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野川下流の水路敷群(蟹沢=がんざ=の谷)

OpenStreetMapで蟹沢(がんざ)の谷を見る。
蟹沢は北多摩郡神代村の小字(大字は入間=いりま)で、地名としては現在の調布市入間町(いりまちょう)三丁目にあたる。蟹沢の読み方については「かにさわ」「がんざわ」というフリガナが振られている資料もあるが、調布市立中央図書館所蔵の「調布市史」(調布市, 1990)上巻P89などには「がんざ」とありこれを採用しておくことにする。
調布市史によれば地名としての字蟹沢の西側には結構深い谷があってそこを蟹沢と呼んでいたとされ、蟹沢横穴墓群という古代の遺跡がみつかっているそうだ。
谷の出口は旧入間川だったが野川の流路変更に伴って合流地点付近の地形は失われているものの、調布市、狛江市、世田谷区が入り組んでいる谷戸橋から谷を遡り、地形としての谷筋をたどってみよう。
水路敷については地籍図および国立国会図書館デジタルコレクション所蔵の「東京府北多摩郡神代村土地宝典」(塩澤榮八郎/帝國市町村地圖刊行會, 1938)、「東京府北多摩郡狛江村土地宝典」(塩澤榮八郎/帝國市町村地圖刊行會, 1941)、および調布市立中央図書館所蔵の「調布市土地宝典 -市制30周年記念版-」(日本公図研究社, 1985)を参考とした。
蟹沢は北多摩郡神代村の小字(大字は入間=いりま)で、地名としては現在の調布市入間町(いりまちょう)三丁目にあたる。蟹沢の読み方については「かにさわ」「がんざわ」というフリガナが振られている資料もあるが、調布市立中央図書館所蔵の「調布市史」(調布市, 1990)上巻P89などには「がんざ」とありこれを採用しておくことにする。
調布市史によれば地名としての字蟹沢の西側には結構深い谷があってそこを蟹沢と呼んでいたとされ、蟹沢横穴墓群という古代の遺跡がみつかっているそうだ。
谷の出口は旧入間川だったが野川の流路変更に伴って合流地点付近の地形は失われているものの、調布市、狛江市、世田谷区が入り組んでいる谷戸橋から谷を遡り、地形としての谷筋をたどってみよう。
水路敷については地籍図および国立国会図書館デジタルコレクション所蔵の「東京府北多摩郡神代村土地宝典」(塩澤榮八郎/帝國市町村地圖刊行會, 1938)、「東京府北多摩郡狛江村土地宝典」(塩澤榮八郎/帝國市町村地圖刊行會, 1941)、および調布市立中央図書館所蔵の「調布市土地宝典 -市制30周年記念版-」(日本公図研究社, 1985)を参考とした。

野川に架かる谷戸橋を南側から見たところ。写真正面奥に蟹沢の谷がある。
野川はもともとここではなくもっと南側を流れて多摩川に注いでいたが、江戸時代に六郷用水(次大夫堀)の開削に伴ってそちらに接続されたが、昭和42年(1967年)になってさらに上流部分を旧入間川(いるまがわ)の流路付近に新たに開削する工事が行われ、入間川が野川に合流する形となった。
谷戸橋は入間川合流点の少し下流にあり、狛江市東野川四丁目の一部(旧小足立村字谷戸)は入間川の北側に張り出した形になっていた(現在も一部が野川左岸に張り出している)。
ここからの写真は2025/8/26撮影。
野川はもともとここではなくもっと南側を流れて多摩川に注いでいたが、江戸時代に六郷用水(次大夫堀)の開削に伴ってそちらに接続されたが、昭和42年(1967年)になってさらに上流部分を旧入間川(いるまがわ)の流路付近に新たに開削する工事が行われ、入間川が野川に合流する形となった。
谷戸橋は入間川合流点の少し下流にあり、狛江市東野川四丁目の一部(旧小足立村字谷戸)は入間川の北側に張り出した形になっていた(現在も一部が野川左岸に張り出している)。
ここからの写真は2025/8/26撮影。

