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黒目川とその支流(都大橋〜上流端/さいかち窪)
地図その1
OpenStreesMapで黒目川上流域を見る。
今回は地図右側の都大橋を起点に、上流端まで黒目川本流を遡ってみる。
都大橋
黒目川を新宮前通りが渡る都大橋。随分と豪華な名前だが西側を南北に通る所沢街道に都橋が架かっており、都大橋は昭和60年(1985年)に新しく道路ができたときに作られたものだそうだ。
ここからの写真は2025/1/26撮影。
蛇行跡
都大橋の下流、左岸側には黒目川の蛇行跡が空き地として残っている。
都橋
都大橋から上流の都橋方向を見たところ。黒目川は写真左側を流れているが、道路側にも水路跡のようなものが残っている。
湧水
都橋から見ると、写真左の石垣下に湧き水があるのが見える。
都橋
都橋から上流側を見る。川沿いに道がないので、新宮前通りから上流を目指す。
水路敷
途中、黒目川の方向へ伸びる水路敷を見つけた。空中写真で見ると奥に橋が架かっており、川向こうの住宅に向かう道として利用されているようだ。
北側
新宮前通り北側に水路敷の上流部分があった。フェンスで封鎖されていて通ることができないが、空中写真をみると畑と民家の間を突っ切って北側の道路まで伸びている。
ここからの写真は2025/2/8撮影。
都大橋から氷川神社
国土地理院Webサイトから2009年の空中写真(国土地理院撮影)で都大橋から下里氷川神社付近を見る。
ロールアップで都大橋付近の蛇行跡と、さきほどの水路敷を示した。
北側
北側の道路まで回って、レンタル収納スペースの脇にある屋敷神(稲荷神社)越しに南へ向かう水路敷を眺める。
ところでこの北側の道路、ちょっと変わった特徴があるのだがあとでもう一度訪れるのでそこで説明しよう。
下里氷川神社
新宮前通り北側にある下里氷川神社。黒目川は神社の小高い丘を迂回するように北側に蛇行していて、神社東側で新宮前通りをくぐっている。
ここからの写真は2025/1/26撮影。
遊歩道
さきほどの写真には鳥居がなかったことでわかるように、下里氷川神社の正面は通りから一本入った上流側の氷川橋の先にある。ここから左岸(右)側に遊歩道があって、しばらくはそこを進んでいく。
正面
国立国会図書館デジタルコレクション所蔵の「東久留米市史」P1245によれば、下里氷川神社は長禄年間(1457〜1459年)の再建となっていて創建年代は明らかでない。
木陰
木陰の遊歩道(しんみやまえ親水こみち)を進んでいく。
台地と川
神社西側の台地は畑になっていて、川や遊歩道とは段差がある。写真奥に橋が見えるのだが、橋の南側に道はなくなんのために架けられているのかよくわからない。
橋の上
橋の上から上流側を見る。川に向かって階段が造られているところを見ると、親水公園として整備する方向なのかもしれない。写真奥に見える大きなサイロ群はコンクリート工場のもの。
暗渠
コンクリート工場の脇で黒目川はいったん暗渠になっている。
復活
が、すぐに復活。
右岸へ
その先で遊歩道は橋を渡って右岸側に移る。写真奥には埼玉県道4号新所沢街道が見えてきた。
宮裏橋
新所沢街道が黒目川を渡る宮裏橋。
全国Q地図の東京都3千分の1地図(1961〜1962年)を見ると、宮裏橋の北に流れ込む水路(悪水吐か?)がある。
