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仙川周辺の水路敷群(弁天橋〜ベンテンヤ)
地図その1
OpenStreetMapで今回の前半部分、甲州街道から中央自動車道までを見る。
左右に緩やかに蛇行している仙川の両岸には水田に水を供給する水路が並走していたので、今回は白百合女子大学の南側にある弁天橋から右岸側でその跡を探していこう。
弁天橋
京王線仙川駅から白百合学園通りを北へ向かったところにある弁天橋から上流方向を見る。
現在右岸側水路の出口は見当たらないが、写真奥の仙川がカーブしていくあたりにあったと思われる。
ここからの写真は2024/10/31撮影。
窪み
前の写真左側に見える木立のあたりは窪地になっており、写真奥から手前に細い水路が設けられている。
調布市立中央図書館所蔵の調布市土地宝典(朝日設計測図, 1959)には弁天橋から南側の駐車場下を回り込んでこの場所に出てくる水路が描かれており、かつては仙川の蛇行跡か、支流があったようだ。
庚申塚
一度弁天橋まで戻って右岸側の弁天坂途中にある庚申塚。写真左が駐車場、右がその下を通る道路で、どうやら道路が水路の跡のようだ。
ここからの写真は2024/11/25撮影。
工事中
崖下の道はさらに右方向へ向かうが、水路は写真右の住宅手前に仙川から出てきていたようだ。
現在は仙川中継ポンプ場の廃止工事が行われており、水路跡を確認することはできなかった。工事現場の奥でさきほどの窪地につながっているらしい。
くねり
続いて仙川南側の路地へ。
写真中央あたりが低くなっていて、そのあたりに上流から水路が流れてきていたらしいが道路の曲がりくねり以外に痕跡は残っていない。
ここからの写真は2024/10/31撮影。
緑橋南詰
緑橋の南側、ここから上流側は水路敷があったようにみえる幅の広い道路となる。
くぬぎ児童遊園
水路跡が北向きになっていくあたりにある「くぬぎ児童遊園」。左(西)側に窪地が食い込んだ形になっている。
突き当たり
道路は分譲地にぶつかって突き当たりとなる。先述の調布市土地宝典によれば水路は写真左から流れてきていたが、全国Q地図の東京都3千分の1地図(1959〜1960年)ではここに真っ直ぐ水路が流れてきており、分譲地が開発された際に水路が付け替えられたのかもしれない。
切り欠き
突き当たりを左に曲がったところ。調布市土地宝典に描かれた水路は写真右側から手前へ流れてきていた。
この写真は2024/11/25撮影。
水路跡?
袋小路になっている分譲地の北側から仙川方向を見たところ。調布市土地宝典の記載からは写真左側で塀の位置がずれているあたりに左(北)から流れてきて手前に来る水路があったのではないかと推定されるが、それらしい跡はない。
写真左側の住宅裏側には調布市と三鷹市の市境があり、水路はその北側にある三鷹市東部水再生センターの敷地内を流れていた。
この写真は2024/10/31撮影。
危険
ここでいったん仙川へ出て、さきほどの突き当たりを右に曲がったところにある中条橋東詰から右岸側を見ると、橋の下流側に「危険」と書かれた蓋のある排水口が見えた。水は枯れているようだ。
右岸側水路の出口の一つなのかもしれないが、過去に人が立ち入ってしまったことでもあるのか警告表示のある排水口はちょっと珍しい。
ここからの写真は2024/10/20撮影。
横広
そのまま仙川左岸を上流へ向かっていくと、三鷹市東部水再生センター南端のところに横に広い排水口が現れた。水量は多くないが、水が流れ出てきている。
水量
もう少し上流側、水再生センター敷地から結構な量の水が流れ出てきている排水口があった。三鷹市東部水再生センターは、昭和43年(1968年)に開設され三鷹市中心部の上連雀、下連雀、新川などから出てくる下水を処理しており、処理後の浄化された水が仙川に流されているのだと思われる。
なお、東部水再生センターは東京都の計画では最終的に廃止される方向で検討されており、調布飛行場の西側に野川水再生センターを建設する予定があった。ところが多摩地域の下水処理量は今後減少が予想されることになり、野川水再生センターの建設は中止されている。東部水再生センターは野川水再生センター開設までの延命が決まっていたのだが、今後どうするのかは改めて検討されるのだろう。
北門
さて、仙川右岸側に戻って水再生センターの北門へ。写真右側の門扉あたりから下流では水路は水再生センターの敷地内を流れていたが、ここから上流は道路付近を流れていたようだ。
ここからの写真は2024/10/31撮影。
谷
ところで北門のあたりから西へ向かって、地形としては支谷がある。ひとつ西側の道路には結構はっきりとした谷間があるのがわかる(写真は北側から谷を見たところ)が、水路のようなものは見当たらない。
ちなみに国土地理院発行の人工地形更新版:土地条件画像データ出力図 溝口を見ると浅い谷はあるが写真の谷間は切土地となっており、土地を平らにするために掘り下げられているようだ。
三鷹五中
北門から北へ向かう道路の方は進んでいくと三鷹市立第五中学校のグラウンドに吸い込まれていき、敷地内には水路跡は残っていないようだ。
新川暫定広場
三鷹五中の北側で仙川は西へカーブしていくのだが、水路はカーブの内側にある新川暫定広場あたりを流れていたと思われる。
