仙川周辺の水路敷群(梶野分水〜大松木下之稲荷)
OpenStreetMapで
桜一の橋から富士見橋を見る。
仙川は小金井市に入ると南北に大きく蛇行するが、途中に湧水は見られないようだ。台地となっている部分には玉川上水の分水である梶野分水と小金井分水が水を供給していた。
桜一の橋から仙川を上流へ向かうと突き当たりとなる位置に交差している梶野分水築樋(つきどい)跡を東側から見たところ。
梶野分水(梶野新田分水とも)は享保17年(1732年)に許可を得て造られた玉川上水の分水でもとは梶野橋上流で直接水を分けていたが、玉川上水通船に伴い明治3年(1870年)からは上流の砂川用水と接続し、下流は深大寺村(調布市)まで延ばされた。
この写真は2024/12/1撮影。
梶野分水の南で仙川が道路に顔を出すが、ここから上流方向はしばらく名前のない橋が続いている。写真は西側から見たところ。
ここからの写真は2024/11/28撮影。
橋から南、上流方向を見る。川幅は広いが水は枯れているようだ。写真奥で仙川は西側にある梶野通りから進んできて手前に曲がっている。
梶野通りの梶野町三丁目バス停やや北側に、仙川が南から通り沿いを来て西に曲がる場所がある。
すぐ南側の横断歩道で仙川は梶野通りを渡っている。写真左端に仙川の看板があるが、すっかり錆びついてしまっていた。
錆びた看板の下に半分埋まった道標が残っている。「南」と書かれた部分ははっきり読み取れるが、その下は文章の下半分が埋もれてしまっていてよくわからない。
反対側には「弘化三丙午年」とあり、1845年に造られたものだ。
次の橋は仙川に斜めに架かっているが、西詰には水路敷に張り出す形で庚申塔が建っている。ここを西に向かうと梶野市杵島神社がある。
次の橋を西側から見たところ。この橋だけ欄干にガードレールがない。
橋から上流方向。梶野通り西側に沿って梯子型開渠が進んでいく。
仙川左岸にある店舗は、橋を渡らないと入れないようだ。
店舗の先で仙川は西へ直角に曲がっている。
小金井市内の川筋については「
地図と写真で読み解く 昭和の小金井」(小金井市観光まちおこし協会, 2018)の記事中に掲載されている古地図で見ることができるが、昭和12年地図ではもう少し南側で西に曲がっていたように描かれている。昭和22年の空中写真では現在の流路になっているようだ。
先ほどの庚申塔から西に向かった突き当たりにある梶野市杵島神社。
写真左手前には東京都水道局の梶野3号水源がある。神社は梶野分水の許可が出た享保17年(1732年)の鎮座と伝わり、梶野分水の支流が写真奥にある二つの鳥居の間あたりを南北に通っていた。
分水の支流はここから南、西、南と流れて仙川に合流するのだが、合流点あたりに道路がないため確認することができない。
ここからの写真は2024/12/1撮影。
梶野通りから都道247号府中小金井線(東大通り=ひがしおおどおり)に向かって進んでいく。途中仙川の両岸はフェンスで囲われ川に沿って歩いていくことはできない。
東大通りが仙川を渡る花見橋(橋自体に銘板はないが、東京都建設局資料などに名前がある)の西側から上流方向を見る。右岸側(写真左)に見えるのは昭和52年(1977年)に完成した仙川小金井分水路の取水口で、仙川が増水した際に洪水を防止するため野川に向かって地下水路が延びている。
すぐ上流で仙川は北からの曲がり角になるが、写真左下に見える排水口はおそらく西から流れてくる玉川上水の小金井分水支流の出口と思われる。分水は武蔵野東中学校の敷地内を抜けてきている。
北に進んだところにある亀久保橋。亀久保は近辺の旧字名だが、橋のあるあたりは小金井新田、梶野橋寄りは梶野新田の小字となっている。
次の東緑橋は小金井北高校第二グラウンドの間を通り抜けた位置にある。
