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黒目川とその支流(代官水の谷)

OpenStreetMapで朝霞市東部を見る。
朝霞市北側を流れる黒目川に向かって、朝霞駅東口近くから北へ流れていく谷を見ていこう。谷の流域には天ヶ久保(てんがくぼ)、前谷ツ(まえやつ)、中谷ツ(なかやつ)という字名が見られ、中流域には朝霞市の天然記念物に指定されている湧水代官水(ゆうすいだいかんみず)があり、江戸時代から一帯の灌漑用水として利用されてきたという。
2024/4/24追記:小字名とその位置を「第22回企画展 描かれた朝霞〜絵図・地図に見る郷土の風景〜」(朝霞市博物館発行、2008)に収録されている「【参考資料】朝霞市内小字区分図」に合わせて修正した。大字はいずれも岡であった。
朝霞市北側を流れる黒目川に向かって、朝霞駅東口近くから北へ流れていく谷を見ていこう。谷の流域には天ヶ久保(てんがくぼ)、前谷ツ(まえやつ)、中谷ツ(なかやつ)という字名が見られ、中流域には朝霞市の天然記念物に指定されている湧水代官水(ゆうすいだいかんみず)があり、江戸時代から一帯の灌漑用水として利用されてきたという。
2024/4/24追記:小字名とその位置を「第22回企画展 描かれた朝霞〜絵図・地図に見る郷土の風景〜」(朝霞市博物館発行、2008)に収録されている「【参考資料】朝霞市内小字区分図」に合わせて修正した。大字はいずれも岡であった。

黒目川下流に面して突き出した舌状台地になっている城山公園。岡の城山と呼ばれ、縄文時代から人が住んでいた場所に中世になって城が築かれたという。現在は公園として整備されているが、写真の通り台地の上にはかなり長い階段を上っていかないとたどり着かない。
ここからの写真は2021/10/9撮影。
ここからの写真は2021/10/9撮影。

城山のふもとにある児童遊園は川を模した親水公園となっているが、整備中なのか水は流れていなかった。

児童遊園脇の道の向かい側、南から流れてくる開渠がある。こちらも水は流れていないようだ。

児童遊園脇の道もかつては水路があったように見える。足元にはかなり豊富な流量の水が流れていた。

さらに、開渠の下流側にある道路は見ての通りくねくねと曲がっており、こちらが最も古い流路跡なのかもしれない。写真奥の矢印の部分には、駐車場の中に湧水が流れ出ている。

駐車場の湧水は結構な量が沸いている様子。

開渠は前の写真奥で西寄りに進路を変え、児童遊園脇の道路とくねくね道の間を直進している。西側の道路と交差する部分から下流方向を見ると、ガードレールの向こうに水路敷が見える。道路のほうはかなりかさ上げされており、上流側の水路敷はいったん失われているようだ。

児童遊園が城山の南側に曲がっているところで道路も西へむかっており、左の側溝が水路だったようだ。

少し上流側に進んだところに、砂利舗装された水路敷が南へ伸びている。

南側の道路に回り込んで反対側を探そうとしたところで、途中に東西に進む水路敷を発見。どうやらこれが開渠の上流部分にあたるようだ。入っていくことは出来ないが、写真奥で南北の水路敷と交差しているらしい。

南側の道路から南北に通る水路敷を見る。こちら側からは入っていくことができるようだ。北側とはかなり高低差があるのがわかる。道路の南側には住宅の後背に崖がそびえており、古くは児童遊園との間で水路が蛇行していたのだろう。

南側の道路から、ひとつ上流側にある水路敷を見る。こちらは未舗装で入っていくことは出来そうにない。

北側の道路に回ってみると、なんと開渠というより池のように水を湛えていた。

児童遊園のほうをみると、親水公園の最上流部には滝のようなモニュメントが築かれていた。写真は上流側から見たところ。

南側の道路を上流に向かって進んでいくと、駐車場の脇に水路敷と思われる空間が写真奥の段差のところにある水路敷へ向かっていた。

東西に進む水路敷は西側で道路に向かって突き当たっている。このあたりの水路敷は藪にはなっていないので、定期的に管理されているのかもしれない。ここから上流には東西の水路敷はないので、南北いずれかの道路からここで分かれていたようだ。

北側の道路では、交差点を越えたところから道路脇の開渠となる。住宅への入り口にかかる橋など、古い形を残している部分といえよう。

道路は南に向かって曲がり、さらに上流に向かって開渠が伸びる。

開渠を流れる水は澄んでいて、流量もかなり豊富。

途中、東側の道路へ向かって水路敷が伸びる。

東側道路から見たところ。こちらは藪になっていて入っていくことは出来ない。

開渠は道路に突き当たって西に向かう歩道になっているが、すぐに写真右の柵のところから再び南へ向かう。

前の写真右側に見えた柵の向こうに開渠の水路(写真左)があり、その横に遊歩道のような道がある。

このあたりの水路は用水路のような趣。

遊歩道がやや東寄りに向きを変えるところで、西側から現役の用水路が合流してくる。写真奥で曲がって左側から流れてきており、空中写真からは住宅地の裏側、崖下を流れているように見える。水源は住宅の裏になっていて見ることは出来ない。

