を渡って上流側は蓋暗渠になっていた。ここでは欄干に阻まれて入っていくことはできない。
上流に向かって脇道を歩いていくと、支流の水路敷を発見。どうやらここは入っていけるようだ。
支流との合流点から改めて蓋暗渠の上流方向を眺める。
一度戻って支流から先に見てみよう。車止めのある細い水路敷が西から下ってきている。
途中、鉄板で蓋をされた支流の支流が南から合流していた。
入っていけなくもないようだが、すぐに行き止まりになっている。
工場の裏手で南へ進路変更。正面奥のあたりが上流端のように思われる。
一方、本流の蓋暗渠を遡っていくと、浅久保通りで突き当たりになる。
浅久保通りから見ると、欄干の向こうにかつての谷中川の流れが想像できる。
上流側はガードレールがあり、ちょっと入っていくには憚られる感じだ。水路敷はコンクリ舗装されているように見える。
南側に回って、行き止まりの道からフェンス越しに駐車場の向こうを流れる水路敷を見つけた。地図では二股が合流する手前側水路の部分が開渠となっているものがあるが、実際には駐車場として舗装されている。
西側の道から駐車場の反対側に回ってみる。こちらでは、フェンス越しに土管のようなものが見えた。ここから先はいったん本田技研の工場敷地に入ってしまい、水路跡を追いかけることができなくなる。
川越街道まで回って東側から見たところ。追突注意の看板あたりが微妙に谷のような気がするが、そのあたりで谷中川は川越街道をくぐっていたようだ。
川越街道の南側は理化学研究所の敷地なので、空中写真では構内に水路があることも確認できるのだが、一般公開のときでもなければ入れないので外郭環状自動車道の方へ回っていってみよう。
理化学研究所西側にある通称「広沢池」。広沢というのは和光市から朝霞市に広がる広域地名で、和光市市役所を中心とした市南部の大半を占めている。
広沢池自体は人工池なので谷中川と直接の関係はなく、谷中川はここから東へ向かってAFN(米軍放送網)東京送信所との境を流れて川越街道へ向かっている。
ここからの写真は2018/9/23撮影。
その広沢池の南側、国際交流会館との間にフェンスで囲われた空間がある。どうやらここが谷中川の水路敷と思われる。
写真手前が外郭環状自動車道の側道で、ここで谷中川は側道の西側から渡ってくる。
国際交流会館前の日向で猫が寝ていた。脇を通り抜けても警戒もしないようだ。
外郭道の西側は大半が住所ごと西大和団地だが、外環道脇だけは外環道建設時にあとから作られたデュプレ西大和というマンションが建っている。
谷中川は、西大和団地とデュプレ西大和の間にある段差のあたりを流れていたらしい。
西大和団地の中にお邪魔して、段差の部分を上流方向に見てみたところ。植え込みのあたりが谷中川の流路だったのだろうか。
桃手通りと交差する和光純林公園交差点手前では、水路敷は藪として残されていた。
和光樹林公園交差点を上流側から見たところ。外環道と樹林公園の総合体育館との間に空堀状態の谷中川が残っているのだが、桃手通りをくぐるために写真中央に見える導水管が設置されていることから水が流れることを想定した構造になっていたように見える。
総合体育館の駐車場から空堀の上流側を見たところ。空堀の中央に大きな木が何本も植えられているところを見ると、現在は水が流れることは想定していないようだ。
樹林公園に入って、体育館の方を見たところ。樹林公園内には整備された水路が残っているのだが、その流れは体育館の下に吸い込まれていき、空堀の方には流れない構造になっているのがわかる。
橋の先には、土管から水が出てきている場所があった。このあたりはまだ水の流れがあるようだが、地面に吸い込まれてしまっているのだろう。
樹林公園の水路は土管のところから始まっているのだが、前の写真右奥に写っている標識のところ、山側から水の流れがありそうな窪みがある。
窪みは公園内のジョギングコースを乗り越えて林の中に入っていき、林の中にある排水口から流れ出ているようだ。
樹林公園を出て都県境を越え、南側の練馬区にある大泉中央公園へ。その手前にある大泉さくら運動公園には、野外炊事広場のある池が作られている。もともとここに池はなかったので、公園と合わせて造成されたのだろう。
