仙川周辺の水路敷群(甲州街道〜丸池)
OpenStreetMapで今回の前半部分、
甲州街道から中央自動車道までを見る。
左右に緩やかに蛇行している仙川の両岸には水田に水を供給する水路が並走していたので、今回は左岸側でその跡を探していこう。
旧甲州街道が仙川を渡る大川橋。西側からみると左岸に排水口が見える。橋の向こうに見える草むらは古い仙川の流路跡のようだ。
ここからの写真は2024/10/20撮影。
大川橋から東、すぐのところに甲州街道へ向かう坂道があるがこれが水路跡。甲州街道開通後に嵩上げされてしまったようでわかりにくいが、仙川左岸を流れていた水路はここと甲州街道下(甲州街道工事で失われている)の二ヶ所で仙川に戻っていた。
甲州街道に出てきたところ。このあたりは地形がすっかり変わってしまっているが、ファミリーマートの右側から出てきて甲州街道のあたりを水路が流れてきていたようだ。
甲州街道北側は私有地や団地の敷地になっているので、柳川橋から調布緑ヶ丘二丁目アパートの間を抜ける道路を北へ進んでいくと団地の北側で道路が切れて段差になっている場所がある。段差の下を左から水路が流れていたらしい。写真左側に見える空き地が水路敷と思われる。
前の写真右方向、甲州街道北側に向かって谷筋があるが、明らかに水路跡と思えるようなものは残っていなかった。全国Q地図の
東京都3千分の1地図(1959〜1960年)には写真正面の道路に水路が描かれている。
この写真は2024/10/24撮影。
さきほどの交差点まで戻って、西を向いて上流方向を見たところ。道路北側に広がる空き地が水路敷だが、全部が水路跡というよりは、北寄りの境界あたりが水路で道路との間に余った土地があるというような感じに見える。
ここからの写真は2024/10/20撮影。
市民テニスコート入口バス停から水路敷を見る。写真右(北)の境界線はまっすぐ進む道路とは違って蛇行しているように見える。
水路敷の西端。仙川と並走する水路は写真左(西)から流れてきていたが、流路が団地で整地されてしまったためいったん痕跡がなくなっている。下流側でも写真右手前へ流れていく流路は団地(現在は改築中)の敷地内となり失われている。
一方、北側の緑ヶ丘小学校方向から流れてくる支流があったようだ。
交差点まで出て北を見る。右側に見える「緑ヶ丘みんなの森」の方は高台になっていて、写真奥に向かって谷筋がある。支流の水路は道路の付近にあったようだ。
調布市立緑ヶ丘小学校の正門前で、左右から水路が合流していた。
右側の水路上流端から北を見ると、緑ヶ丘みんなの森の脇に細道がある。ここに水路があった記録は見つからないが、水が流れていてもおかしくない雰囲気ではある。
細道を進んで小学校東側の分譲地に出たところで森の北側にある坂を上る。東側の道路の向かいには、調布市役所道路管理課の看板がある謎の空間があった。
一方左側(西)の支流もすぐに北へ向きを変えるのだが、小学校隣の保育園との間に行き止まりで封鎖されている道路があった。道路右脇を水路が流れていたらしい。
保育園の西側に回り込んでいくと、保育園の北側に水路敷が残っているのが確認できる。
ただし、ブルーマップで公図上の水路位置を確認したところ、図面上はプールの中央(写真奥のあたり)で左(北)に曲がり、ブールを横断して北側で崖下に出てきていた。緑ヶ丘小学校が出来た昭和40年(1965年)ごろに付け替えられたのかもしれない。また、公図上には小学校校舎の西側から校舎を通って校庭で南へ曲がってールの東側に出てくる水路敷があり、なんどか水路の位置が変更されている可能性がある。
そこから北を見ると、崖下に細い水路跡が残っていた。地図には描かれていないが、上流がありそうなので進んでみる。
小学校のグラウンド脇を水路敷と思われる空き地が進むが、入っていくことは難しそうだ。
西側の高台に回ってみると、西に向かって水路敷らしき空間が伸びている場所があった。
国土地理院Webサイトから