谷戸橋から蟹沢の西側にある城山を見る。城山は旧入間村の字名で、見ての通り川から見ると大きな山に見えるが崖になっている部分が武蔵野台地の南端になっている国分寺崖線で、城山は台地の上ということになる。
蟹沢は国分寺崖線に食い込んだ谷ということだ。
ところで、崖の前に広がる河川敷部分は外郭環状道路の用地として確保されている部分で、このあたりでは野川左岸に並走する形で地下のシールドトンネルの掘削はすでに進んでいる。もっともここから北へシールドマシンが進んでいく途中で発生した調布市内での陥没事故の補修工事が行われているため、シールドマシンは堀進工事を中断している。
蟹沢は国分寺崖線に食い込んだ谷ということだ。
ところで、崖の前に広がる河川敷部分は外郭環状道路の用地として確保されている部分で、このあたりでは野川左岸に並走する形で地下のシールドトンネルの掘削はすでに進んでいる。もっともここから北へシールドマシンが進んでいく途中で発生した調布市内での陥没事故の補修工事が行われているため、シールドマシンは堀進工事を中断している。
谷戸橋を渡って谷の手前にある交差点。ここには、マウスオーバーで表示されるように狛江市、調布市の境界標と世田谷区成城の住所表示が揃っている。
もっとも、地番としては歩道右側が狛江市東野川、左側が調布市入間町で世田谷区ではない。写真右側に写っている塀の向こうはかつてサッポロビールの球場と寮があったのだが、2003年に完成したパークシティ成城というマンションが建設された際に地番上では狛江市にはみ出している部分も含めて住居表示としては世田谷区成城四丁目とされたのだ。
一般的に住居表示番号を新たに付番する場合は建物の主要な出入口の位置を基準とするが、出入口が複数ある場合は区市町村長の認定でいずれかを主要なものと選定し、建物全体に適用することになっている。(参考:世田谷区:住居表示の制度について)
パークシティ成城の場合、地番の上では8棟ある建物のうち西側の2棟はほとんどの部分が狛江市側に建っているのだが、主要な出入口は成城側にあるとみなされている。狛江市の土地に住んでいても住所は成城になるので狛江市は住民税収入が減ってしまうが、デベロッパーと狛江市の話し合いにより合意に至ったということのようだ。
Google MapやOpenStreetMapは住居表示ベースで自治体の境界線を示しているためややこしい区市境が引かれているが、住居でない地面は狛江市として扱われているらしい。
(なお、GoogleMapではG-II棟(G棟の西側部分)が狛江市として表示されているが、住居表示はG-II棟も世田谷区なのでOpenStreetMapの方が実態に即している)
ここからの写真は2025/8/30撮影。
もっとも、地番としては歩道右側が狛江市東野川、左側が調布市入間町で世田谷区ではない。写真右側に写っている塀の向こうはかつてサッポロビールの球場と寮があったのだが、2003年に完成したパークシティ成城というマンションが建設された際に地番上では狛江市にはみ出している部分も含めて住居表示としては世田谷区成城四丁目とされたのだ。
一般的に住居表示番号を新たに付番する場合は建物の主要な出入口の位置を基準とするが、出入口が複数ある場合は区市町村長の認定でいずれかを主要なものと選定し、建物全体に適用することになっている。(参考:世田谷区:住居表示の制度について)
パークシティ成城の場合、地番の上では8棟ある建物のうち西側の2棟はほとんどの部分が狛江市側に建っているのだが、主要な出入口は成城側にあるとみなされている。狛江市の土地に住んでいても住所は成城になるので狛江市は住民税収入が減ってしまうが、デベロッパーと狛江市の話し合いにより合意に至ったということのようだ。
Google MapやOpenStreetMapは住居表示ベースで自治体の境界線を示しているためややこしい区市境が引かれているが、住居でない地面は狛江市として扱われているらしい。
(なお、GoogleMapではG-II棟(G棟の西側部分)が狛江市として表示されているが、住居表示はG-II棟も世田谷区なのでOpenStreetMapの方が実態に即している)
ここからの写真は2025/8/30撮影。