看板
新川暫定広場というのもなかなか変わった名称だが、写真右側に見える旧環境センター(ごみ焼却場)跡地に造られた運動場で、写真の看板でグレーに塗られた部分には立ち入ることができず運動場だけが盲腸のような形に開放されている。ただし、周回道路内側にある球技場の利用には団体登録が必要で、きちんと管理人が常駐している。
ゴミ処理場の解体については検討中とのことで、跡地全体の利用計画が決まっていないため「暫定」となっているらしい。
行き止まり
旧環境センターの西側に大きく回り込んで、天神山通りからセンターの西側に突き当たる行き止まりの道を上流側から見たところ。この道が水路の上流部分にあたる。
中央自動車道へ
天神山通りを渡って中央自動車道が見えてきた。
高速下
中央自動車道まで出てきたところ。水路は自動車道北側で仙川から分かれて流れてきていた。
地図その2
OpenStreetMapで後半部分、島屋敷周辺から杏林大学病院付近を見る。
左岸側と比べると右岸側は水路だらけになっているが、全国Q地図などに描かれている水路をもとに現地で高低差なども見ながら矢印で流れの方向を示してみた。
島屋敷は仙川右岸に島のように盛り上がった丘で、江戸時代の17世紀には付近の領主であった柴田氏が陣屋を構えていたとされる。柴田氏は元禄11年(1698年)に三河へ転封となり、以降は幕府直轄地となっていり陣屋も廃止されたようだ。
一帯は昭和35年ごろに新川団地として開発されたが、平成に入って再開発に伴って発掘調査が実施され縄文時代から昭和30年代までの広い年代に渡る遺跡、遺構、遺物が発掘された(参考:みたか遺跡展示室:低地に拡がる中世集落跡『島屋敷遺跡Ⅲ』)。
団地や宅地化される前の島屋敷周辺には水田が広がり、西側を流れていた仙川用水からの導水や、島屋敷を取り囲むように流れていた用水路などたくさんの水路があった。
また、仙川の水源とされる左岸側の丸池とは別に、右岸側の杏林大学病院近くには「ベンテンヤ」と呼ばれる湧水の池があったという(参考:国立国会図書館デジタルコレクション:三鷹の民俗.10 (新川) )。
樋口取水場
天神山の対岸にある樋口取水場。丸池などから流れ出た豊富な水をここで取り込み、水量の少ない野川宿橋までポンプで送水している。
写真手前の道路にある歩道が島屋敷方向から流れてくる水路の跡でもある。
水路跡
樋口取水場から島屋敷方向を見たところ。道路の左(南)側に歩道があるが、これが水路の跡。
島屋敷の両側を流れてきた用水路は、いずれもここに流れ落ちてきていたようだ。
水路敷
一方、樋口取水場から南の中央自動車道に向かって幅の広い水路敷が残っている。
こちらは購読道路の向こうで、さきほど見てきた右岸側の水路跡へつながっていた。
細道
道路の方を進んでいくと、突き当たりで細い水路敷になっていた。
入口
細道はすぐに島屋敷の東側を周回する道路に出る。
南側1959年
まずは島屋敷南側の水路跡から見ていこう。全国Q地図で東京都3千分の1地図(1959〜1960年)。ロールアップで水路として描かれている部分に線を引いたが、現在の中央自動車道三鷹料金所の近辺に複数の水路が確認できる。
南側
その中では一番北側、島屋敷南側の周回道路は水路跡らしいウネウネとしたカーブが見られる。地図上の水路は写真奥が上流端で途切れているが、島屋敷通りの水路とつながっていた可能性はありそうだ。
二本目
中央自動車道の側道から北から二番目の水路跡を西へ見たところ。地図上ではこの水路が島屋敷西側を周回する水路とつながっていた。
側道北側
少し東側へ戻る感じで高速道路側道を西向きに見たところ。この辺りでは道路と水路の位置は異なっており、写真右側の空き地を水路が流れていた。写真右方向にはさきほど訪れた樋口取水場からくる水路もあるはずだが、側道側ではよくわからない。
写真手前左の道で高速道路を潜ると、下流へ向かう右岸側水路に出られる。トンネルの位置は水路跡とは一致していないようだ。
側道南側
前の写真奥に写っているトンネルを抜けて側道南側。なんということのない道路だが、地図上ではここを水路が流れていた。
写真奥の方が下流で、突き当たり(道路は左へ向かう)まで水路があった。
三本目
もう一度北側に戻って島屋敷から三番目になる水路跡の道路を見る。ここも地図上は住宅地の南側で突然現れるが、古くは西側の水路とつながっていたのかもしれない。
擁壁
三鷹料金所の擁壁あたりに、西側から流れてきていったん高速の南側にまわっている水路敷の下流が出てきていたはずだが、高速道路北側では水路跡は失われている。
水路敷
南側まで回ってみると、フェンスで囲まれた空き地の間を西から来た水路敷が通り抜けていた。
合流
水路敷はいったん道路に合流している。
赤舗装
上流へ向かっていくと、都道114号武蔵野狛江線を超えたところで三鷹市でお馴染みの赤く舗装された水路敷となる。
中仙川通り
中仙川通りをまたいでさらに西へ。
高速下
高速道路の下にも水路敷が残っていた。
通行止め
高速道路北側、車止めがある上に車両通行止めの看板がある水路敷が西から出てくる。
上流
看板には行き止まりと書いてあったのだが、上流側は民家脇に出てきて道路に合流していた。
農地
道路の先は農地になっていて入ることはできない。なんとなく水路の形に見えるような…
通路?
