野川周辺の水路敷群(恋ヶ窪分水)
OpenStreetMapで
恋ヶ窪分水の中下流部を見る。
日立製作所中央研究所(現在は研究開発グループ 国分寺サイト)の大池周辺の湧水から野川は始まるが、大池の西側には玉川上水の分水である恋ヶ窪分水が流れ込んでいる。
今回は、途中で姿見の池にも寄りつつ恋ヶ窪分水とそこに合流している支流を見ていこう。
恋ヶ窪分水は姿見の池の下流では南北二つの流れに分かれている。まずは南側の流れ。西武国分寺線の西側で水路敷が道路と交差する場所から下流方向を見たところ。
水路敷は西武国分寺線の手前まで残っているようだが、日立製作所敷地の中では流路ははっきりとしない。
ここからの写真は2023/11/19撮影。
道路から上流を見る。合成木の柵で立ち入りができないようになっているが、砂利舗装された水路敷はそのまま崖下を通っているようだ。
西へ進んで道路から水路敷を見られるところまで来て下流方向を見ると梯子型開渠になっていた。結構な水量が流れている。
ここでいったん西武国分寺線ガードに戻って、北側の流路を見てみよう。こちらも水路敷と道路が交差するところから下流方向を見たところ。
下流側は車止めがあるものの通っていけないことはなさそうだが、入っていくのは遠慮しておく。
西武国分寺線ガードから姿見の池北側を通って武蔵野線方向へ向かう道路に北側流路の水路敷入口(写真左の車止め)があった。
すぐ西側で水路敷は道路より北側から出てくる。写真手前右に見える網で通行止めされた部分が水路敷。ここから先は住宅地の間を抜けていて道路がないため西側に回ってみる。
西側に回って行き止まりの道路から水路敷の下流方向を見る。写真正面のフェンス前で水路敷が左から右へ折り返しており、一方写真奥の住宅に沿ってまっすぐ流れていく水路敷も見える。
ここからの写真は2024/3/11撮影。
上流方向にも水路敷が続いている。写真奥を流れる水路敷と比べるとだいぶ高い位置にあるように見えるが、フェンスに囲まれた土地に合わせて暗渠化する際に嵩上げされているのかもしれない。
姿見の池脇の道路から水路敷に入っていくところを下流方向に見る。道路には石橋と欄干の跡が残っているが、元の橋の幅は現在の道路より狭かったようで、道路南側(写真手前)には橋の跡はない。
ここからの写真は2023/11/19撮影。
振り返って上流方向は遊歩道となり、姿見の池へ向かう。
北側流路は姿見の池の北側に沿ってさらに上流から流れてきているように見える。
ちなみにさきほどの遊歩道から少し西側に、道路から池に向かって砂利敷の細い空間があるがこれも水路敷だろうか。
さて、姿見の池は一度埋め立てられたものを平成10年(1998年)に復元したもの。
古代には写真右端の看板あたりから左右(南北)に東山道武蔵路が通っていた位置にあり、鎌倉時代には鎌倉街道上道(かみつみち)の宿場町があった場所になる。恋ヶ窪の宿場町にいた遊女たちが朝な夕な池に自らの姿を映していたことから名前がついたという言い伝えがある。
一方、恋ヶ窪という地名についても源平争乱の頃に畠山重忠(1164〜1202)と恋に落ちた遊女夙妻太夫(あさづまたゆう)が重忠が討死したという嘘をはかなんで身を投げたとの伝説も残っている。
この写真は2024/3/11撮影。
姿見の池西側、南側の水路は公園敷地脇を通っている。
ここからの写真は2024/9/11撮影。
そこからすぐ南側の崖上に稲荷神社の小さな祠がある。
一方、姿見の池北側を流れる水路は池の北側にある道の脇から流れてきている。
ここからの写真は2024/3/11撮影。
道路左(西)側を北から恋ヶ窪分水が用水路として流れてきていたのだろう。
恋ヶ窪分水はこの先熊野神社まで道路脇を直進していくが、写真左側、西恋ヶ窪一丁目交差点から東福寺へ向かって流れていた支流があるので、少しそちらに寄り道してみよう。
前の写真手前の道路脇にある真言宗豊山派の東福寺。鎌倉時代初期の創建と伝わる。
この写真は2024/9/11撮影。
東福寺の西北、府中街道沿いの崖上にある坂下稲荷社に寄り道。恋ヶ窪村の名主、坂本家が寛政5年(1793年)に祀ったという。
この写真は2024/3/11撮影。
東福寺北側から写真手前までは東福寺や民家の敷地になっており、水路跡はわからない。この道路が水路跡と思われ、写真奥の擁壁で左から曲がってきている。
この写真は2024/9/11撮影。
擁壁のところで府中街道方向(西)を見たところ。写真奥に見える街道と比べて手前側がかなり低くなっているが、水路は西恋ヶ窪一丁目交差点(写真右奥)から写真手前へ流れていたようだ。交差点付近は嵩上げされている。
ここからの写真は2024/3/11撮影。
府中街道と熊野神社通りが交差する西恋ヶ窪一丁目交差点を東側から見たところ。写真ではわかりにくいが奥の住宅が道路面より低い位置に立っていて、交差点付近が嵩上げされているのがわかる。
交差点北西側、木立というか薮に阻まれてよくわからないがフェンスの向こうが谷になっていて2m程度段差があるように見える。
府中街道の西側を並走する武蔵野線の高架下にある西恋ヶ窪道成(どうじょう)窪公園を北向きに見たところ。手前の道路を東西に支流の水路が通っていたと思われる。