パークシティ成城の南側、野川左岸の外環自動車道用地にある狛江ハイタウン折返場バス停。
狛江ハイタウンは谷戸橋の反対側、野川左岸にある団地だが、パークシティ成城の住民を輸送することを考慮してこの場所に終点を置いたらしい。
とはいえ、現在ここを発着するバスは喜01系統喜多見駅行きのみで日中は1時間に1本程度(ただし平日11〜13時台、土休日11〜12時台には喜多見駅から来た便は回送で折り返してしまう)しか運行されておらず、成城学園前駅から徒歩で1.5km程度のところにあるにしては閑散としている。まあ、歩いて成城学園前駅まで行けなくもないし、蟹沢の崖をのぼれば成城八丁目バス停からは6分程度おきにバスが出ているので需要が少ないということで本数が減らされてしまったのだろう。
このバス停からつつじヶ丘駅南口まで運行していた京王バス丘19系統は1日31往復していたが、2023/2/28に廃止となって1日2往復しかない丘14系統(つつじヶ丘駅南口〜狛江ハイタウン折返場〜調布駅南口行き)となり、これも2024/12/15で廃止されてしまったため京王バスはここまで来なくなっている。
成城八丁目バス停まで坂を登って行くにしても、野川を遡って松原通りの明照院バス停まで行くにしてもお年寄りの足では15分程度は必要で京王バス廃止時には反対意見もあったと聞く。
狛江ハイタウンは谷戸橋の反対側、野川左岸にある団地だが、パークシティ成城の住民を輸送することを考慮してこの場所に終点を置いたらしい。
とはいえ、現在ここを発着するバスは喜01系統喜多見駅行きのみで日中は1時間に1本程度(ただし平日11〜13時台、土休日11〜12時台には喜多見駅から来た便は回送で折り返してしまう)しか運行されておらず、成城学園前駅から徒歩で1.5km程度のところにあるにしては閑散としている。まあ、歩いて成城学園前駅まで行けなくもないし、蟹沢の崖をのぼれば成城八丁目バス停からは6分程度おきにバスが出ているので需要が少ないということで本数が減らされてしまったのだろう。
このバス停からつつじヶ丘駅南口まで運行していた京王バス丘19系統は1日31往復していたが、2023/2/28に廃止となって1日2往復しかない丘14系統(つつじヶ丘駅南口〜狛江ハイタウン折返場〜調布駅南口行き)となり、これも2024/12/15で廃止されてしまったため京王バスはここまで来なくなっている。
成城八丁目バス停まで坂を登って行くにしても、野川を遡って松原通りの明照院バス停まで行くにしてもお年寄りの足では15分程度は必要で京王バス廃止時には反対意見もあったと聞く。

さて、パークシティ成城の北側に回って蟹沢の谷の入口を見る。
狛江村土地宝典によれば、写真奥へ向かう道路西側に水路があった。現在でも道路西側の水路跡は狛江市、右側は調布市の地番となっている。
狛江村土地宝典によれば、写真奥へ向かう道路西側に水路があった。現在でも道路西側の水路跡は狛江市、右側は調布市の地番となっている。

道路を突き当たりまで行ったところ。道路は左(西)に曲がっているが、写真手前に見えるマンホールに向かって東側の水路敷がまっすぐ伸びてきている。東側の水路敷は地籍図にも記載があるが、私有地に向かっているのでここから通り抜けることはできない。
神代村土地宝典によれば西側の道路にも写真左に水路があり、写真奥に見える谷の西側崖下の道路を流れてきていた。
神代村土地宝典によれば西側の道路にも写真左に水路があり、写真奥に見える谷の西側崖下の道路を流れてきていた。

西側崖下の道路に回ってみる。すぐ北側で二又に分かれており、崖は左にあるが神代村土地宝典にある水路は右の道路の方を流れていた。地形図では左の方に小さな支谷があるようだ。
ここからの写真は2025/8/26撮影。
(ちなみに、写真右側の草むらは8/30に再訪したところ前の写真で見るようにすっかり刈り取られていた。)
ここからの写真は2025/8/26撮影。
(ちなみに、写真右側の草むらは8/30に再訪したところ前の写真で見るようにすっかり刈り取られていた。)

右側の道路を進んでいくと東向きに駐車場があり、奥に東側の崖が見える。東側の水路敷は崖下に残っているが、西側の水路はこのあたりでは道路と離れていたらしく、駐車場のどこかを南北に横断していたようだが痕跡は残っていない。

