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仙川周辺の水路敷群(東宝スタジオ裏)
地図
OpenStreetMapで今回の探索ルートを見る。
仙川(せんかわ)は小金井市を上流端とし、世田谷区鎌田で野川に合流する一級河川。「せんかわ」と濁らないのが本来の呼び方だが、流路にある京王線の駅は「せんがわ」と濁る。元々は蛇行していた流路を改修しているため、川の両岸に旧流路や湧水からの流れが残っている。
今回は、砧七丁目にある耕雲寺近くの谷から出発して東宝スタジオの裏を流れる湧き水の流れと、打越橋の南で左岸側に分かれていたらしい流路の名残をたどる。
ちなみに、右側の水色に塗った部分は2004年に解体された特撮用大プールがあった場所で、ゴジラなど特撮で海上シーンなどの撮影に使われていた。今回たどる水路敷のある道路からも、壁越しにオープンホリゾント(空などの背景を描いていた壁)が見えていた。左は1961年まで使われていた旧大プール。
昭和41年
国土地理院Webサイトで昭和41年(1966年)の空中写真(国土地理院撮影)で見ると、旧大プールの跡もまだ写っている。
左岸
仙川の左岸側、石井戸橋から一の橋へ上っていく途中に唐突に現れる脇道が今回探索するルートが仙川に合流するポイント。
ここからの写真は2017/6/17撮影。
蓋暗渠
途中で断ち切られているように見えるが、いずれにせよ蓋暗渠であることがわかる。ここから上流に向かっていこう。
遊歩道風
遊歩道風に整備されているが、蓋暗渠。
上り
結構な角度で上っていく。
右カーブ
上りきったところで右にカーブ。
側溝跡
そのあとは、道路の脇に沿って蓋暗渠が続いている。いかにも側溝でしたという風情。
道路に蓋
橋ではなく蓋暗渠のまま道路をまたぐ。
大プール跡
写真左の垣根の向こうと、正面の建物あたりに大プールがあったはず。
崖
右(東)側から崖が迫って来た。
カーブ
微妙かカーブを描きながら蓋暗渠が続いていく。
崖へ
蓋暗渠が途切れたところで、水路敷は東の崖に向かっている。
この先行き止まり
人のあまり通っていなさそうな行き止まり道。
竹藪
竹藪の中に水が湧いていたのだろうか。
続き
道路まで戻って西側を見ると、撮影所と住宅地の境目に水路敷が続いているような隙間があった。
窪み
水路敷を追いかけるのが難しいので、一度仙川左岸に戻って、住宅展示場の駐車場をみたところ。駐車場の向こう、住宅の塀との間に窪みがあり、そこに水路があったようだ。
廃屋
仙川と水路敷が分かれるあたりには、草木に埋もれた廃屋があった。
くろがねや
おまけで、打越橋を渡って仙川の西側、ホームセンターくろがねやの脇に水路敷らしき隙間が残っている。ここから下流に向けて、くろがねやと東宝スタジオの西側に崖上の住宅との境に沿って水路敷が続いているようだが、アプローチする道がないため、くろがねやの駐車場側からでないと様子はわからない。
ちなみに、くろがやねになる前は東宝日曜大工センターというホームセンターで、元々はここも東宝撮影所の敷地の一部だった。ホームセンターになる前は東宝が経営するボウリング場になっていたので、現在でも店内にはアプローチ部分に使われていた一段高い構造が残っていたりする。
この写真は2018/2/24撮影。
裏側
アプローチする道がないと書いたが、南側に回り込んでいく道があった。途中で水路敷と出会うことができる。写真は上流方向をみたところで、竹藪になっている。
ここからの写真は2022/6/26撮影。※一部落書きを消す処理をしています。
並走
下流方向。道路と並走している部分はごくわずかだ。
下流
道路と別れ、下流はホームセンターの駐車場へ向かっていく。
飛地
ところで今回巡った仙川の旧流路だが、世田谷区烏山図書館所蔵の「世田谷の地名(上、下)」(世田谷区教育委員会、1989)によれば東宝スタジオのあたりは成城でも砧でもなく、北から仙川沿いに大きく食い込んだ千歳村大字上祖師谷と大字下祖師谷の飛地だったそうなのだ。
地図に描いたように仙川の西側旧流路と東側の水路敷の間が上祖師谷の飛地(字名を「祖師」とする資料と、後述の千歳村全圖のように「喜多見境」とする資料が存在する)で、その南側にある現在の東宝スタジオあたりは下祖師谷の飛地、さらにその東側は宇奈根と喜多見の飛地だった。
そもそも現在東宝スタジオの東側がある砧(きぬた)という地名は昭和30年(1955年)に新設されたもので旧大字名や旧字名ではなく、世田谷通りの北側にあった大蔵と鎌田の錯雑地に、喜多見や宇奈根、上下祖師谷の飛地を合併して出来たものだ。昭和11年(1936年)に祖師谷が属する千歳村と、成城などが属する砧村が世田谷区に吸収合併となったときに消えた村の名前を復活させた形になっている。
昭和45年(1970年)に砧町のうち仙川右岸側は改めて成城一、二、六丁目に編入されている。
 
