Natrium.jp
仙川周辺の水路敷群(連雀の消失水路を探す)
全国Q地図
全国Q地図の標準地図で三鷹市の上連雀、下連雀付近を見る。
水源地とされる丸池より上流側の仙川は、中央線南側からのジグザグに進む流れが人工的に開削された水路(小金井方面から谷筋はあるが、昭和22年までは空中写真に映るような川筋はなかった)とされているが、下連雀7丁目のKDDI多摩東ネットワークセンター(三鷹変電所の裏)脇と上連雀四丁目の井之頭病院との間だけ地図に水路が描かれていない。
今回は現地写真も交えながら、この消えた水路の位置を探してみたい。
 
ところで、連雀という地名についてはもとは神田連雀町(現在の千代田区須田町一丁目の一部および淡路町二丁目の一部)に由来し、行商が用いた背負子を連雀と称した(渡り鳥の連雀からの連想、連雀を作る職人や行商人が付近に多かった)ことによるという。明暦3年(1657年)、明暦の大火後に火除地として土地を召し上げられた住民が代地として地図の付近に移住し、連雀新田(のち下連雀村)を開いたとされる。一方上連雀は豊島郡関村(現在の練馬区関町北、関町東、関町南)の住民によって開墾された連雀前神田(下連雀の東西に分かれており都道121号三鷹通りの東側が下連雀、西側が上連雀で、現在の下連雀5丁目が東側の飛地である狐窪)が元となっている(参考:三鷹市史)。
 
追記:国立国会図書館デジタルコレクションで東京府北多摩郡三鷹村土地宝典(帝国市町村地図刊行会, 1939年)が参照できるが、大字上連雀、大字下連雀の地図を見てもこのあたりに仙川の水路は描かれていない(武蔵野市との境から、人見街道の野川宿橋にある湧水まで水路は描かれていない)。
三鷹市史によれば、上下連雀は低湿地で浅い地下水から水が豊富に得られるため農地として開拓され、玉川上水から分水した品川上水(のちの三鷹用水)からも水を得ていたという。三鷹用水は下連雀東側の高台を通っており、そこから得られた水は大きな排水路を持っていなかったのではないかと想像される。
1961年
まずは同じく全国Q地図で東京都3千分の1地図(1961〜1962年)で同じエリアを見てみる。
地図中央付近にある禅林寺境内の東側に水路が見られ、禅林寺南側の都道134号恋ヶ窪新田三鷹線(連雀通り)を越えて都営下連雀七丁目第二アパートの方に水路が続いているのが見える。
三鷹市立三鷹図書館所蔵の住宅地図では1998年版までは、禅林寺北側の道路と連雀通りの間に水路が描かれていた。いずれにせよ、井之頭病院から禅林寺の間には水路が描かれていない。
三鷹市史には、1966年の三鷹市報365号記事として井之頭病院、禅林寺付近で豪雨により出水があり、その対策として市立第四中学校(井之頭病院南側)から禅林寺前(おそらくは連雀通り)までバイパス水路を作る予定があると書かれている。
 
追記:武蔵野市史によれば、昭和16年(1941年)7月の豪雨で小金井市本町4丁目付近の山王窪に集まった出水が現在の仙川上流部流路に沿って武蔵野市(当時は武蔵野町)内へ流れ込み、JR(当時は鉄道省)中央線を越えて三鷹市内へ流入、上連雀、下連雀から新川までが川幅4〜50間(約70〜90m)、深さ30尺(約9m)にも及んだという。三鷹市史には当時の出水の写真が掲載されている。当時の浸水域は三鷹市浸水ハザードマップに記載されているあたりになるだろう。
旧三鷹金属化工所
さて、ここで南側から水路の跡を見てみよう。KDDI多摩東ネットワークセンターの北側道路を東から見たところ。
写真左が南へ向かう仙川の開渠で、道路には仙川に架かる橋がそのまま残っている。写真右側には2024/3まで昭和13年(1938年)に開業した三鷹金属化工所の本社工場があったが、現在は解体工事が進んでいる。仙川は、その化工所跡の敷地内から流れてきているように見える。橋の右奥には、欄干の跡らしきでっぱりも残っていた。
ここからの写真は2024/11/3撮影。
突き当たり
三鷹金属化工所の裏(北)側、都営下連雀七丁目第二アパートへ回り込んで南方向を見たところ。