この日は祝日の日曜日だったので、たくさんの人がバーベキューなどを楽しんでいた。
池の水は近くにある湧き水っぽい水場から流れてきているが、これが谷中川の水なのか、処理水なのかはよくわからない。
出水口を見たところ。土管から流れ出てきているように見え、いかにも人工的だった。
一方、池の南側にも地図上は水路があるように描かれているのだが、実際行ってみると水の流れはない涸れ沢になっていた。
OpenStreetMapで
谷中川上流端部分を見る。
谷中川の最上流部は、大泉学園町の北端あたりから、現在の大泉中央公園を通って西から東へ向かって流れていた。
大泉中央公園の陸上競技場。このあたりでは、谷中川の流路はまったく残っていない。
大泉中央公園一帯は、戦前「朝霞ゴルフ場」と呼ばれ朝霞市の由来ともなった東京ゴルフ倶楽部があったところ。戦時中は陸軍士官学校があり、戦後は米軍のキャンプドレイクサウスの一部になっていたが、一回りしてスポーツ施設になったということか。
グラウンド脇には、「ちょうの里」と名付けられた庭園がある。ジャコウアゲハなどを保護しているそうだ。
公園南側の噴水から西へ向かって遊歩道沿いに水路が造られているが、谷中川とは逆向きに流れており(もっとも、写真では水はながれていない)人工的に造られたもののようだ。
大泉中央公園西側の道路。南北に走る道路の中央に微妙な谷があり、もともとは谷中川が流れていたあたりだと思われる。
ここから西側は学校などの敷地になっていて水路跡をたどることはできない。
大泉桜学園西交差点。写真右側にあるのは大泉学園桜小学校と桜中学校なのだが、両方まとめて一貫教育校として「大泉桜学園」というのだそうだ。
谷中川は昭和初期の地図によれば写真中央の歩道のあたりを流れていたようで、上流端はもう少し先。
一方、交差点左側が大きな窪地になっており、そちらも気になるので後で見てみよう。
ここからの写真は2018/11/25撮影。
上流端があったと思われるあたりは、現在空き地となっているが、隣接する大泉学園町希望ヶ丘公園運動場(…長い)の拡張工事が予定されているようだ。この場所にはかつて学校があったことが地図からわかるが、写真左側の段差がもとからあったものなのかどうかは分からない。
大泉桜学園西交差点に戻って、西側に向かう道から桜学園方向を見たところ。こちらから見ると、歩道部分が階段になっているのがわかる。どちらかといえば、道路側が盛り土されているのではないかと思わせる地形だ。
西側の交差点あたり。現在でもこの辺りが東西に伸びる谷間の底になっていて、昭和38年の空中写真では、写真手前の歩道あたりに水路があるようにも見えるのだが、詳しいことはわからない。
北側の大泉学園町九丁目西交差点の方から見たところ。結構大きな段差のある谷なのがわかる。
最後に、少し戻って大泉中央公園西口から南へ行った長久保交差点付近を見て回ろう。写真は西側から西武バス操車場を見たところ。長久保交差点は写真では分かりにくいが南北に伸びる谷間になっていて、谷中川から南へ谷が伸びている。
長久保という地名は、大泉中央公園を含むこのあたり一帯の字名だが、もともとは現在和光市になっている下新倉村(のちに新倉村)の字で、明治24年(1891年)に榑橋村とともに東京府上土支田村と越境合併して東京府に編入され大泉村となった。
谷を南へ進んでいくと、長久保道の脇に南向きに地蔵尊と庚申塔が安置されていた。頑丈な策に囲まれていて、大事にされているようだ。
谷を進む道は途中で行き止まりとなり辿れなくなるが、谷そのものはもう少し南まである。
最後に、谷から少し東に行ったところに残されている馬頭観音。左に長久保道がさきほどの地蔵尊の方へ向かっている。長久保道は練馬区高松二丁目にある宮田橋(現在は石神井川の流路が付け替えられたため橋はない)あたりで清戸道(目白通りの旧道)と別れ、光が丘、土支田を通ってここまで来る道。この先は清瀬市の下清戸まで向かっていたそうだ。
馬頭観音には「武州新座郡下新倉新田」という記載が残っていた。