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黒目川とその支流(黒目川通り)
地図その1
OpenStreesMapで黒目川通りから黒目川までの流れを見る。
黒目川通りは大半が黒目川の支流(田中用水と呼ばれていたという説もある)になっているが、東側の下流部分では分譲住宅の開発などで流路が失われている。合わせて、堀ノ内病院を挟んで北側、崖下を流れる支流(これも用水路か?)も見ておこう。
排水口
黒目川右岸側から左岸の排水口を見たところ。黒目川通りの支流が黒目川に合流する場所にあたり、水路敷は確認できないが現役の流れが合流しているのがわかる。
写真右側の高台になっている部分にはかつて黒目川が蛇行していたのだが、造成されて痕跡はなくなってしまった。
ここからの写真は2023/2/24撮影。
枯れ
少し上流にも分譲地造成の際に作られたと思われる排水口があるが、こちらは枯れているようだ。
公園
さらに上流、堀ノ内二丁目第二児童遊園の下に排水口があるが、こちらも枯れているようだ。
水路敷
左岸側に渡って児童遊園の南(上流)。河川敷から住宅地に向かってわずかな水路敷の隙間が残っていた。ここも黒目川の蛇行跡だが、反対側にはつながっておらず、前の写真の排水口に向かって暗渠かされてしまっているようだ。
ここからの写真は2023/2/18撮影。
塚
堀ノ内二丁目第二児童遊園の西側に松の木が植っている塚状の盛り上がりがある。特に周辺に説明もないが、人工物のようには見える。
ここからの写真は2023/1/28撮影。
水路敷
下流側に戻って、堀ノ内病院の北側にある崖下の水路跡を見ていこう。東側から堀ノ内病院に向かって眺めてみると、南側駐車場と北側の畑には高低差があり、その間(矢印部分)に水路敷が残っている。
駐車場
水路敷は堀ノ内病院の駐車場まで続いているが、西側ははっきりとした形では残っていない。
ここからの写真は2023/2/18撮影。
取水場
堀ノ内病院の北側を西へ歩いていくと、崖下に西堀浄水場第七取水場という施設がある。ここで崖下の地下水を揚水しているようだ。
崖
堀ノ内病院西側を通る馬喰橋通りを北向きに見たところ。通りが崖を駆け上がる手前の点線あたりに「東久留米市住宅地図1993」では水路が描かれているが、西側は民有地のため上流側を見ていくことは難しい。
東側
さて、黒目川支流(田中用水?)の方を見に行ってみよう。まずは東側から堀ノ内病院方向を見たところ。道路が途中で途切れ、その先は細い私道のようだがここが支流跡とわかるもっとも東側。堀ノ内病院の南側から流れてきていたものと思われる。
この写真は2023/3/19撮影。
堀ノ内病院
続いて南側から堀ノ内病院方向を見たところ。病院の手前で土地が凹んでいるのがわかるが、そのあたりが黒目川通りから流れてくる支流の水路敷があったと思われる場所。私有地の中を通っているため、近づいて眺めることは難しい。
ここからの写真は2023/2/18撮影。
庚申塔
コンビニから馬喰橋通りを少し南に進み、黒目川通り終点との交差点にある庚申塔。右側は天明元年(1781年)造立の青面金剛庚申塔と思われるが、風化して顔がよくわからなくなっている。左側の石塔に至ってはもはや何の意匠が彫られていたのかも定かではない。
堀ノ内病院前
そこから馬喰橋通りを北に戻って、コンビニの向かいにある堀ノ内病院前のバス停から西に伸びている空間が、どうやら黒目川支流の水路敷を活用したもののようだ。しかし、水路敷はいったん奥の住宅に突き当たって消えており、住宅の裏から再び姿を見せる。
水路敷
住宅裏から伸びている水路敷は、黒目川通りが南に向きを変える交差点にから東へ向かっている。写真は交差点から下流方向を見たところ。封鎖されておらず入っていけるように見えなくもないが、路面は防草用のゴムシートで覆われているので遠慮しておこう。
黒目川通り
ここから南へ向かう黒目川通り。写真奥の丸で囲んだ部分に何やら気になる構造物がある。
ガードレール
それは道路左側に唐突に設置されているガードレールとフェンス。右側に同じような構造物はない。
隙間
フェンスの向こうには水路敷があった。黒目川通りの支流に流れ込んでくる水路なのか、支流から分水した水路なのかはよくわからないが、写真奥でクランク状に曲がったあと、東側にある駐車場で終わっていた。
護岸?