インターロッキング舗装にグレーチングが点々を置かれている水路敷が残っており、工場に突き当たって終わっている。1961〜1962年の地図では突き当たりで水路が左(東)に曲がって進み、工場敷地の真ん中で右(南)に曲がってさきほどの橋へ向かっているように見えるが、その辺りは工場後の敷地と一体化しているため工事中でよくわからない。
北側
振り返って北向きに水路敷を見る。写真奥では水路敷はアパートの駐車場として利用されている。
防災倉庫
駐車場の北側では水路敷は三鷹市の防災倉庫として使われており、さらにその先は自転車駐車場になっている。写真奥に見える連雀通りから三鷹金属化工所までは水路敷が残っていることが確認できた。
連雀通り
連雀通りに出て西側を見る。連雀通りは現在拡幅工事が進んでおり、道路脇(地図では道路北側)にあったかもしれない水路の跡は消滅している。写真左奥には禅林寺の入り口と、その奥に三鷹八幡大神社の木立が見える。
禅林寺
連雀通りを西へ進んで禅林寺の前から山門を見る。黄檗宗禅林寺は連雀新田に移住してきた神田連雀町の住民が築地西本願寺から僧侶を招いたが、元禄12年(1699年)の台風で建物が崩壊、翌年に本所石原から黄檗宗の賢洲元養禅師が移り再興したものという(参考:三鷹市史、禅林寺Webサイト
三鷹八幡大神社
禅林寺の西隣にあるのが三鷹八幡大神社。禅林寺同様に移住してきた住民によって寛文4年(1664年)に創建されている。
通路
戻って禅林寺敷地東側にある徒歩・自転車用の通路。地図上ではこの辺りに水路があったことになるが、整地されており痕跡は残っていない。
ここからの写真は2024/11/7撮影。
OSM
ここでOpenStreetMapから禅林寺付近の地図を見てみよう。
実はOpenStreetMapには禅林寺の北側道路を西から流れてくる水路が道路北側に描かれており、三鷹通りにもそこへ向かって流れる水路が描かれている。
この水路は、東京都建設局が公表している野川、仙川、入間川、谷沢川及び丸子川洪水浸水想定区域図の水路と一致しており、ここに失われた水路が暗渠として通っている可能性がありそうだ。
禅林寺北側
禅林寺北側の道路まで回って西向きに見たところ。OpenStreetMapで描かれている水路は点線のあたりに流れていることになっているが、道路そのものに取り立てて水路敷らしき特徴はない。
三鷹通り
三鷹通りまで出て、北向きに上流方向を見たところ。OpenStreetMapでは写真右側(東)の歩道ないしその右に水路があることになっているが、三鷹通りは拡幅されていると思われるので実際にどのあたりに水路があったのかはわからない。
暗渠?
三鷹通りを北上して第三小学校東入口交差点で左に曲がり、西側の仙川へ向かう路地。OpenStreetMapに水路は描かれていないが、東京都建設局の資料から位置関係を考えればここに水路か暗渠があってもおかしくはない。
この写真は2024/11/7撮影。
井之頭病院
そのまま西向きに進んで三鷹市立第三小学校前の道路に突き当たったところで右(北)よりを見ると、写真奥に井之頭病院が見えるがその手前には何やら大きな装置が見える。装置の西側は仙川の開渠になっている。
ここからの写真は2024/11/3撮影。
末端部
西側から仙川開渠の末端部分を見る。道路手前にある大きな装置は川に流れるゴミなどを取り除く除塵機というものらしい。
それにしても、除塵機に向こう側は普通に住宅が道路に面して立っており、現地に行ってもぶっつりと仙川が途切れているように見える。
OSMその2
ここで再びOpenStreetMap。実は三鷹市わがまちまっぷの下水道台帳図を見ると東京都建築局資料の水路ルートには雨水管があるものの、禅林寺北側道路では雨水管の流れが逆(東から西へ)になっていて禅林寺境内には雨水管がない。
一方、禅林寺北側の水路とは別に井之頭病院の除塵機から三鷹金属化工所南側に向かって、下水道台帳図にU形排水渠(雨水)と図示された暗渠が通っている。実際には、こちらのルートが現役の仙川(暗渠)ということになるのかもしれない。
暗渠
三鷹金属化工所跡まで戻って仙川の橋から西側を見ると、KDDIの前に暗渠と思われる歩道があって、そこから仙川へ水路が合流している様子が見て取れる。