地図上では出水川とは繋がっていないようだが、出水川の新宮橋近くから流れてきている。
駐車場
コンクリート工場の方から宮裏橋北側のコンビニエンスストア駐車場に出てくる小道がそれ。
ここからの写真は2025/2/8撮影。
グレーチング
工場西側を進んでいくと、道路にグレーチングが何箇所か埋め込まれていた。
入口脇
工場の入口脇に出てきた。地図の水路は写真正面にあるミラーの奥で左に曲がっているのだが、そのまままっすぐ進んでいく歩道も気になる。
私道
直進していく歩道の先を見てみると、グレーチングのある歩道脇に「私道につき駐車禁止」という看板が立っていた。先ほど予告したちょっと変わった特徴というのがこれ。
さらに右側の車道部分はここから東へ向かい先ほどの屋敷神脇の水路敷が出てきたところを過ぎ、所沢街道との交差点までアスファルトではなくコンクリートで舗装されている(交差点に工場の入口を示す看板がある)。
東久留米市市道路線認定網図を見るとこの道路は市道3126号線に指定されており、公道として扱われている。東側には東久留米市の境界標が何箇所かあったが一部は道路上(南寄りの路肩)にあり、市の境界になっているのは確かなようだ。
地籍図を確認してみたところ図郭どうしの接合がうまくいっていないため分かりにくいが、車道側は「道」となっていて歩道側には地番があるので、歩道側が私道ということのようだ。いずれにせよ、かなり広い範囲に渡ってコンクリート会社の所有地があるものと思われる。
道路はコンクリート工場に出入りするトラックなどが頻繁に出入りしているので、駐車されると困ったことになるのは間違いない。
(写真奥に駐車車両が見えるが、そこは店舗があって店舗の車両が停まっている様子であった)
分譲
道路の途中には普通に分譲住宅が道路に面しているのだが、その前に堂々と看板がある不思議な光景。
上り坂
さて、一度戻って地図の水路の方へ進んでみよう。北へ向かう道路は北にある出水川(でみずがわ)との間にある台地に向かって上り坂になっている。
砂利
坂の上は西側が分譲住宅になっているが、その先に進んでいくと道路脇に不自然に砂利舗装が現れる。位置から考えてこれが水路の名残なのだろう。
上流端
地図上の水路上流端は写真奥の止まれ標識あたりになる。そこから先は出水川に向かって下り坂になっており、水路が出水川と繋がっていたのかどうかは定かではない。
しんやま親水広場
続いて黒目川本流に戻り、宮裏橋から上流へ向かっていこう。上流側は「しんやま親水公園」として水路を覆っていたコンクリートを撤去して川辺に近づけるようになっている。
ここからの写真は2025/1/26撮影。
排水口
公園内にある名前のない橋の脇に北側から出てくる大きな排水口がある。
水辺
水辺まで降りていくことができる場所もある。この辺りから上流では黒目川は北側に蛇行していたが、蛇行跡の下流側は東久留米西住宅の敷地となっていて痕跡は残っていない。川筋は現在まっすぐに改修されている。
久留米西住宅
全国Q地図の東京都3千分の1地図(1961〜1962年)の旧流路をOpenStreetMap上に描画してみた。
旧流路の大半は団地の下になってしまっている。
欄干
まずは現在の流路を見ていこう。久留米西住宅のちょうど中央にある橋の上流側には古い欄干が残っているが、橋に名前はないようだ。
余水路?
