野川周辺の水路敷群(武蔵国分寺と元町用水)
OpenStreetMapで
国分寺南側の野川を見る。
今回は野川上流端へ向かう流れと合流する不動橋から、「お鷹の道」と名付けられている遊歩道に沿って武蔵国分寺付近の湧水から来る流れ(元町用水)をたどってみる。
水路については、国分寺市立恋ヶ窪図書館所蔵の「国分寺市域内の主な道路及び水路図」(国分寺市役所、1976)を参考とした。
東京都道133号線小川山府中線(国分寺街道)が野川を渡る一里塚橋。不動橋はそのすぐ上流側(写真左)にある。
一里塚橋の南側に一里塚があったというが、現在は残っていないようだ。
ここからの写真は2023/12/27撮影。
野川本流側に架かる小さな橋が不動橋。かつては名もない石橋で、橋の北側に庚申塔と石橋供養塔、不動明王碑があったことから昭和47年(1972年)に不動橋と名付けられた。現在の橋は昭和57年(1982年)に架け替えられたもの。
不動橋南詰から一里塚橋方向を見たところ。写真手前から左奥の煉瓦造りの水路へ向かうが野川本流で、写真右の矢印部分から元町用水が合流している。
不動橋南側の道路を渡ったところに元町用水の梯子型開渠がある。ここから向かうお鷹の道・真姿の池湧水群は昭和60年(1985年)に環境庁(当時)により名水百選に選ばれており、「ほたるのすむ川」として地元の人々が大切にしているようだ。
すぐに開渠は道路を離れてしまうので、上流を探しに行こう。
上流側は道路脇の側溝となってすぐに西に曲がっている。
写真奥の空き地は国分寺都市計画道路3・4・11号府中国分寺線の予定地で、国分寺街道のバイパスとして一里塚橋の南側から東八道路までの間に建設予定となっている。手前の開渠も道路ができれば失われるのだろう。
西に曲がると側溝は空き地の脇を進んですぐにまた南へ曲がっている。
曲がったところでまたもや道路とはお別れ。元町用水の水路は写真奥で西向きになり、しばらくは道路に出てこない。
西側に回って北から見たところ。用水路を渡る橋の幅は道路よりも狭く、車止めが差分を埋めているが歩行者の転落防止には不十分な気がしないでもない。
上流側。石組みの護岸が続いており、その上を歩いていけそうではあるが通行用になっているわけではないので遠慮しておく。
さらに西側の道まで行って、橋の上から下流側を見たところ。写真奥には民家の間をつなぐ橋がいくつか見える。
もうひとつ西側の道で上流側をみたところ。ここは道幅に合わせて欄干が残っている。右側に見える道路は私有地のようで通り抜け禁止になっている。この先で用水路は南北二つの流れが合流している。
北側の道路から奥へ向かう水路敷と、写真右奥から流れてくる元町用水の水路が合流するところを見る。北側の流れは写真手前の道路に沿って左(東)へいったん大回りしていたらしい。とりあえず北側の流れを先に見てみよう。
東に向いてすぐ、道路を離れて駐車場の方へ向かう細い水路があった。駐車場の手前で左(北)に曲がっているようだ。
駐車場の北側から下流方向を見たところ。はっきりとした水路はないが、草が生え、土嚢が置かれているあたりが水路敷のように見える。
道路北側には、西側から流れてくる細い水路が残っていた。写真奥で右(北)に曲がっている。
さきほどの道路を少し戻る感じで西側の空き地から北を見る。空き地東側の奥に湧水があるらしいが、民有地のため確認はできない。
一方、南側の元町用水はすぐに西へ曲がっており、道路に出て橋から西側を並走する遊歩道は「お鷹の道」と名付けられている。
お鷹の道は、国分寺市内の村々が尾張徳川家の御鷹場として指定されていたことから元町用水沿いの小道がそう呼ばれていたものだそうだ。
西へ進んで道路に出たところで用水路の左岸側を通っていた舗装路は、右岸側の未舗装路に切り替わる。
少し西へ進んだところで、左岸側の民家から水路が出てきていた。敷地内に湧水があるのかどうかは分からない。
民家の入口になっている橋を渡って再び遊歩道は左岸側の舗装路に。このあたりでは右岸(南)側のほうが少し高くなっているようだ。