農地の南側にある空間は通路なのか水路敷なのか。
車止め
農地西側を南北に通る道路は水路敷のところで車止めで車両の通行を止めている。
下流側
車止めのある場所から下流方向の水路敷を見る。水路敷側は特に封鎖されているわけではないが、入っていくのは難しそうだ。
上流側
上流側。写真奥に上流端の行き止まりがあり西側の道路には出てきていない。
西側の地図
続いて島屋敷西側の水路跡を見ていこう。
全国Q地図の標準地図に東京都3千分の1地図の1959〜1962年に描かれている水路を書き足してみた。
左端(西)から出てきている仙川用水の分水は、地図上では左端から始まっているが元はもう少し西側を流れていた仙川用水から分かれており、島屋敷一帯へ水を運んでいた。
地図下(南)の方にある水路は地図上では都道脇から始まっているが旧字境(北が本町、南が内出)としてはさらに西側に上流部があるように見え、現在通れる道などはないものの住宅の境界は旧字境に沿ってゆるやかにカーブしている。
地図北側(上)の水路は1959〜1960年の地図に描かれていないのだが、国土地理院Webサイトの昭和36年(1961年)空中写真(国土地理院撮影)でも水路が確認できる。
島屋敷通り
前の地図右下にあたる島屋敷通りの交差点。水路は写真右奥から交差点でクランク状に曲がって手前に流れてきていた。
駐車場
前の写真奥の交差点を右に曲がって島屋敷西側の周回道路へ。写真奥に見える駐車場の北側に水路が出てきていたはずだが、水路敷としては残っていない。
隙間
大きく西へ回って都道114号武蔵野狛江線。下流(東)側は駐車場になっていて水路敷は見えない(空中写真では駐車場の奥に水路敷が残っているようだ)が、上流(西)側には水路敷と思われる壁の隙間が残っていた。
ここから上流は地図に水路はないが、西側の雑木林付近から水路敷がここまで続いているのかもしれない。
ここからの写真は2024/11/25撮影。
分水路
島屋敷西側の周回道路まで戻ってさきほどの駐車場から少し北へ進んだところに、西から仙川用水の分水路が出てきている。
車止め
これでもかと車止めが置かれた交差点を通り過ぎる。
クランク
途中にクランクを挟みつつ…
農地
分水路の脇にはまだまだ農地も残っている。
中原三丁目交差点
分水路は中原三丁目交差点まで残っているが、ここから西側は都営中原三丁目アパートの敷地となり水路敷は残っていない。分水路はアパート西側の消防研究センター敷地内を通る調布・三鷹市境で仙川用水から分水していた。
東側
分水路を境に水の流れは南向きから北向きに変わるので、一度島屋敷東側の周回道路まで戻って反時計周りに見ていこう。
東側の周回道路は右(東)に大きく路肩があっていかにも水路跡のように見える。
ここからの写真は2024/10/31撮影。
カーブ
道路右側の路肩は徐々に狭くなっていく。
路肩
かと思えば路肩は広くなったり狭くなったり。水路と道路で位置が異なっているためなのだろう。
北西角
しばらく周回道路を進んで島屋敷の北西角。道路が南に曲がっていくのに対して、写真正面に水路敷が分かれていくのが見える。
フェンス
前の写真左に写っている住宅の南側から見たところ。フェンスに囲まれた水路敷があるのがわかる。
ゼブラゾーン
振り向いて島屋敷西側の周回道路を南へ向かう。
団地の間を抜ける道路にはオレンジのゼブラゾーン(通行禁止エリアということのようだ)があるが、水路敷なのかどうかはわからない。
団地中央
周回道路は仙川用水分水に向かっていく。
畦道の跡?