ここからの写真は2024/11/7撮影。
歩道
暗渠の歩道でよく見かける車止めブロックが三鷹通りまで続いていた。
再び三鷹通り
三鷹通りに出て三鷹駅方向(北)を見る。緩やかに左へカーブしていく道路の下に仙川の暗渠が通っていると考えられる。
三鷹市八幡前
三鷹通りを北へ進むとすぐに先ほど来た三鷹八幡大神社のある三鷹市八幡前交差点に出る。下水道台帳図では、神社の脇にある歩道の下に暗渠がある。
ここからの写真は2024/11/9撮影。
上り
八幡大神社を過ぎたところで下水道台帳図の暗渠は西側の道路(ファミレスの北側)から斜めに出てくる形になる。三鷹通りに比べて写真奥(西側)が高くなっているのがわかる。
三小
西へ進んで次の交差点を右に曲がり北へ向かう。三鷹市立第三小学校の前を通って除塵機まで向かう道路は小学生の通学路になっているため、自動車の速度を抑制するために何箇所か道路にはみ出したポールが設置されている。
ここからの写真は2024/11/7撮影。
除塵機
小学校を通り過ぎ、除塵機の北側から振り返って暗渠が通る道路を南向きに見る。
除塵機の位置からは水路が道路に直角で交わっているように見えるが、地図では除塵機のところで南にカーブしており、そこから暗渠となって仙川が三鷹金属化工所跡まで流れているのだと思われる。
マンホール
除塵機の南側にあった古い東京都マークのマンホール。東京都下水道局の紋章ではなく、雨水管のマンホールということのようだ。
同じマークのマンホールは八幡大神社まで下水道台帳図の暗渠、すなわちU形排水渠(雨水)に沿って点々を存在しておりこの下を雨水の排水渠が暗渠となって流れているのでと思わせる。
この写真は2024/11/9撮影。
OSMその3
ところで、下水道台帳図の暗渠が最初に紹介した三鷹市報に記載があったバイパス水路の計画ルートと異なっているのが気になるところ。
下水道台帳図を見直すと、三鷹通りを通るルートとは別に、除塵機よりも上流側の三鷹市立第四中学校裏から南へ向かうU形排水渠(雨水)が描かれていた。おそらくはこれがバイパス水路なのだろう。
分岐
除塵機から仙川の開渠を上流へ進み、第四中学校の裏側にある上連雀第十二之橋上流側のたもとに、南へ向かう水路の分岐があった。
仙川の水面よりもだいぶ高いところに取り入れ口があり、仙川が増水した時だけこちらのバイパスに水を送り込むようになっているようだ。
ちなみに第四中学校脇を南に向かう道路にも東京都の雨水管マンホールがいくつかあった。
この写真は2024/11/3撮影。
上連雀寮
バイパス水路は南へ進んで東京消防庁三鷹寮・上連雀寮の敷地内を通り連雀通りに出る。写真は連雀通りから上流方向を見たところ。
ここから連雀通りを東へ進んで禅林寺の前で都営下連雀七丁目第二アパート脇の水路敷へ合流していたと考えられるが、下水道台帳図では三鷹通りの暗渠で左右にずれがあるので現在は三鷹通りの暗渠の方へ合流しているのかもしれない。
この写真は2024/11/9撮影。
マンホールカバーマップ
気になったので、二つの排水渠の上にあるマンホールカバーの位置をマッピングしてみた。
マンホールカバーには4つの種類があり、
  1. 東京都の紋章(明治22年東京市のマークとして決定、昭和18年に東京都の正式な紋章として告示)だけが入っている角枠のカバー
  2. 東京都の紋章が入っている丸枠のカバー
  3. 東京都の紋章と「雨水」の文字が入っている丸枠のカバー
  4. 東京都のシンボルマーク(平成元年制定。Tの字の図案で、イチョウではないそうだ)が入っている丸枠のカバー
となっている。おそらくは施工時期により異なるのだろうが、こうやってみると全体ではきれいに排水渠と位置が重なることがわかる。
雨水の文字が入っているものが連雀通りと三鷹通りにあるが、三鷹通りの方は三鷹市八幡前交差点から三鷹変電所北交差点まで昭和50年代半ばに整備された新道を通っている。もともとは禅林寺の前を通って連雀通りで旧開渠に合流していたものを、変電所の方に付け替えた可能性が高いように見える。
by Natrium