Natrium.jp
野川下流の水路敷群(二子玉川駅〜谷川緑道)

OpenStreetMapで二子玉川駅から谷川緑道までを見る。
野川と丸子川(旧六郷用水)に挟まれたこの領域には数多くの水路敷や水路跡が残っているが、全国Q地図の東京都3千分の1地図、国土地理院Webサイトの空中写真、地籍マップなどを参考に水路敷(通行できない場所や推定水路跡は点線)を書き入れてみた。
今回は下流よりから見ていくことにしよう。
(なお、玉電砧線の線路跡は点線で書いているが道路や遊歩道として利用されており、二子玉川駅近辺を除き基本的に通行できる)
野川と丸子川(旧六郷用水)に挟まれたこの領域には数多くの水路敷や水路跡が残っているが、全国Q地図の東京都3千分の1地図、国土地理院Webサイトの空中写真、地籍マップなどを参考に水路敷(通行できない場所や推定水路跡は点線)を書き入れてみた。
今回は下流よりから見ていくことにしよう。
(なお、玉電砧線の線路跡は点線で書いているが道路や遊歩道として利用されており、二子玉川駅近辺を除き基本的に通行できる)

まずは二子玉川駅から北に伸びる旧砧線西側に残る水路敷。フェンスの向こうには蓋暗渠があり、写真奥で北から曲がってきている。
ここからの写真は2025/2/14撮影。
ここからの写真は2025/2/14撮影。

北側の道路まで回って下流方向を見る。こちら側では水路敷は玉川高島屋東館駐車場の通路として利用されている。

振り返って上流方向。水路敷が続いているが通行はできないようだ。
ここからの写真は2025/2/5撮影。
ここからの写真は2025/2/5撮影。

水路敷は丸子川にかかる名前のない橋の西側まで続いている。丸子川の橋からこの場所まで道路幅が広くなっており、南側に水路があったようだ。

玉川高島屋ショッピングセンターの北側を通る中吉通りから北側の水路敷を見たところ。通り抜けることはできないが国道246号玉川通り(玉川高架橋)の高架下から蓋暗渠が中吉通りに突き当たっている。
地籍図上ではもともと高島屋本館の敷地内を南北に抜け、本館南側の道路まで伸びていたように見える。
地籍図上ではもともと高島屋本館の敷地内を南北に抜け、本館南側の道路まで伸びていたように見える。

国道の下にある「はなみずき広場」では水路跡は失われているが、その北側には丸子川から伸びる蓋暗渠が残っている。

丸子川寄りの都営玉川四丁目アパート脇では、水路敷はアスファルト舗装されている。さらに進むとインターロッキング舗装になっていた。

続いて玉川高島屋ショッピングセンターの本館南側から西館方向を見たところ。西館脇の道路で工事中の場所に暗渠がある。

本館と西館の間を抜ける道路を北側(上流側)から見たところ。地籍図を見ると道路西(写真右)側に水路があったように見えるが、道路自体が高島屋建設時に拡幅されており、おそらく水路は道路の下になっていると思われる。

中吉通りから北を見たところ。道路左側に蓋暗渠がある。

歩道として使用されている蓋暗渠は丸子川から二子玉川小学校の前を通って中吉通りまでつながっていた。

多摩堤通りまで行って多摩川旧堤防の上から北に向かう小道を見る。写真奥で道は失われている(地籍図にも水路敷はない)が、古くは多摩川堤防まで水路が伸びていたのかもしれない。

多摩川旧堤防から二子玉川駅を見る。二子玉川駅は写真右側に向かって多摩川河川敷にはみ出すように作られているが、堤防の外側、すなわち多摩川河川敷の旧堤外地と呼ばれていた場所にもマンションなどが建っている。
このあたりは2019年の台風19号で新二子橋と二子橋の間にあった堤防のない部分(無堤部。ただし土嚢による築堤はあった)から住宅地に多摩川と野川から氾濫した溢水(いっすい=水が流れ込むことを指す)が発生して被害を出したこともあり、旧堤外地を囲むように新しい堤防が建設されたばかり(管理用道路の開放は2025/4/26)だ。
このあたりは2019年の台風19号で新二子橋と二子橋の間にあった堤防のない部分(無堤部。ただし土嚢による築堤はあった)から住宅地に多摩川と野川から氾濫した溢水(いっすい=水が流れ込むことを指す)が発生して被害を出したこともあり、旧堤外地を囲むように新しい堤防が建設されたばかり(管理用道路の開放は2025/4/26)だ。