なお、現在は橋の名前として残っている打越(うちこし)だが、同書によれば元は「オツコチ(落っこち)」だったといい、仙川の谷の落っこちたところを示した地名なのだそうだ。実際現在のサミットストア(地図の一番下)あたりで仙川の谷は終わりになっていて、そこから先は低地が広がっている。
 
2024/1/26追記:国会図書館所蔵の「帝都地形図:1922-47 第3集、第6集」(井口悦男/之潮、2005)および東京都中央図書館所蔵の「東京都北多摩郡千歳村全圖」(野口秀昌、1931)、「東京都北多摩郡砧村全圖」(加藤春雄/市町村全圖發行社、1932)を参考に地図の追記と微修正を行った。
 
2024/7/9修正:国会図書館所蔵の「東京市域拡張史:千歳村・砧村編入」(東京市監査局都市計画課編、1937)で大字喜多見の字石井土、字向野田が本体と繋がっていることが判明したため飛地の表記を削除した。
 
2025/2/12修正:大字下祖師谷の飛地字打越のうち北側の部分については、千歳村全圖と東京都公文書館所蔵の「雑種財産引継ノ件」(東京税務監督局、1935)で地番が確認できることから、現在の地籍図と照らし合わせて改めて位置の修正を行なった。位置としては帝都地形図の記載が最も近いが、下流側は水路跡に挟まれたやや尖った形であったと思われる。
空中写真
2025/1/31補足、2/12改稿:国会図書館所蔵の「世田谷 近・現代史別封付図」の「世田谷区内旧町村の大字・字界図」では、字打越の北側部分は現在の成城2丁目1,2番地に「下祖師谷飛地」として見えるが、この図は仙川の西側旧流路位置に間違いがある。西側の旧流路は東京都公文書館所蔵の「新しい住居表示の案内図 世田谷区成城一・二・三・四・五・六・七・八・九丁目 八幡山三丁目 昭和45年3月1日実施」にある旧砧町境界に沿った1,2番地西側の道路が正しい位置で、成城側と砧側の公図境界線もそこを通っている。千歳村全圖では飛地が砧村との境には接していないことからも成城2-1,2がその位置ではないと考えられる。
一方、「世田谷の地名」第564図では打越橋左岸側の道路突き当たり付近を字打越北側としているが、「帝都地形図」では「世田谷の地名」の対岸、打越橋右岸側に飛地があるとしている。
千歳村全圖との比較で考えれば、やはり帝都地形図のほうがやや正しい位置といえそうだ。  
候補その1
実際に現地に行ってみた。まずは「世田谷の地名」で字打越があったとされる打越橋東側の丁字路付近(写真奥の丁字路がそれ)。砧村と千歳村の境は道路よりも東側の宅地内にあり、写真に写っている範囲は千歳村ということになる。
道路左側の家並み、写真手前のあたりから丁字路を曲がった道の北側までが字打越とされている。
国土地理院Webサイトで昭和19年の空中写真(陸軍撮影)を見ると、丁字路の南側は農地、北側は木立があるようだ。
ここからの写真は2025/2/5撮影。
候補その2
丁字路を左折して打越橋を渡った西側。閉店したホームセンターの駐車場を挟んで東西に二つ川筋(点線部分)があるが、奥の点線から手前が千歳村、奥が砧村ということになる。
手前の川筋より打越橋寄りが「帝都地形図」で字打越とされている部分だが、東側(現在の打越橋付近を含む写真手前)半分程度は改修された仙川の流路になっている。打越橋は改修前は現在よりやや東寄りにあった。
前出の昭和19年空中写真では水路の間に家が立ち並んでいた様子が見える。
候補その3
最後に成城2丁目1,2番地(写真右)と3番地の間を通る道が仙川旧流路の一つで、西側(左)の方が土地が高く、道路が千歳村(右)と砧村(左)の境になっていた。写真右側の一帯が「世田谷 近・現代史」で字打越とされている部分。
このあたりは国土地理院Webサイトで昭和41年の空中写真(国土地理院撮影)を見るとまだ空き地だったのがわかる(それ以前は農地)。
by Natrium