野川周辺の水路敷群(上流端と日立中研)
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野川最上流部を見る。
今回は元町用水と合流する不動橋から野川を上流端へ向かって進んでいこう。
国分寺街道が野川を越える一里塚橋のすぐ西側、元町用水との合流点にある不動橋を南側から見たところ。
橋の向こう、写真左奥に橋名の由来となった不動明王碑などがある。
ここからの写真は2023/12/17撮影。
不動橋から上流方向を見たところ。手前は普通の開渠だが、写真奥の方では梯子型開渠になっている。
途中で川と別れる道路を北に回って、欄干が緑色に塗られている緑橋から上流を見たところ。かなり幅の広い梯子型開渠の下を、ささやかに野川が流れている。
あやめ橋から上流方向をみると2つ橋が見えるのだが、これは私道で北側は民家となっている。空中写真で見ると北側にある2軒の住宅は川を渡らないと入れないようだ。
あやめ橋から南へ向かう道路。車止めの先に水路敷があるのが見える。とりあえずこちらの支流を先に見てみよう。
西向きに振り返って上流側。道路右(北)側の側溝が水路敷の跡と思われる。
すぐに次の角を南へ。側溝の蓋(グレーチング)がない部分には水が流れている。
途中でグレーチングがなくなった側溝を遡っていくと、西向きに曲がったところで突き当たりとなる。
突き当たりから南を向いたところ。正面に崖が見える。
突き当たりの崖は一部が削り取られたように奥へ窪んでおり、写真右下には湧水の出口もあるように見える。
谷頭は奥の方が広くなっており、地面には水が出ているように見えた。
野川本流に戻って川筋の北側から上流へ。国分寺駅から府中街道へ向かう多喜窪通りが野川を越えるところでは通りが嵩上げされており、野川とはかなりの高低差がある。
上流側はフェンスで覆われており、橋という感じではない。
北へ向かっていく野川の東側、崖上の道路から谷に落ちる水路敷らしき隙間があった。
東側道路はすぐに谷に降りるが、そこにも野川に向かって水路敷が残っている。国分寺市立恋ヶ窪図書館所蔵の「国分寺市域内の主な道路及び水路図」(国分寺市役所、1976)では道路の方も水路があったことになっているので、もとは水路の間をつなぐ流れだったのだろう。
道路右(東)側の崖を造成して住宅が建ち並んでいる。
野川上流端の手前を東西に渡る押切端。付近の旧字名が押切間で、このあたりは押切間の谷と呼ばれている。
上流端の左岸側は緑地になっているが、立入禁止であった。
右岸側の行き止まりから上流端を見たところ。野川としては写真奥のトンネル手前が上流端ということになるが、水路のトンネルは中央線の北側にある日立製作所中央研究所の敷地から流れてきている。
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日立製作所中央研究所近辺を見る。
中央線北側にある日立中研は国分寺崖線が国分寺駅の西側で北に食い込んでいる場所にあり、研究所敷地の東側には谷筋が、南には大池と呼ばれる名前の通り大きな池があり、その北側に野川源流とされている湧水がある。
前記の水路図では大池の西側に2本の水路があり、玉川上水の分水である恋ヶ窪分水が姿見の池を経由して流れてきている。
2023/11/26に新型コロナ流行収束後3年ぶりの開催となった日立製作所研究開発グループ(国分寺サイト)、旧中央研究所の庭園公開に参加した。日立製作所が昭和17年(1942年)に中央研究所を設立した際、初代社長の小林浪平が「よい立木は切らずによけて建てよ」としたことから構内には武蔵野の原生林が今も残る。(参考:
日立製作所:中央研究所の森)
研究所東側の入口を通り、返仁橋から北側の谷筋を見る。谷筋の上流方向は開放区域に入っていない。
橋の名前は日立製作所創業者の一人である馬場粂夫が名付けた「変人会」に由来するのだという。
南にある大池に向かっていく下り道の途中で、返仁橋北側から流れてくる小川を見ることができる。この川筋は大池に合流せず、大池南側で野川上流端に向かう水路に合流している。
大池南端から野川へ向かう水路。写真奥で中央線北側にある道路の下をトンネルで抜けていく。
大池は昭和33年(1958年)に湿地を利用して造成された人工の池。東西に別れた瓢箪型をしている。
大池に棲む白鳥は皇居の堀から一つがいを下賜されたのが始まりだそうだ。
大池西側の端に恋ヶ窪分水北側流路の出口かもしれない排水口があった。南側流路は大池の南側を流れているというが、確認できるような場所はなかった。さきほどの出口水路には合流しているらしい。
そこから少し東、大池がくびれたところの北側にもう一つ湧水池がある。