欄干の先、右岸側に大きな分水口が口を開けている。黒目川の右岸側には親水公園の水位が上がらないように余水路が地中に設けら得ており、そこに向かって本流から溢れた水を取り込んでいるのだろう。
公園上流
余水路の働きもあって穏やかに流れる黒目川の親水公園。写真奥に見えるさくら橋のあたりで旧流路が北側に蛇行していた。
駐車場
さて、ここで旧流路の痕跡を探してみよう。久留米西住宅の北側に抜け、流泉園の崖下を通る道から住宅の駐車場を見る。駐車場の真ん中あたりを旧流路が流れていたはずだが、このあたりには痕跡はない。
ここからの写真は2025/2/8撮影。
水路跡
駐車場西側、団地と宅地の境目は旧流路に沿ってゆるやかにカーブしており、水路跡が空き地として残っていた。写真は黒目川左岸の遊歩道から団地の集会所を見たところ。写真左側の木立の間に水路跡の空き地がある。
公園西端
親水公園の上流端にある柳橋。橋の下にある排水口はかなり低い位置にあるので壁のように見える。
ここからの写真は2025/1/26撮影。
さいかちの道
柳橋を渡った先、新青梅街道までの間は「さいかちの道」と名付けられた遊歩道になっている。
取水口
柳橋上流側の取水口。ここから余水路に分水されているらしく、ゴミなどが入らないように柵が設置されている。
枯れ川
柳橋から上流では、黒目川の水は枯れていた。
写真奥で、遊歩道は川の上に張り出して造られている。
来梅橋
東久留米市立第十町学校の北側にある来梅橋と書いて「くるめばし」。東村山市に向かって建設中の新しい道路が渡っている。
写真奥には柳窪けやきの森広場が見える。橋は新しいが「来梅」は安政4年(1857年)の石碑にある古い久留米の書き方なのだそうだ。
るるめちゃん
来梅橋のたもとにある車止めに描かれていた東久留米市地域資源PRキャラクター「湧水の妖精 るるめちゃん」。
湿り
来梅橋から上流側を見る。川底に湿り気が見えるが、全体としては枯れているように見える。
夏
ここからは2024/7/28に撮影した夏の黒目川の様子を見ていこう。西側から流れてくる来梅橋の上流だが、結構な水が流れている。
合流
柳窪けやきの森広場の手前で、西から北原公園を水源とする支流が合流してくる。この支流も冬は枯れている。
本流
南から流れてきて合流点で曲がっている本流側も夏場は水が流れている。
ガードレール
柳窪けやきの森広場の西側を通る道路まで回って、北原公園の支流を北側から見たところ。ここからまずは北原公園の支流を見ていこう。
道路東側(左)にはガードレールがあるが、全国Q地図の東京3千分の1地図(1967年)を見るとここに橋があった。支流は写真右側(西)の坂道から流れてきていたようだ。
坂道
右に曲がって坂道を見る。地図上は写真奥のやや左寄り、現在は住宅になっているあたりから支流が始まっていた。
北原公園
1ブロック南側にある北原公園。現在はここに水源がある。
湧水
公園北側は遊水池のような窪地になっているが特に立ち入りは制限されていない。下ってみると地面は全体的に湿地のようになっており、水源の位置はよくわからなかった。
三方橋
柳窪けやきの森の南側にある三方橋から上流方向を見る。さいかちの道はいったん三方橋脇から道路と一緒になるが、その先に暗渠が見える。
ここからの写真はふたたび2025/1/26撮影。
散策路案内板
暗渠の上には散策路案内板が設置されていた。ここから上流の両岸は柳窪緑地保全地域として保護されている。
保全地域
暗渠はすぐに終わるが、遊歩道が左岸側に移って上流へ向かう。このあたりには何箇所か湧水があるとされているのだが、この時点では黒目川自体が枯れており、湧水も見当たらなかった。
天神橋
柳窪天神社の入口に架かる天神橋。もともと石橋だったが老朽化に伴い平成4年(1991年)にイメージを残しつつ架け替えられた。
柳窪天神社
天神橋から黒目川右岸側に移る遊歩道を進んでいくと柳窪天神社に至る。
柳窪天神社は柳窪村が開かれた寛文10年(1670年)ごろの創建と推定されている。
東京の名湧水
鳥居の近くには東京の名湧水57選(No.46 黒目川天神社)に選ばれている湧水があるのだが、これも枯れていた。
7月
2024/7/28に訪問した時には黒目川も含め水が流れていた。
地蔵菩薩
