上の写真の中央あたり、
昭和22年の空中写真と、ロールアップで昭和38年の空中写真。
現在、光が丘公園の北西部にひょろひょろと張り出している遊歩道部分(牛房口)だが、元々は大正14年(1925年)に設立された日本最初の私立林間学校「花岡学院」があった場所。昭和18年には神田区へ寄付され武蔵健児学園となり、昭和20年に閉鎖されたあとの姿が写真に写っている。
昭和24年には米軍に接収され、汚水処理場となっているのが写真からも分かる。
探索のスタートになる白子川への合流口は浩乃湯の敷地内にあって入れないため、少し下流へ向かった小源治橋から。
小源治橋は、その名の通り小源治さんが天保2年(1831年)かけた石橋が元になっているという。
ここからの写真は2012/12/16撮影。
このあたりの地名が「牛房(ごぼう)」。牛蒡でなくて牛房。ウシフサとかギュウボウでもない。苗字としては使われている字だそうだが、百済からの渡来人由来説などあって、由来ははっきりしないらしい。
北西側に大きく迂回して、川沿いの小道にたどり着くと現れる意外と大きな合流口。
河口は完全に閉塞しているように見える。
この支流、地元の人によれば川ではなく、上に書いた汚水処理場の処理水を流すための排水路だったという。花岡学院には湧水があったといい、地形としては光が丘公園の西側に深い谷があるのだが、川は流れていなかったようだ。
ここから、牛房口までは痕跡めいたものは残っていない。
丸型ポストが目印の光が丘公園牛房口。
東武東上線成増駅からバスで来ると「牛房」バス停がすぐそばにあるが、ここからは上り坂になっていることもあって光が丘公園に向かう人は少ないようだ。
水路はかつて写真右側の遊歩道脇を通っていたらしい。
ここからの写真は2012/12/15撮影。
遊歩道を上っていくと左側にある「とんぼ池」。汚水処理場が廃止され、公園として造成されてから作られたものだろう。
そして右側にある怪しげな空間。どうやら、このあたりを排水路が通っていたらしい。
右に目を転じると結構な高さの崖と階段があって、ここがかなり深い谷の底にあるのが分かる。
遊歩道が大きく左にカーブして上っていく場所から直進方向には、草むらにかくれて水路敷らしきものがある(写真ではよく分からない)。
その先には、旭町はんの木緑地がある(写真は上流側から)。
ここには湧水があったようだが、人工的に整備されていて自然の状態はよくわからない。
排水路は、写真右側にある科学技術振興事業団情報資料館の裏手を下ってきていたようだ。
上の写真では左側にある坂を上っていくと、光が丘公園あけぼの橋口の向かい側に出る。
あけぼの橋は、写真の左端に少しだけ写っている歩道橋の名前らしい。排水路は、もう少し右側(南側)で光が丘公園の周囲を巡る水路とつながっていたらしい。
おまけで、はんの木緑地からさらに谷筋を遡って行くと、谷頭の近くに稲荷神社の小祠があって、そのわきには練馬区登録有形民俗文化財「丸彫聖観音像立像廻国供養塔」がある。
享保13年(1728年)造立とされ、成増飛行場が出来る前は今の光が丘公園の敷地内にあったものらしい。
このあたりでもまだ谷は結構深く、大昔は結構な水量が流れる川があったのかもしれない。
2013/7/15に再訪。写真中央、赤い舗装部分の左側に稲荷神社があるが、見ての通りかなりの急傾斜を持ったV字谷になっているのがわかる。
上の写真手前、左側のマンションの前には、古くからこの場所にあると思われる庚申塔(青面金剛庚申像)があった。
反対側からV字谷を見る。まるで道路がそこからなくなっているように見えるほど角度がある坂になっている。
遊歩道の脇にはもう一か所、排水路の右岸側にV字谷がある。こちらも相当深い谷で、かつては水量のある水源があったであろうことが推測される。