さて、ここからは周回道路西側に残る水路敷を見てみよう。
島屋敷北西角の水路敷からすぐ西側に、仙川へ向かう水路敷らしき遊歩道がある。
さきほどの標準地図に書き込んだ東京都3千分の1地図(1959〜1960年)では写真右側の住宅付近をまっすぐ水路が仙川へ抜けているが、昭和36年(1961年)の空中写真では遊歩道の方が水路であったように見える。水路は写真奥で左右に分かれていた。
左
右側の水路は住宅の敷地になっていて残っていないが、左側の水路は遊歩道として残っている。
遊歩道は左に曲がった先で終わっていて、ここから仙川にどうつながっていたのかはよくわからない。
公園
一方南側の失われた水路は、団地北側の公園あたりに向かって流れていたはずだ。
ここと西側の水路は地図上では上流の水源が見当たらないが、すぐ南に仙川用水の分水路があるので、そこから水を分けていたのかもしれない。
ここからの写真は2024/10/31撮影。
西へ
団地を離れ西へ向かう道路はやや上っている。全国Q地図の東京都3千分の1地図(1961〜1962年)ではこの道に水路が描かれている。
遊歩道
西へ向かってアジア・アフリカ語学院などが入っている建物の手前を北へ向かう遊歩道は、地図の水路と一致している場所にある。
流れとしては北が下流になるが、ここではこのまま下流へ向かってみる。
17番緑地
遊歩道の北端は新川五丁目17番緑地の脇にある。写真は上流方向を見たところ。
水路敷か
振り返って道路の北側をみると、地図にはない水路敷らしき空間が北へ伸びていた。
写真奥には駐車場があり、その北側は仙川の水源の一つされるベンテンヤがあった場所になる。通り抜けることはできないので、仙川のほうから回っていこう。なお、駐車場のあたりは整地されてしまっているため、この水路がベンテンヤに流れ込んでいたのかどうかははっきりしない。
脇
右側の道路に入ると、水路敷に向かって閉鎖された空間が伸びていた。ここも水路敷に見えるような…
昭和23年
さて、最後にベンテンヤ近辺を巡っていく。
国土地理院Webサイトから昭和23年(1948年)の空中写真(米軍撮影)。仙川の左岸側にある丸池のやや西寄りにもう一つの水源であったベンテンヤの跡があるが、現在は住宅地になっていてベンテンヤ自体は残っていない。
旧河川敷地
先ほどの道路はすぐに仙川方向(右)に曲がるが、そのまま進んでいくと仙川に出る。そこから下流方向をみると、仙川右岸に「旧河川敷地」と書かれた看板のある空間が現れる。
前の空中写真でベンテンヤから丸池のやや下流に向かう流路があり、これはその跡と思われる。
小祠
その北側には名もなき小さな祠が祀られている。土台の部分には下流の下仙川(現在の緑ヶ丘、仙川町近辺)、上祖師ヶ谷、下祖師谷、喜多見、大蔵、岡本などの村中により建てられたことが刻まれており、ベンテンヤを水源とした仙川の水と関係があるのかもしれない。
全国Q地図の東京都3千分の1地図(1959〜1960年)で丸池とベンテンヤ周辺を見る。
ベンテンヤは池として描かれていないが、勝渕橋西側で水路が錯綜しているあたりがベンテンヤの跡と思われる。祠は北側から来る水路と、西側から来る水路が交差するあたりにあったことになる。
勝渕橋
勝渕橋の西詰から北を見たところ。現在の仙川の左にまっすぐ伸びている道路が、地図の北から流れてくる水路があった場所になる。
排水口
勝渕橋からさきほどの旧河川敷地の方をみると、現役の排水口から水が流れ出しているのが見える。
窪地
勝渕橋の西側は窪地になっている。
水路敷
窪地の東寄り、地図で水路になっている部分に水路敷が残っているが、南側(写真奥)は盛り土されていて宅地になっており、反対側に回ってみても水路のあとは残っていない。
ベンテンヤ
窪地の西側に回ってみたところ。写真左のアパート付近にベンテンヤがあったと思われるが、埋め立てられており痕跡は残っていない。
この写真は2024/11/25撮影。
杏林大学病院
一方、窪地の西側から流れてくる水路が描かれていた方へ進んでいくと、バス通りの向こうに杏林大学病院が見える。
水路は病院北側から流れてきて、写真奥で手前に向きを変えていたようだが現在は病院敷地となっており痕跡は残っていない。
この写真は2024/10/31撮影。
by Natrium