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田柄用水:富士街道〜田無用水(分水口)
全国Q地図その1
全国Q地図で東京都3千分の1地図(1961〜1962年)を見る。
石神井一里塚で富士街道に合流した田柄用水は、そのまま富士街道沿いを西東京市まで遡っていく。
その途中、石神井台6丁目のロイヤルホストの向かいにある「けやき憩いの森」で、いったん富士街道から田柄用水が南にそれる形で痕跡をとどめている場所がある。
けやき憩いの森
ロイヤルホスト向かいにある並木の南側が「けやき憩いの森」。
写真中央に見える学童注意の標識の少し先に、田柄用水が道路南側に逸れる場所がある。
けやき憩いの森での写真は2012/9/8撮影。
用水跡
写真中央の微妙なくぼみが田柄用水の跡。
もともとはちゃんとした(といっても素掘りの)堀だったようだが、風雪にさらされて埋もれてしまっているようだ。
看板
憩いの森に置かれていた田柄用水跡を示す看板。練馬区登録史跡となっている。
下流
上流側から。
写真奥のフェンスがある場所で用水が直角に曲がっていて、写真は道路と並行になっている部分。
写真中央には、橋があったかもしれない場所に渡り板が敷かれている。
上流
下流側から。
こちらにも渡り板がある。用水跡は、写真奥で終わっており、サークルKの店舗にぶつかっている。
コンビニ裏
上流側から。
サークルKの店舗裏あたりを用水は通っていたと思われる。
ここからの写真は2012/10/13撮影。
合流部
下流側から。
サークルKマークのあたりで、田柄用水は道路と合流していたようだ。
この先は、西東京市の富士町交差点付近まで富士街道沿いを進む。
全国Q地図その2
続いて富士街道が西東京市に入り、新青梅街道と交差する富士町交差点付近を全国Q地図の東京都3千分の1地図(1963〜1964年)で見る。
地図には描画されていないが、富士町交差点付近だけ田柄用水が北側に迂回していた。
未舗装道路
富士町交差点の東側、セブンイレブンの向かい側にある未舗装の路地。
位置としてはこのあたりが用水跡らしいが、この路地は微妙に位置が合わない気もする。
路地を入っていくと突き当りは民家の敷地になっている。西向きに進む私道があっていかにも水路敷っぽいのだが、水路敷としては管理されていないようだ。
関道
富士町交差点は細い路地まで含めると七差路になっているが、もともとは富士街道と関道だけの交差点だったらしい。
地図では南東から北西へ向かって進んでいるのが写真の関道。水路敷は写真中央あたりにある。
隙間
上の写真では右側のガードレールがある歩道が終了する場所から東側に伸びる謎の隙間。
おそらくは水路敷の一部だったのだろう。
蓋暗渠
その隙間の反対側、関道から西へ向かって蓋暗渠が出現。地図との位置関係から見ても、田柄用水の跡だろう。
直角
蓋暗渠は、すぐに民家に突き当たって新青梅街道へ向かって南に折れ曲がる。
末端部
新青梅街道側から見る。
新青梅街道
田柄用水はこの先富士街道(KFC看板の向こう側)へ戻っていたはずだが、新青梅街道によって痕跡が消されており、場所は特定できない。
最上流部
国土地理院Webサイトから昭和31年空中写真(米軍撮影)で田柄用水の最上流部分を見る。
富士街道を分かれて、西東京市内を北上、いったん富士町交差点から北西に進んできた関道と合流したのち、南西に向かって田無駅北側で田無用水との分水口までつながっている。
合流点
写真中央の自動車がある場所が、田柄用水と富士街道の合流点にあたる。
この先、富士街道は一段と細くなり、西武柳沢駅の北側では東向き一方通行になってしまう。
このページ以降、北原第一公園までの写真はいずれも2012/8/25撮影。
北へ
合流部分を北に向けて眺める。
道路の右側が蓋暗渠になっており、ここが田柄用水の水路敷だ。
分岐
しばらく進むと道路と水路敷が分かれ、水路敷はそのまま北へ進む。
東伏見団地バス停
水路敷は新青梅街道に東伏見団地バス停付近で突き当たる。
西へ
ここで水路敷は西に向かって直角に曲がっている。
水路敷は、新青梅街道のわずか南側、家と家の間をまっすぐと蓋暗渠で進んでいく。
再び合流
少し進んだところで再び水路敷は北へ進路を変え、新青梅街道へ合流する。
西東京都市計画道路3・2・6号調布保谷線
合流ポイントは偶然なのかどうか、工事中の西東京都市計画道路3・2・6号調布保谷線と新青梅街道の交差点となる場所(保谷町二丁目バス停付近)にあたる。
工事区間では、いったん水路敷の痕跡はわからなくなる(写真左下から伸びるアスファルトの色違いの線がそれかもしれない)。
保谷中南交差点
バス停の先に保谷中南交差点があり、そこで水路敷が再び新青梅街道の北側に向かって現れる。
保谷中へ
新青梅街道の北側を、市立保谷中学校へ向けて蓋暗渠が進んでいく。
保谷中学校
保谷中学校の南側で蓋暗渠は道路を渡り、西に転進する。
本町小学校
保谷中学校のグラウンド脇をクランクカーブを挟んで進んでいくと、隣接する市立本町小学校の校門前に。
農地
さらに進むと、北側が開けた農地になっている場所に出る。