道路の方をさらに進んでいくと入間公園に突き当たる。入間公園は東西の崖に挟まれた蟹沢の細長い谷を使って作られている。
西側の水路も公園内では地籍図上も水路敷として残っており、写真奥の遊歩道は水路敷上に作られているようだ。
西側の水路も公園内では地籍図上も水路敷として残っており、写真奥の遊歩道は水路敷上に作られているようだ。

入間公園に入って南側を見たところ。公園は入口の南側にも伸びており、左右の木立がそれぞれ東西の水路敷となっている。
写真左側にも
写真左側にも

東側崖下の水路敷は公園内にも残っている。

西側の水路敷は公園内の遊歩道になっており、崖下にある歩道よりも東寄りを通っている。

ところで、東側の擁壁が一部崩れたそうで、公園の一部が安全のため立入禁止となっていた。擁壁の崩落後は確認できなかった。

入間公園は徐々に上りながら写真奥の住宅手前で終わっている。
西側の水路敷は写真のあたりで遊歩道を左にはずれ、左側の木立の間に見える住宅の方から来ているが、見た目では痕跡は残っていない。
東側の水路敷は公園北側の出入口から崖下を流れ落ちてきていたようだ。
西側の水路敷は写真のあたりで遊歩道を左にはずれ、左側の木立の間に見える住宅の方から来ているが、見た目では痕跡は残っていない。
東側の水路敷は公園北側の出入口から崖下を流れ落ちてきていたようだ。

公園北端まで行って西側水路敷を見る。水路敷は住宅前の行き止まりの道路部分と思われるが、嵩上げされている。
ここからの写真は2025/8/30撮影。
ここからの写真は2025/8/30撮影。

公園の北側出入口に向かうと、そこからさらに北へ水路敷が続いていた。

道路に出たところで西側を見る。西側の水路敷は写真奥の交差点あたりまでで終わっていて、神代村土地宝典ではそのあたりに池らしきものが描かれているのでかつては湧水があったのだろう。

前の写真奥の交差点右へ進んで次の交差点を西向きに見たところ。坂を上って行く道は公園西側にあった歩道につながっているのだが、写真奥のあたりで宅地造成工事の際に古代の横穴墓(蟹沢横穴墓群)が見つかっている(現在は残っていない)。
ここからの写真は2025/8/30撮影。
ここからの写真は2025/8/30撮影。

一方、東側水路敷の上流端は1区画北へ進んて崖上から降りてくる坂道の下(写真右端)にある。
ところで、写真左に見える「徐行」の標識だが英語の「SLOW」が書かれていない古いもので、写真奥の坂下には「SLOW」が書かれている新しいもの(2017年度以降に導入されたもの)になっている。
ところで、写真左に見える「徐行」の標識だが英語の「SLOW」が書かれていない古いもので、写真奥の坂下には「SLOW」が書かれている新しいもの(2017年度以降に導入されたもの)になっている。

さて、ここでいったん急坂を登って蟹沢の台地上に行ってみよう。坂を登り切ったところに分譲住宅地が広がっているが、西側(写真手前)は東側に比べて少し低くなっている。
この分譲地には2017年まで成城テニスクラブというテニスコートがあった。
この分譲地には2017年まで成城テニスクラブというテニスコートがあった。
国土地理院Webサイトから平成4年空中写真(国土地理院撮影)と昭和36年空中写真(国土地理院撮影)を比較してみる。
前の写真で公園内の段差になっている部分が東西のテニスコースを分ける境目だったようだ。
実は調布市土地宝典を見ると、このテニスコートを周回するように水路敷が描かれている(中央点線部分)。崖上に水路敷があるのは珍しいがテニスコートになる前は畑の周りを囲むように水路があったらしい。
前の写真で公園内の段差になっている部分が東西のテニスコースを分ける境目だったようだ。
実は調布市土地宝典を見ると、このテニスコートを周回するように水路敷が描かれている(中央点線部分)。崖上に水路敷があるのは珍しいがテニスコートになる前は畑の周りを囲むように水路があったらしい。

北側の水路跡は道路右側の路肩部分にあったと思われる。写真は西に向かって見たところ。

道路を進んで谷に降りる階段の上から見たところ。写真奥には城山側の高台が見え、深い谷になっているのがわかる。
写真左側の矢印部分から南に向かって現在も地籍図上の水路敷が残っているが、崖の途中にあるように見える。
写真左側の矢印部分から南に向かって現在も地籍図上の水路敷が残っているが、崖の途中にあるように見える。