その先には、道路左側の歩道に埋め込まれた護岸のような構造物がある。かつては道路左側に水路が流れていた跡なのだろうか。
地図その2
OpenStreetMapで後半、石神地区の地図を見る。黒目川通りを流れる支流は上流部分では黒目川通りを離れ、中溝川が合流する旧流路から分かれてきている。南側にもうひとつ支流があるので、そちらもあとで見に行ってみよう。
南へ
さて、黒目川通りが西向きに急カーブしたところで、南へ向かうもう一つの水路敷を見つけた。
南側
この水路敷は行き止まりではなく、南側にある石神二丁目第二児童遊園(通称石神どんぐり公園)までつながっている。
石神どんぐり公園
石神どんぐり公園は、黒目川の蛇行跡に作られており、住宅地や現在の黒目川の堤防より土地が一段低くなっている。さきほどの水路敷はこの蛇行跡に合流していたようだ。
蛇行跡
さきほどの水路敷から黒目川に向かって、住宅の脇を微妙なカーブを描く公園の敷地。かつてはここが黒目川本流だったと思われる。
黒目川から
黒目川本流から石神どんぐり公園を見たところ。手前の堤防や右手の住宅地と比べて、公園がかなり低いところにあるのがわかる。
続き
再び黒目川通りに戻って西へ進んでいく。
くねくね
くねくねといかにも川跡らしい道筋が続いている。
畑
通りから黒目川方向を見る。写真中央あたりで左右に畑は段差があるが、地図や空中写真では確認できない古い蛇行跡なのかもしれない。
石神緑地通り
南北(左右)に走る石神緑地通りとの交差点。ここまで右(北)側にあった歩道が左(南)側に移動している。
左へ
少し進んでいったところで左側に開けた空間が現れる。ここから上流は黒目川を離れ、左の方へ進んでいく。
日本初板紙工場跡
支流が黒目川通りに合流する場所を下流方向に見たところ。写真奥の矢印のところに「日本初板紙工場跡」という新座市設置の看板がある。明治9年(1876年)に秀英舎(のちの大日本印刷)の創業者佐々木貞一が、この地に自ら開発した抄紙機で麦わらを原料とした手漉きの黄板紙生産を始めたと書かれている。黒目川支流から引水した田中用水の水車が使われたとあるのだが、田中用水が黒目川通りの支流のことを指すのかはわからない。新座市文化財保護審議委員会会議録の議事録によれば、黒目川通りの歩道が田中用水であったのではと推定はされているようだ。
この工場は水量不足などで2年後には閉鎖されているそうだが、佐久間禎一はその後明治22年に南千住で稲わらを原料とした板紙(段ボール)の機械抄き生産を始め、荒川区などではこちらを板紙発祥の地としている(現在は日本製紙工場を経て、アクロシティ向かいの若宮八幡児童遊園に板紙発祥の地の碑がある)。
この写真は2023/3/21撮影。
黒目川へ
黒目川の蛇行跡へ向かっていく道路。今度は右側に歩道がついている。
ここからの写真は2023/2/18撮影。
分岐
途中、南へ向かうもう一つの支流との分岐点を見つけた。こちらの下流方向はあとで見ていこう。
S字
そこからさらに上流へ。S字カーブのところで歩道は終わっている。
駐車場
栗原橋から北上する道路との交差点。左手に見える駐車場の左側には黒目川旧流路跡が見えてくる。
旧流路
旧流路との分岐点まで来た。写真右側の木のあたりから、中溝川東側の支流が合流してきている。黒目川通りの支流としてはこのあたりが上流端ということになる。
溝
さて、ここでいったん下流の貝沼橋からさらに下流方向へ戻り、もうひとつの支流を見ていく。その支流が合流しているところにも黒目川の蛇行跡が残っているのだが、それがこの深い溝。この地点で黒目川はいったん西へ大きく蛇行したあと、この場所まで戻ってくる。写真奥で旧流路が東に折り返してくるあたりに、支流が合流していた。
黒目川
このあたりの黒目川は川辺まで降りていくことができる。
蓋
支流と旧流路の合流ポイントは私有地に囲まれていて観にいくことができないのだが、その手前には蓋暗渠が残っている。
排水口
この支流は現役の水路で、水は蓋暗渠の方向ではなくそこから南の黒目川の方向へ流されている。黒目川右岸から排水口を見ると、かなりの水量が流れ出ているのがわかる。流れとしては、中溝川などの水も合わせて流しているのかもしれない。
境界標
右岸側にあった境界標。横に「黒目川」と書かれている、黒目川流域ではそこかしこで見かけるタイプのもの。
車止め
蓋暗渠の向かい側には、上流に向かう水路敷がある。黄色い車止めで封鎖されているので入っていくことは難しい。
止まれ
分譲住宅地の間を抜けてきた水路敷が道路と交差するところから下流方向を見る。止まれの標識は水路敷に向かってのものではないと思うが、こちらは車止めがなく、入って行けなくもない。とはいえ、通路として使われているわけではないようなので遠慮しておこう。左の看板は錆びついてしまっているが、どうやら「この先通り抜け出来ません」と書いてあるようだ。
上流側
上流側にも水路敷が続いており、この反対側はさきほど見た支流との分岐点までつながっている。
シート
支流どうしが分岐する場所の少し東側に、黒目川に向かう水路敷が残っている。一直線に川へ向かっているので、人工的に作られた排水路ということだろうか。この西側にはもう旧流路の合流点がある。
by Natrium