さきほどの路地からまっすぐ北へ向かうと高島屋西館西側の水路敷がある。
高速道路の下はフェンスで封鎖されていて通り抜けることはできない。
高速道路の下はフェンスで封鎖されていて通り抜けることはできない。

フェンスの北側、玉川高島屋西館の上を斜めに通り抜ける国道246号厚木街道。
昭和43年(1968年)にショッピングセンターの建設確認申請が行われた時点で都市計画道路放射4号線(現在の国道246号玉川通り)のバイバスとなる新二子橋のルートと重複していることがわかり、交渉の結果駐車場部分の上空を国道として使用することになったのだという。
ショッピングセンターの駐車場が一部玉川通りの東側に分かれているのは、西館の駐車場が当初地上6階建てで計画されたものの国道が通るために3階建てになったためなのだそうだ。
(参考:国立国会図書館デジタルコレクション所蔵「ザ・ショッピングセンター:玉川高島屋SCの20年」倉橋良雄, 1984)
昭和43年(1968年)にショッピングセンターの建設確認申請が行われた時点で都市計画道路放射4号線(現在の国道246号玉川通り)のバイバスとなる新二子橋のルートと重複していることがわかり、交渉の結果駐車場部分の上空を国道として使用することになったのだという。
ショッピングセンターの駐車場が一部玉川通りの東側に分かれているのは、西館の駐車場が当初地上6階建てで計画されたものの国道が通るために3階建てになったためなのだそうだ。
(参考:国立国会図書館デジタルコレクション所蔵「ザ・ショッピングセンター:玉川高島屋SCの20年」倉橋良雄, 1984)

西館の北側まで回って中吉通りから水路敷を南に見たところ。
水路敷の奥の方は従業員専用駐輪場として利用されている。
水路敷の奥の方は従業員専用駐輪場として利用されている。

振り返って中吉通りの北側にも水路敷が残る。

ひとつ北側の道路は玉電の線路跡で、その北側は二子玉川小学校に突き当たって終わっている。かつてはその先、丸子川まで水路敷がつながっていたのだろう。

いったん西側の道路に回って二子玉川小学校の北端まで行ってみると、付け替えられたと思われる水路敷が残っていた。
ここからの写真は2025/6/23撮影。
ここからの写真は2025/6/23撮影。

二子玉川小学校北側の道路には、高島屋SCから伸びてきた水路敷が鉄板で蓋をされて出てきている。

そこから北の丸子川方向へ伸びる水路敷。写真奥で閉塞しており、丸子川の方からは見ることができない。

玉川通りの旧道が多摩川を渡る二子橋のたもとから新設された堤防を越えて兵庫島へ。
兵庫島は野川と多摩川が合流する地点にある半島上に突き出した場所で、古くは島であったという。写真右奥のこんもりとした森が兵庫島の高台で、そこを含めた一帯は兵庫島公園として整備されており、写真左奥の多摩川より手前にはひょうたん池という人工の池もある。
兵庫島の由来としては正平3年(1358年)に新田義興(義貞の次男)家臣の由良兵庫助が没した、または亡骸が流れ着いた場所という伝説がある。(参考:「玉川沿革誌:附・名所旧蹟案内」田中博編, 1934)
ここからの写真は2025/6/21撮影。
兵庫島は野川と多摩川が合流する地点にある半島上に突き出した場所で、古くは島であったという。写真右奥のこんもりとした森が兵庫島の高台で、そこを含めた一帯は兵庫島公園として整備されており、写真左奥の多摩川より手前にはひょうたん池という人工の池もある。
兵庫島の由来としては正平3年(1358年)に新田義興(義貞の次男)家臣の由良兵庫助が没した、または亡骸が流れ着いた場所という伝説がある。(参考:「玉川沿革誌:附・名所旧蹟案内」田中博編, 1934)
ここからの写真は2025/6/21撮影。

二子橋の向こうには多摩川と野川の合流点がある。二子橋の手前までは野川の方が親水公園になっており、この日のように川の流れが穏やかな時は家族連れが水辺で遊ぶ姿も見かけられるが、ひとたび大雨になればこのあたりも濁流に飲み込まれる。