グラウンド北側を回り込むように仙川がグラウンド西側道路と交差する場所が緑大橋。現在ではそれほど大きな橋には見えないが、緑町の中では大きな橋ということだろうか。
緑大橋から仙川の北側を上流へ向かう途中にあるGoogle Mapでは「お堂」と表記されている祠。中には小さな石塔が2基鎮座している。
西に回って小長久保橋から下流方向を見る。写真奥までは仙川が道路と変更しているが、その先下流部分には道路はない。
亀久保西側に広がる小長久保は小金井村の旧字名で仙川沿いに上流の山王窪まで続き、その先仙川上流端あたりまでは隣の貫井村にも小長久保という小字があった。「小」と付くにしては大きな窪地になっている。
小平市史によれば玉川上水の北側、花小金井南町にも石神井川沿いに長久保という地名があった(野中新田与衛門組の小字名になっている)といい、いずれも広い湿地であったようだ。
次の浴恩館橋はその北西側にあった浴恩館(現在は浴恩館公園)にちなんだ名前。浴恩館は小説「次郎物語」作者の下村湖人が青年団講習所の所長として小説の構想を練り、舞台ともしたという場所で、現在は小金井市文化財センターとなっている。
「浴恩」というのは、その建物が昭和3年(1928年)の昭和天皇御大典(即位の礼と一連の儀式)で使用された建物を下賜された(皇室の御恩に浴した)ことによるという。
公園内には下村湖人が寝泊まりした空林荘という木造家屋が保存されていたが、2013年に火災で消失してしまっている。
公園の中を流れる仙川には、次郎物語から名前を取った「次郎橋」がある。
公園西側にある管理用と思われる端には中緑橋という名前が付けられている。
次の緑小橋は右岸側にある緑小学校の入口になっていて関係者以外は通れない。
ここから上流側はUR都市機構のグリーンタウン小金井があり、団地内を流れる仙川は梯子型ではなく石垣の護岸を持つ開渠になっている。団地内には南北を結ぶ無名の橋が2つあるようだ。
団地西側の緑中央通りが仙川を渡る富士見橋。道路橋の下流側に歩道橋が増設されている。
富士見橋から上流方向は梯子型開渠になるが、左岸側の河川敷を通っていくことができる。
団地の南側を抜けて上流へ向かうと南陣屋橋に出る。南北(写真左右)に渡る道路は陣屋通りといい、北へ進むと玉川上水の陣屋橋がある。その北側に関屋新田(現在の関屋町)開発のための陣屋があり、開発の指揮を下小金井村の名主・関勘右衛門 は鴨下(現在の中町)にあった屋敷からこの道を通っていたという。
上久保橋の上流側にある小長久保公園から仙川を見る。仙川は南側から流れてきて公園に突き当たって東側の上久保橋へ向かっているが、国立国会図書館デジタルコレクション所蔵の「
東京府北多摩郡小金井町土地宝典」を見ると写真右側の角あたりに西から合流してくる水路があって、仙川の西側を並走して迂回している様子が描かれている。
迂回している水路は住宅地となって痕跡がほとんどないが、仙川との分岐点から少しの間だけ西側に向かって水路敷が残っていた。
ここからの写真は2024/12/9撮影。
南へ向かって中央線の北側を並走している北大通り(きたおおどおり)から仙川が北に分かれていく場所を見る。
上流側は暗渠となり、北大通りの歩道として使用されている。
ここからの写真は2024/12/1撮影。
北大通りと都道15号(小金井街道)が交差する本町二丁目交差点北東角にあるのが大松木下之稲荷大神。境内に大きな松の木があったことからその名で呼ばれるようになったといい、寛政4年(1762年)造立の青面金剛庚申塔などが祀られている。
仙川は北大通りを流れる本流に稲荷神社の東側で北側を並走する用水路が合流していたが、都道東側は宅地やビルとなっていて水路が残っていない。