落合川とその支流(立野川)
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立野川流域のうち下流端から西武池袋線までを見る。
立野川は黒目川の支流である落合川のさらに支流で、東久留米市南沢三丁目にある向山緑地公園から出て自由学園の校内を抜けて新落合橋へ流れる現役の河川で、自由学園校内を除けばほぼ全域が暗渠化されていない。
なお、立野(たての)という地名は現在の東久留米市の住居表示にはないが、現在の浅間町(せんげんちょう)から学園町あたりの旧字名だったようだ。
都道234号前沢保谷線が落合川を渡る新落合橋の下流側に合流する立野川を上流から見たところ。かなりの水量がある川として合流している様子が見える。
落合川はもともとはやや北寄りを蛇行していたので、古い合流点はもう少し北側の弁天川の合流点あたりだったようだ。
ここからの写真は2023/1/15撮影。
立野川はすぐに都道と分かれ南へ。石垣に挟まれた水路はかなり古い時代に改修されたことが見て取れる。
写真左手前の橋は宮前橋という名前のようだ。写真右の看板は上水道管の使用許可を示しているが、昭和63年(1988年)に建てられたきり更新されていない。奥には浅間神社が見え、宮前橋でいったん東に曲がった立野川は浅間神社手前で再び南へ伸びている。
宮前橋北側のたもとには地蔵菩薩と馬頭観音が置かれている。よく見かけるのは木造の覆いだが、ここではアルミ製の屋根がかけられている。
地蔵菩薩は宝暦8年(1758年)、馬頭観音は一文字めがよく読み取れないのだが、文化9年であれば1812年の造立となる。
馬頭観音の向かい側、南には細い小道がある。「東久留米市水路・河川網図」(東久留米市/1980年)を見てもこの小道は廃減水路と記載されていないが、全国Q地図の
東京都3千分の1地図(1965〜1966年)では水路であったことがわかる。先にこちらを見ておこう。
水路敷はせんげん第七広場の手前で道路に吸い込まれる形で終わっている。ここから上流がどうなっていたのかは先ほどの河川網図には記載がないが、全国Q地図を見るとそのまま道路の方から水路が流れてきており、立野川との間に細長い谷を作っていたことがわかる。
立野川に戻って宮前橋の隣、橋名はわからないのだが相当に古い橋が架かっている。欄干の一部が壊れており、痛みも激しいようだ。
浅間神社手前で南へ向きを変えた立野川。左(東)は崖、右(西)は住宅地でここから先は道路がなく、川縁を追いかけていくことができない。
立野川の崖上にある浅間(せんげん)神社。拝殿は写真左側の高台にある。前沢村の分村として落合村ができたときに村の鎮守社として創建されたのではないかとされており、東久留米市史によれば旧拝殿を昭和37年(1964年)に移築した際、寛政2年(1790年)造立という墨書が出てきたという。
さきほどの古い橋の方を南へ進んでいくと、途中に立野川に架かる無名128号橋(東久留米市による管理番号)がある。橋から上流を見ると、崖下に河川敷があるが封鎖されていて立ち入ることはできない。
この写真は2023/1/21撮影。
さきほどの水路敷を進んで道路に入ったところにある「せんげん第七広場」から西側の崖を見たところ。崖の下に立野川が流れている。
ここからの写真は2023/1/15撮影。
立野川北側の道をしばらく進んで行ったところで、立野川に向かう未舗装路を見つけた。河川網図に廃減水路として描かれている水路の跡と思われる。
その先の丁字路から上流方向は立野川北通りと名付けられている。写真は通りを下流方向に見たところ。北側が擁壁になっていて高くなっているのがわかる。立野川北通りから、写真奥で立野川寄りに分かれている道路がある。
別れた方の道路を進んでいくと、途中で立野川に向かう開渠が残っているが枯れているようだ。この開渠は河川網図には記載がない。
立野川北通りが浅間通りにぶつかって左に曲がったところにある小沢橋。