兵庫島から多摩川堤防に開いている谷川排水樋門を見る。樋門の上にはかつて谷川橋があった。
樋門のあたりで旧堤防が多摩川から逸れていくため、周辺には今回新たに堤防が整備されている。
樋門のあたりで旧堤防が多摩川から逸れていくため、周辺には今回新たに堤防が整備されている。

多摩堤通りに戻って谷川橋跡から谷川の最下流部を見たところ。
谷川は谷戸川の下流側が原型をとどめて取り残されているもので、最下流部は厚木街道の橋脚があって通ることはできない。
(写真手前側に見えるのは新二子橋に上る側道だが、車道部分は未成線となっていて歩道のみ供用されている。
ここからの写真は2025/2/5撮影。
谷川は谷戸川の下流側が原型をとどめて取り残されているもので、最下流部は厚木街道の橋脚があって通ることはできない。
(写真手前側に見えるのは新二子橋に上る側道だが、車道部分は未成線となっていて歩道のみ供用されている。
ここからの写真は2025/2/5撮影。

谷川橋跡の西側には寛永9年(1632年)に世田谷近辺の領主であった吉良家の旧臣、川辺氏が勧請したと伝わる諏訪神社がある。

諏訪神社東側にある二子玉川緑地前バス停から北に向かう通路があるが、少し進んだ先の高架橋下は二子玉川西地区ふれあい広場として整備されており、その西側に谷川緑道がある。
ここから中吉通りまではくねくねと蛇行する川跡がそのまま緑道として整備されている。
ここから中吉通りまではくねくねと蛇行する川跡がそのまま緑道として整備されている。

緑道入口脇にある看板。蛇行する様子がよくわかる。
西を仙川、東を玉川通り、北を丸子川、南を多摩堤通りに囲まれたエリアはあらかた区画整理が行われているのだが、この谷川緑道を挟んだ両岸はその対象になっておらず現在でも古い町割りが残されている。
西を仙川、東を玉川通り、北を丸子川、南を多摩堤通りに囲まれたエリアはあらかた区画整理が行われているのだが、この谷川緑道を挟んだ両岸はその対象になっておらず現在でも古い町割りが残されている。

緑道から西へ伸びる非常用通路。地籍図上は写真左(北)側にある区営玉川三丁目アパートの一部となっているようで、水路敷ではないと思われる。

谷川緑道の屈曲点には大きな植え込みが作られていた。

屈曲点から東へ向かう水路敷は高島屋SC西館の南側にあった水路敷とつながっていたと思われるが、国道の高架橋により分断されている。

写真左手に見える二子玉川地区会館別館の北側を谷川緑道が通っている。
国土地理院Webサイトの昭和38年の空中写真(国土地理院撮影)をみると、写真奥あたりに橋があったようだ。
国土地理院Webサイトの昭和38年の空中写真(国土地理院撮影)をみると、写真奥あたりに橋があったようだ。

別館北側では川幅が狭くなっているように見えるが、写真左の道路が一部水路敷を使っているようだ。

道路と別れた谷川緑道の左岸(東側)には側溝があり、その上に民家の木橋が渡されている。

再び大きく屈曲していく谷川緑道。写真左端に見える車止めの部分に橋があったと思われる。

蛇行を繰り返す谷川緑道。

蛇行した先に北から流れ込んでくる閉鎖された蓋暗渠があった。

中吉通りから蓋暗渠を見る。

振り返って北向きに玉電線路跡(花みず木通り)から続いている蓋暗渠。

花みず木通りの北側は道路脇に蓋暗渠が並走している。

途中、東に向かっていく道路に不自然な位置で側溝があった。地籍図では長狭物になっている部分で、水路敷なのかもしれない。

そこから先、道路脇の水路敷は鉄板で蓋をされている状態になっていた。この水路敷は丸子川とつながっておらず写真奥で道路に突き当たって終わっている。

谷川緑道に戻って西へ進む。

谷川緑道の上流端、フクロウの彫刻があるあたりで3方向から水路が合流していたようだ。写真右の中吉通りからくる水路は谷戸川の末端部、写真左奥は多摩堤通りから中吉通りを経由する水路、さらに写真左(南)には多摩堤通りを読売橋跡で曲がってくる水路があった。
次回はそれぞれ痕跡が残っているところもあるので見ていくことにしよう。
次回はそれぞれ痕跡が残っているところもあるので見ていくことにしよう。