次の橋は北にある真姿(ますがた)の池湧水群から流れてくる水路との合流点になっている。真姿の池へ寄り道してみよう。
弁財天を囲むのが真姿の池。難病に苦しんだ女性が池で身を清めよとのお告げを聞いてその通りにすると病が治ったという伝説が由来だという。
小川の上流端はもう少し北側の崖下にあった。このあたりにいくつかある水源をまとめて「お鷹の道・真姿の池湧水群」として環境省選定名水百選や東京都の名湧水57選に選ばれているそうだ。
お鷹の道に戻って西へ進んでいくと、国分寺市重要有形文化財の旧本多家住宅長屋門がある。
本多家は国分寺村の名主で、長屋門は屋敷の表門と隠居所を兼ねて江戸末期に建てられた。その後幕末から明治にかけて分家の本多雖軒(すいけん)が村医を開業して拠点として使用し、大正時代以降は養蚕にも利用していたという。
平成27〜29年に耐震補強を伴う全解体修理が行われ2階は展示室として公開されており、旧本多家の邸内も「おたかの道湧水園」として公開されている(湧水園は入園料が必要)。
園内に湧水源観察ポイントがある。
※2024/9現在倒木があるため見学できないとのこと。
湧水源にはわずかだが水が沸いているのを見ることができる。
長屋門から西へ行ってすぐのところ、お鷹の道と水路は突き当たって右(北)からきているがこちらはさきほどの湧水園内から流れてきている支流で、元町用水は左(南)にある塀の向こうから流れてきている。
右に曲がってお鷹の道を湧水園の裏口方向へ。写真奥の塀の向こうから湧水が流れてきている。
お鷹の道は武蔵国分寺前に到着して終わりとなる。
武蔵国分寺は真言宗豊山派の寺院で、元弘3年(1333年)分倍河原の戦いで焼失した元の国分寺を建武2年(1335年)に新田義貞が再建し、その後衰退したものの慶安元年(1648年)に将軍家から寺領の安堵を受け再建が始まったという。
天平宝字年間(757〜765年)頃に建立された元の武蔵国国分寺は現在よりもかなり広い境内地を持ち、現在の国分寺より南側に国指定史跡として公園の整備が進んでいる。
整備中の史跡武蔵国分寺趾に行ってみた。金堂跡など主要な建物があったところには土台や看板が作られているが、一部はまだ工事中のところもあった。
武蔵国分寺の参道に戻って南に進んだところに旧本多家住宅へ向かう水路敷の入口があった。
上流側は墓地と駐車場の間の通路として利用されている。
そこから上流側(西)は武蔵国分寺の看板があるものの未整備の原っぱになっている。国分寺市の水路図では写真中央あたりを水路が左右に流れているように描かれているが、痕跡は見当たらない。公園として整地される前はおおむね耕作地だったことが過去の空中写真から確認でき、中央部分には水路跡らしき道も残っていた。
そこから西へ進んだところ。府中街道の手前が谷頭と思われる。国分寺市の水路図では写真右奥の方に凹んだところあたりを上流端としているが、谷自体はもう少し西側まであるように見える。
都道17号所沢府中線(府中街道)に出て谷頭の地形を見たところ。嵩上げされている道路に比べ住宅の方が低い位置にあるのがわかるが、道路西側は丘になっているので道路付近が谷頭といってよさそうだ。
この付近、やや東寄りに古代の東山道武蔵路が通っていたとされている。
最後に東山道武蔵路跡に寄り道しておこう。西国分寺駅から南東側、都立多摩図書館から東京都公文書館、国分寺市役所が並ぶ向かい側(道路西側)に東山道武蔵路の跡が保存されている。
ここには中央鉄道学園があったのだが、国鉄民営化に伴って再開発を行っていたところ400mにも及ぶ一直線の古代道路跡が発掘された。
JR中央線の南側には、「東山道武蔵路遺構再生展示施設」として保存のため埋め戻された路盤の型取りをして現在の路面まで嵩上げしたレプリカが展示されている。写真上下にある溝が側溝の跡で、中央部分は切り通しの下り坂が削られて凹んだところになっている。
東山道武蔵路は4回に渡って道路が変遷しながら利用されていたが、一番古い第1期は道幅が12mもあり、現在の路面より1m程度低い位置に埋まっているそうだ。