小沢橋から下流方向を見る。立野川右岸には浅間神社脇から延々と河川敷に平らな空間があるのだが、道路として使われてはいない。
ところで、写真右奥の方にある竹林がちょっと気になる。
右岸のアパートの裏、崖下には下流方向へ向かう遊歩道がある。
遊歩道のさきは「せんげん第四広場」と名付けられた児童遊園があり、さらにその奥には湧き水が出ていた。
せんげん第四広場の下流側末端から立野川下流を見る。写真奥では崖上の住宅が河川敷側に張り出して擁壁を作り直しており、河川敷部分まで私有地なのかもしれない。
振り返ってせんげん第四広場南側の巨大な擁壁を見たところ。河川網図には、遊具の後ろあたりに廃減水路が描かれており、元々はやや上流寄りに水が湧き出ていたようだ。
小沢橋に戻って上流側を見る。ここから先も川沿いに道はなく、立野川北通りにあった廃減水路もこの先では痕跡を失っている。
立野川が西武池袋線をくぐって自由学園に吸い込まれていく手前に、川筋が大きく南側に蛇行している部分がある。屈曲部分の南端は、わずかに接している道路から眺めることができる。それにしても、このあたりでもまだ立野川はかなり深い谷を流れている様子が見て取れる。
この写真は2023/6/25撮影。
OpenStreetMapで立野川の
西武池袋線から上流端までを見る。
西武線沿いに広がる自由学園はキリスト教系の一貫教育校で、昭和9年(1934年)に西池袋からこの地へ移転してきた。立野川はその自由学園の敷地内を一部暗渠、一部開渠として流れており、校内活動として維持管理も行われているようだ。
自由学園西側の南立野橋から、学園向きに下流方向を見る。学園西端では川筋はほぼ自然の状態に近く、開発される前の姿を残している。
ここからの写真は2023/6/18撮影。
南立野橋から上流方向。たての緑道の築堤をくぐるための土管が見える。
たての緑道こと旧中島航空金属田無製造所引込線跡(東久留米駅構外線)については、
廃踏切を探せ(旧中島航空金属田無製造所引込線跡)でその路線跡を探索しているのでそちらを参照していただきたい。
北側の道路は廃減水路として記載されている。右側にも高低差があり、相変わらず立野川は細い谷を抜けていることがわかる。
途中、道路と水路敷が分かれている場所がある。廃減水路としては記載されていない支流の水路敷と思われる。
一区間しかない支流の水路敷が道路に戻ったところの南側に、立野川から分かれている分流のあとが残っている。
突き当たりから見た上流は水面がよく見えないほど草木に覆われていた。
さらに北側の道路を進んでいくと、道路がやや北側に逸れるところで立野川から分岐してくる廃減水路の起点があった。地図上は、ここでいったん立野川は一本の流れになっている。
すぐ上流側の行き止まり道から下流方向を見たところ。上流側の廃減水路はここで立野川に合流している。
北側を並走していた廃減水路の道は、写真奥で行き止まりになっている。水路はこの先農地の中を抜けていたようだ。
突き当たりから農地を見たところ。写真左の崖下に立野川が流れているが、廃減水路の方はどこをながれていたのかわからない。
立野川は南沢通りの笠松橋を潜り抜けていく。写真は笠松橋東側を北から見たところ。
笠松橋から上流側を見たところ。両岸がきれいに護岸工事されているが、川筋は草に覆われている。
笠松橋の南側から南沢通りを上っていくと、笠松坂通りとのY字路の付け根に元禄7年(1694年)造立の庚申塔が立っている。
ひとつ西側の橋(無名121号橋)から上流を見たところ。立野川は写真奥にある向山(むこうやま)緑地公園から流れてきているが、こちら側から公園に入ることができないので、北側を大きく迂回していく。
北側から向山緑地公園の立野川上流端あたりを見たところ。
公園には、さらにぐるっと南へ回り込んで崖上から入っていくことができる。崖を下りて最上流部分近くまできたところ、ここでもかなりの水量がある。
上流端はさきほどみた畑の南側、藪の中にあるらしいが、湧水は一ヶ所ではないのかもしれない。