茂みから水路敷を覗き込んでみる。
周辺が宅地化されたなか写真右側に耕作地が残っているが、水路敷部分は土手状の草むらになっていて利用されていない様子。宅地化されなかったことでこの部分だけ水路敷が残ったのだろう。
周辺が宅地化されたなか写真右側に耕作地が残っているが、水路敷部分は土手状の草むらになっていて利用されていない様子。宅地化されなかったことでこの部分だけ水路敷が残ったのだろう。

一方振り返って北側には、擁壁の下に利用されていない残余地が北へ伸びている。こちらは地籍図や土地宝典では水路として描かれていないが、宅地化する際に東(右)側が嵩上げされて取り残されたように見える。
もともと、崖地の一部だったのかもしれない。
もともと、崖地の一部だったのかもしれない。

階段下の道路を南側の坂下から東側の崖下道路を見たところ。ここから北側の谷は旧字名では東野となるが、地籍図や土地宝典では水路敷としては記載されていない。東側の道路は写真奥で突き当たり左に曲がっている。
ここからの写真は2025/8/26撮影。
ここからの写真は2025/8/26撮影。

横穴墓群跡に向かう交差点から西側の崖下道路を見たところ。こちらは擁壁の下に道路が張り付いた形になっているが、こちらも水路敷としては扱われていない。

東側から道路が合流してきたところで、中央学園通りに向かって急坂が上って行く。地形としてはこのあたりに谷頭があったようにみえるが、かなり古い地形で湧水は枯れていたのだろう。

坂を上って中央学園通りに出たところで少し東側に向かって西を振り返ったところ。
くねくねと曲がる通りの手前側にある横断歩道付近が微妙に谷間になっており、さらに古い谷の跡が通りの北側に残っている。
くねくねと曲がる通りの手前側にある横断歩道付近が微妙に谷間になっており、さらに古い谷の跡が通りの北側に残っている。

通りの北側にはくねくねと蛇行する谷筋があり、その中央に道路がある。ただしこの道路は土地宝典には記載がなく、谷筋に沿って広がっていた農地が宅地化された際に作られたものだ。道路は写真奥へ進んでいくと行き止まりとなって終わっている。
急峻な谷になっていた蟹沢と比べるとこちらの谷は浅く、普段は水が流れていた様子はなかったのだろう。
急峻な谷になっていた蟹沢と比べるとこちらの谷は浅く、普段は水が流れていた様子はなかったのだろう。

東側の成城富士見通りまで回って、八百幸と神戸屋レストランの間にある細道を進むと谷の入口に石仏群がある。
国立国会図書館デジタルコレクション所蔵の「調布市の石造物1(路傍の石仏)」によれば、右(西)から地蔵菩薩、聖観音菩薩、庚申塔とされいずれも17世紀後半の造立だという。
谷筋はここから北へ、神戸屋レストランの駐車場脇を通っているが宅地化も進んでおり地形をたどるのはなかなか難しい。西友調布入間町店の第二駐車場奥に見える窪地が谷筋であろうと思われる。
国立国会図書館デジタルコレクション所蔵の「調布市の石造物1(路傍の石仏)」によれば、右(西)から地蔵菩薩、聖観音菩薩、庚申塔とされいずれも17世紀後半の造立だという。
谷筋はここから北へ、神戸屋レストランの駐車場脇を通っているが宅地化も進んでおり地形をたどるのはなかなか難しい。西友調布入間町店の第二駐車場奥に見える窪地が谷筋であろうと思われる。

谷の西側、住宅地の一角に稲荷大明神が祀られている。

稲荷大明神から成城富士見通りへ向かって行く途中に地形図での谷頭がある。写真奥に見えるマンションの敷地内に谷頭があると思われるのだが、造成でわからなくなっている。写真の道路を進んで成城富士見通りから振り返ってみると窪地になっているのがわかるので、このあたりが谷であることは間違いない。

成城富士見通りに出て少し北へ進んだ南入間町(みなみいりまちょう)バス停脇の交差点にある庚申塔。前出の「調布市の石造物1(路傍の石仏)」によれば、さきほどの石仏群よりも新しく文化9年(1812年)造立という。