遊歩道は1区画で終わってしまい、道路の向こうは立ち入れない用水路になっている。

立ち入れないと書いては見たものの、よく見ると写真奥に水路をまたいだ階段があり、そこまでは人の往来があるようだ。

南側に回り込んで上流側から見たところ。こちらはフェンスで封鎖されており、水路まで段差もあるので入ることは出来ない。

そこから上流側を見ると写真右側の岡町内会館を取り囲むように、南から流れてくる水路と、写真右側(西)から別の水路が合流している。

西側から流れてくる水路は町内会館に沿って流れてくる。

その先、水路は写真奥の岡緑地から流れてきているようだ。

フェンスの向こうから水路が流れてきているのがわかる。上流端は立ち入れないので、この流れはここまで。

ところで、前の写真から右を向いたところにある岡向山児童遊園地も、そこを囲うように水路敷が残っている。かつてはこちらにも湧水があったのかもしれない。
2024/4/24追記:付近は大字岡字向山(むかいやま)にあたる。
2024/4/24追記:付近は大字岡字向山(むかいやま)にあたる。

町内会館に戻って南を目指す。水路は岡緑地の東側を流れているが、こちらもフェンスで阻まれてしまい入っていくとはできない。

ここで一度東側の道を通って南へ向かう。この道はさきほどの東側道路の続きにあたり、かつてはこちらも水路だった可能性がある。

水路のほうは、岡緑地の南側で民家の敷地に入ってしまい一旦途切れているが、道路の南側で復活する。

水路は進めないので東側道路から上流へ。交差点からすぐに湧水代官水への入口がある。

湧水代官水は2010年に市指定天然記念物となり、保存整備工事のあと2012年に公園として公開された。写真奥の崖地から複数の湧水があり、現在も豊富な水量があるようだ。
江戸時代の「新編武蔵風土記稿」にも代官水の記載があるというが、由来はよくわからないらしい。
江戸時代の「新編武蔵風土記稿」にも代官水の記載があるというが、由来はよくわからないらしい。

ちなみに2013年に訪れた時にはまだ整備してから日がなく崖の上は向こうが見渡せる状態だった。
この写真は2013/8/31撮影。
この写真は2013/8/31撮影。

切り株の根元に「湧水点」の標識が立っている。
ここからの写真は2021/10/9撮影。
ここからの写真は2021/10/9撮影。

北側は池のように水が溜まっている。下流に向かう流れは右で、左は行き止まりなのでおそらく水源があると思われる。

南側の公園突き当りにも湧水点の看板があるが、2021年に訪れた時には木立が伸びていてこの角度では撮影できなくなっていた。
この写真は2013/8/31撮影。
この写真は2013/8/31撮影。

湧水点の上流側は住宅地の中に入ってしまい、水路としてさかのぼれるのかどうかはよくわからなくなっている。回り込んだ行き止まりの道には、昭和4年(1929年)造立の比較的新しい馬頭観音石塔があった。
この写真は2021/10/9撮影。
この写真は2021/10/9撮影。

根岸台二丁目交差点から公園通り越しに上流部の谷を見たところ。代官水の入口になっていた道路は谷筋として上流に向かっているが、写真奥の交差点は両側で工事をしていたので遠慮して遠くから見た形。それにしても、結構きれいな谷になっているのがよくわかる。
ここからの写真は2021/11/6撮影。
ここからの写真は2021/11/6撮影。

谷底の交差点まで行って、谷筋を上流方向へ進む。

公園通りに合流する場所にある稲荷神社。

公園通りを渡って、道路の南側へ。谷筋はさらに南へ向かって伸びている。

谷筋はくねくねと緩やかに上っていく。

交差点に出たところで西側を見る。そこそこ坂道になっているのがわかる。この近辺は大字岡字天ヶ久保で、写真奥の中央通りに上って南側には天ヶ久保交差点、さらにその先には天ヶ久保バス停がある。

交差点の先、谷筋はジグザグ道になっている。

谷筋はさらに左右に曲がりながら上っていく。

谷筋は朝霞秋ヶ瀬通りのランドリーに突き当たっているように見える。ランドリーの左側に未舗装の道があり、谷筋はさらに中央通りの朝霞駅東口ロータリーの入り口に向かって伸びているようにも見えるが、どこを上流端と判断するかは難しいところだ。南側から入り込んでくる越戸川支流の谷との分水嶺もあまりはっきりとはしていない。

最後に城山公園から代官水の谷を挟んで南側の台地の上にある岡氷川神社。創建年代ははっきりしていないが、境内から鎌倉時代の瓦が見つかっているといい、古くからこの地の鎮守として祀られてきたのだろう。
境内では早めに七五三詣でをする家族の姿があった。
境内では早めに七五三詣でをする家族の姿があった。