天神社の隣にある長福寺(こちらも寛文年間の創建と伝わる)の近くにはいずれも東久留米市有形民俗文化財に指定されている地蔵菩薩、石橋供養塔、庚申塔が並んで置かれている。一番古い庚申塔は明和元年(1764年)造立という。
ここからの写真は2025/1/26撮影。
長福橋
その先にある長福橋から遊歩道は左岸側に。
こいちょばし
「こいちょばし」というちょっと珍しい名前の橋で川沿いの遊歩道は終わっている。漢字では「越処橋」と書くが、その由来はわからない。
遊歩道
越処橋から上流は右岸側の少し高いところを遊歩道が通っている。遊歩道が通る右岸側は「黒目川越処橋特別緑地保全地区」として保全が図られている。
通路
途中で左岸側に渡る橋は、私有地にある黒目川水源の一つ「あがっと池」に向かう通路。このときはフェンスが開いているものの立ち入り禁止の看板が立てられている。大雨が降った後にだけ水が沸くという幻の泉で、おそらくこの時期は枯れていたと思われる。
あがっと池
実は2024/7にはあがっと池付近が開放されており、2024/7/28に訪問した際には池に水が沸いていることが確認できた。
上流端
現在の黒目川は新青梅街道に突き当たったところに上流端がある。
ここからの写真は2025/1/26撮影。
さいかち窪
新青梅街道の南側、小平霊園の中に黒目川の水源とされる「さいかち窪」が広がっている。
2024/7にはさいかち窪にも水が沸いていたというが、窪地全体が藪になっていて水が沸いている様子を見つけることはできなかった。ちなみに2025/1時点では窪地への立ち入りが禁止されていた。
小平霊園
「さいかち」は皁莢、皂莢、梍などと書くマメ科の落葉高木のことで、かつてはこのあたりにサイカチの巨木が何本も生えていたことからその名がついたという。
しかし、東久留米市の「明治時代各村地引絵図」にある柳窪村の絵図や、東村山市史研究第18号の口絵「大岱(おんた)村絵図(宝暦12年・當麻勉家文書)」を見ると現在の小平霊園敷地から水路が伸びているように見え、地籍図でも水路敷が記載されている。
もっとも大岱村絵図には「悪水」と注記があり(参考:東村山市ワークシート「古文書にチャレンジ!」第21回「大岱村御年貢勘定出入り御吟味ニ付小前地頭間絵図」=先の口絵と同じ絵図)、現在東村山市になっている旧大岱村の部分は畑の排水を流していた悪水吐だったようだ。
高低差
OpenStreetMapに全国Q地図で高低差を書き入れてみた。小平霊園全体は必ずしも平坦ではなく、旧大岱村の水路敷付近が窪地になっていることがわかる。
ところで、全国Q地図の東京都3千分の1地図(1961〜1962年)をみると大岱村の水路付近に「皇莢久保」という小字があるのだが、この字で「さいかち」とは読めないのではないだろうか。
国立国会図書館デジタルコレクション所蔵の「新編武蔵風土記稿 巻之122 多磨郡之34」には、柳窪村の小名として「皂莢久保」という記載があるのだが、その隣に「久留米川 小名皀莢久保ヨリ湧出シ(以下略)」という記載もある。一見わからないが前者が白のしたに七と書く「皂」、後者が白の下にヒと書く「皀」で、いずれも「皇」ではないが表記の揺れが見られる。
後者の「皀」はヒョウまたはキョウと読み脱穀前の穀物の「かんばしい」香りを指したというが、こう書いて「さいかち」さんという苗字もあるのだという。前者の「皂」の方が本来のサイカチでソウまたはゾウと読み、白に十と書く「皁」の方が正字であるとされる。
JIS X0208では「皀」に「皂」が包摂されてしまっていてなおさらややこしいのだが、「皇」を「サイカチ」の読みに充てた例としては「東久留米市文化財資料9 地名編」の柳窪村で「皇莢窪」と注釈を打った写真があるが、その上の地名の欄はヒの「皀莢窪」と書かれており、これは誤記とみて差し支え無さそうだ。
ちなみに万葉集では高宮王が詠んだ第16巻3855番歌に草冠に「皀」の字があり、葛の書き間違いとも、次に「莢」の字があることからサイカチ(さうけふ)を指すとも、カワラフジ(蛇結茨=ジャケツイバラ)を指すともされている。
なお、「新編武蔵風土記稿 巻之157 入間郡之2」の大岱村の小名としては出てこないため、東京都3千分の1地図の出典についてはわかっていない。
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