平成元年(1989年)の空中写真(国土地理院撮影)。矢印のところ、住宅地と農地の間にあるのが前の写真の水路敷らしき空間になる。
ちなみに、空中写真右下には団地北側の水路敷が見えるが、水路南側の空間は駐車場として使われていたことがわかる。
隙間空間は西側の道路までは伸びておらず、わずかに残った農地の北側で終わっている(写真は北側の空き地越しに見たところ)。
さて、調布緑ヶ丘二丁目アパートの西側に出てきたところ。宝乗寺の前にさきほどと同じような空き地が広がっているが、道路の方を流れていた水路に対して宝乗寺敷地外の水田があったらしい。ここもアパートの駐車場として使われていたようだ。
宝乗寺は昭和9年(1934年)に千葉から移転してきた比較的新しい寺院で、本門経王宗という法華宗(旧本門法華宗)から別れた宗派とのこと。
その隣には仙川八幡神社がある。創建や由緒は不明だが江戸時代には下仙川村と北野村の鎮守であったという。
西へ進み、白百合学園通りを渡って白百合女子大学の脇を通る道へ。水路は北から大学の敷地西側に沿って流れてきて、仙川の流れに合わせて写真奥で向きを東に変えている。
白百合女子大学は昭和40年(1965年)に千代田区九段から当地に移転してきた。
道路の方は少し進んだところで突き当たりを左(南)に曲がってしまうが、水路は写真正面から流れてきていたと思われる。
ぐるっと回り込んで白百合女子大の西門へ。水路は写真右奥にある住宅と女子大の敷地の間を通っていたと思われる。
すぐ北側にある路地からも女子大の敷地が垣間見えるが、こちらでも写真奥の住宅裏側に水路があったと思われる。
女子大敷地北側で水路跡が道路となっている場所(水路跡は写真左へ向かう道路)に出る。
しばらくは水路跡らしいクネクネとした道路を進んでいく。右側だけ路肩の白線が描かれているが妙に幅が広く、水路敷なのかもしれない。
その先で、水路跡の道路は外郭環状道路の中央ジャンクション工事現場と交差している。
ゆるやかに左(西)へカーブしながら、水路跡の道路は中央自動車道でいったん途切れている。
中央自動車道北側へ。下り坂を下りたところで道路の右(北)側に水路跡と思われる未舗装の空間が残っていた。
新川天神山交差点。水路は写真右側の新川天神山青少年広場の左脇で仙川から分かれて流れてきていた。
新川天神山青少年広場として整備されている新川天神山には戦国時代に天神山城があったといい、土塁や空堀の跡が残っている。
このあたりは左岸側に天神山、右岸側に島屋敷(中世に金子氏、17世紀に旗本柴田氏が陣屋を構えたと伝わる)という小高い場所があって狭い谷間になっているところを中央自動車道が通り抜けている。
OpenStreetMapで
天神山から丸池、島屋敷周辺を見る。
右岸側がなんだか楽しいことになっているが、ここの探索は別の機会に改めて紹介するとして、左岸側を丸池までさかのぼっていく。
青少年広場の北側、家1軒挟んで仙川と並走する気になる細道を見つけたのでそちらに進んでみる。
アスファルト舗装されているのでよくわからないが、右側の塀に沿った部分は水路敷のようにも見える。
道をそのまま進んでいくと、崖を使って広がる新川谷端児童公園に着いた。ここに湧水があっても不思議ではないが、それらしいものは見当たらなかった。
島屋敷通りが仙川を渡る谷端三之橋から上流は左岸側に川沿いを通る道がないので、谷端一之橋まで進んで左岸の上流方向をみたところ。写真奥の森が丸池公園で、その手前の護岸から丸池から流れ出た水が仙川に落ちている。
自然河川としての仙川の水源であったとされる丸池。丸池は昭和46年(1971年)に一度埋め立てられてしまったが、地元住民の要請もあって平成12年(2000年)に改めて池として整備され、周辺は丸池公園となっている。
かつてはここに向かって仙川用水の一部が流れ込んでいたというが、その跡は残っていない。
丸池公園北側にある勝淵神社は、大阪夏の陣後にこの辺りを領地とし島屋敷に陣屋を置いた柴田勝重(柴田勝家の孫)が勝家から受け継いだ兜を納めて水神を祀ったと伝わる。