道成窪というのがこのあたりの小字名で、畠山重忠が夙妻太夫を供養するために建立した無量山道成寺に由来するのだという。
公園から西側を見ると、住宅地の中央を東西にまっすぐ貫く水路敷があった。
その次の道路で水路敷は上流端となっている。写真は下流方向を見たところ。
谷筋の終わりには西恋ヶ窪緑地(通称エックス山)という小高い丘がある。雑木林を通る小道がXの字に交差していたことからエックス山と呼ばれるようになったそうだ。
さて、恋ヶ窪分水に戻って北へ。まっすぐ道を進んでいくと熊野神社通りに着き、右手に熊野神社がある。
ここからの写真は2023/11/19撮影。
熊野神社通り北側、西武国分寺線までの間は原型を留めている部分が恋ヶ窪用水路周辺緑地として保存されている。石垣の奥に見える素堀の堀割りは江戸時代の様子を残しているという。
堀割りの手前にある市重要史跡の看板。ここでは「恋ヶ窪村分水」と書かれている。恋ヶ窪分水(恋ヶ窪用水、恋ヶ窪村分水)は明暦3年(1657年)に開削された国分寺村外二ヶ村組合分水の3本ある流れのひとつで、玉川上水を西武国分寺線鷹の台駅南で分水し、玉川上水の左岸側を並走したのち府中街道脇を流れて途中で3つに分かれ、ここまで来ていた。
緑地北側まで行って下流方向を見たところ。階段はあるが開放はされていない。
振り返って上流方向。西武国分寺線が恋ヶ窪分水を斜めに横切っており、線路の向こうに写真ではわかりにくいが上流側のフェンスが見える。
線路の反対側に回り込んで、フェンス脇から上流方向を見る。舗装されていない水路敷が見えるが、写真手前はマンションの住民が使っているような気もする。
ここからの写真は2024/9/11撮影。
水路敷東側に並走している道路を北へ向かうと、途中で水路敷に向かって伸びている草むらがあった。
水路敷東西の道路を結ぶ「仲よし橋」。比較的新しく作られたもののように見える。
仲よし橋から上流方向を見たところ。こうやって見ると、橋の左(水路敷の右岸)側の方が高くなっているように見える。
仲よし橋東詰の向かい側に水路敷っぽい細道があった。国分寺市立恋ヶ窪図書館所蔵の「国分寺市域内の主な道路及び水路図」(国分寺市役所、1976)には水路として記載されていない。
細道はクランクを通ってから道路に出て終わっている。
水路敷東側の道路をさらに北へ。東恋ヶ窪ライオン公園で水路敷の方を見ると、府中街道に向かって伸びている水路敷があった。
府中街道から水路敷を見たところ。農地の間の水路が取り残されたように見える。
府中街道にあるサミットストアから東に進んだところで恋ヶ窪分水の水路敷を下流方向に見たところ。欄干はないが、ここから下流方向に幅の広い水路敷が残っているのがわかる。
ここで水路敷のある谷筋は府中街道方向から来て南へ折れる形になっている。府中街道に向かってガードレールで区切られた歩道はいかにも水路敷らしくあるが、国分寺市の水路図に特に記載はない。
分水の北側は道路が坂道になっていてだいぶ高低差がある。分水はガードレール左側の民家敷地内(低地になっている)を通って北から流れてきていたらしい。
坂道を上って道路を北へ向かうと、左に東京都水道局の東恋ヶ窪3号水源と書かれた敷地がある。写真ではわかりにくいが、分水の水路敷がこの水源地の西側(写真奥)を南北に通っているのが見える。
水源地の北側から下流方向を見たところ。写真手前の草むらが恋ヶ窪分水で、写真左にある水源地を右側(西)に避ける形で水路敷が伸びていく。
振り返って上流方向。草むらは途中から歩道になり、写真奥で農地に突き当たる。
国分寺市の水路図では、このあたりで東側から合流する水路があることになっている。写真中央のマンション通路になっている斜線部分があやしいのだが、公図などを確認したわけではないので確証は持てない。左のマンション裏手になる北側にも水路があったらしいのだが、怪しいげな植え込みはあるもののはっきり水路敷とわかる場所は見当たらなかった。
さて、道路の方は突き当たりになるがフェンスが切れて車止めになっている先が水路敷として続いている。
北側に回って下流方向を見たところ。写真を左右に通る道路は国分寺村分水の流路で、ここで恋ヶ窪分水を分けていたと思われる。
分水口から西へ向かって国分寺村分水の上流方向を見る。写真奥の東恋ヶ窪五丁目交差点で府中街道から分かれた国分寺村分水は、写真後方へ流れいき、日立中研の東側を南へ向かって国分寺駅近辺へ水を運んでいた。
府中街道を北へ向かい恋ヶ窪交差点へ。ここで写真手前へ流れる貫井村分水を分けている(国分寺村分水は写真左へ)。
交差点近くには丸型ポストが残っていた。
この先3つの分水へ水を供給していた国分寺村外二ヶ村組合分水は府中街道に沿っていたが、今回はここまでとしよう。
最後に恋ヶ窪交差点から西へ向かって西武国分寺線恋ヶ窪駅近くにある国分寺市役所を紹介しておこう。
11/3に市制施行60周年を迎える国分寺市は昭和38年(1963年)に建設された写真の現庁舎が耐震性に疑問ありとの判定を受けたこともあり、西国分寺駅東側の東京都公文書館隣に新庁舎建設を進めていたが、9月末には工事が完了し来年1月から新庁舎での業務を開始するそうだ。