左側はかなり昔からあったであろう屋敷森。
蓋暗渠は写真左の壁沿いをまっすぐ西へ進んでいく。
屋敷森
田柄用水の南側にある屋敷森を見る。
左に少し見えているのが本町小学校。
突き当り
屋敷森脇を過ぎると、蓋暗渠はすぐに駐車場に突き当たって北へ曲がる。
歩いているうちに曇ってきてしまった。
側溝
かつては道路脇の側溝だったであろう蓋暗渠が続く。
付いては離れ
暗渠の道はいったん二車線道路と合流しかかるが、すぐ西側を分かれて進んでいく。
古い地図を見ると、左側の水路があるほうが旧道だったと思われる。
曲がり角
しばらくそのまま進むと、信号機のある交差点で再び二車線道路に近づくが、水路敷はそちらの道とは合流せずに、富士町交差点から北西に進んできた関道に沿っていくことになる。
晴れ間
関道の脇に、側溝だったであろう蓋暗渠が続く。
再び日差しがさしてきた。
都道233号
関道は、保谷駅から南西に進んでくる都道233号と交差する。
細道
交差点を超えると、北へ進む微妙な細道を発見。
一見水路敷に見えるが、進んだ先は一般の道路になるので、古いあぜ道なのかもしれない。
分かれ道
ちょっと進んだところで、蓋暗渠は関道と分かれ、西へ進む。
暗渠
かつては畑の間を流れる用水路だったのだろうが、現在は住宅地の間にある暗渠になっている。
青面金剛庚申像
ちょっと寄り道して、上の写真中央の道を北へ。関道と合流して少し北へ行くと、西東京市指定文化財第23号の「青面金剛庚申像」(しょうめんこんごうこうしんぞう)に出会う。
正徳4年(1714年)建立で、江戸時代の上保谷村の中心地であったこのあたりの字名から、「榎の木の庚申様」とも呼ばれているそうだ。
道教に言う三尸(さんし)という人間の体内に住む虫が、庚申の日に体を抜け出して天帝にその人の罪悪を告げて寿命を縮めるとされていたことから、三尸が抜け出さないように夜通し酒宴を催したのが庚申講だそうな。
かつて、腕は六臂(左右に3本ずつ)あったが、昭和20年(1945年)の空襲で3本を失ったと、脇にある説明に書かれていた。
再び側溝
さて、西へ進んだ暗渠はまたもや道路にぶつかると側溝らしき暗渠となって今度は南西へ。
南へ
少し進んだ所で、今度は南へ進路を変える。
地図
南に向かう場所にあった地図。
田柄用水はこのあたりでは保谷町(旧保谷市本町)の北側を流れているのがわかる。
保谷町二号水源
そこから少し南に進んだところ、道路と蓋暗渠の東側に、「保谷町二号水源」という東京都水道局の施設がある。
ここは現役の水道用水源となっているらしい。かつては、湧水として田柄用水にその水を流していたのかもしれない。
段差
水源からすこし進むと、道路よりも暗渠のほうが高い位置になっていく。
側溝としては不思議な光景だが、土手になっている上に蓋をつけたのかもしれない。東側(写真では左)のほうが土地が高くなっており、その縁の高い部分を水路が流れていたのだろうか。
夏祭り
その先にある「保谷なかよし公園」では、夏祭りの準備が進んでいた。
西浦北向地蔵尊
公園の南に、西東京市指定文化財第36号の「西浦北向地蔵尊」がある。ここで、水路敷は道路と別れ写真左のほうへ進む。
このお地蔵さんは、関道の庚申像から5年後の享保4年(1719年)建立。
中島飛行機簡易軌道跡?
西浦北向地蔵脇の蓋暗渠を進んでいくと、途中に蓋暗渠が途切れて石橋になっている部分(矢印)がある。雑誌「東京人」2021年9月号P37の内田宗治氏の記事によると、西武柳沢駅の南、千川上水沿いの現在ではNTT武蔵野研究開発センタになっている中島飛行機武蔵製作所から、ひばりヶ丘駅南の現在では住友重機械になっている中島航空金属田無製造所に向かって伸びていた簡易軌道の遺構だという。
※2021/10/19追記。写真は雑誌記事とは逆向きに撮影したもの。
西へ
裏路地となった水路敷はすぐに道路と再び合流したところで、西に進路を変える。
また別れ
少しだけ道路の南側を蓋暗渠で進んだのち、またもや道路と別れ南寄りへ。
裏道
大きな屋敷の北側を水路敷は進み、写真奥で南へ直角ターンとなる。
空き地
その後、水路敷は広い空地のある場所へ。写真左奥の街路灯がある位置で、今度は西へ直角ターン。
地図にない道
そこから先は、なぜか地図には書かれていない住宅の裏道。
北原第一公園
この写真は上流側から。
裏道は北原第一公園の北側で、道路に合流して南へ直角ターン。
で、実はこの日、ここでいったん水路敷を見失ってしまったのだった。
Google Mapではこの南側で水路敷が西へ直角ターンしているのがわかるので、後日再訪したい。
西へ
2012/10/27に再訪。
公園の南角で水路敷はまたも西へターン。道路北側の側溝跡として蓋暗渠が続く。
谷戸新道へ
まっすぐ進んだ水路敷は、都道112号(谷戸新道)に合流する交差点でいったん痕跡を失う。
実はこのときは気が付いていなかったが、水路敷は写真の丁字路を南にターンしているようだ。後日確認に行ってきたい。
地図その4
全国Q地図の東京都3千分の1地図(1961〜1962年)
西北には、白子川水系の水源のひとつともされている東京大学田無演習林がある。
この地図では、田柄用水は現在の都道112号(谷戸新道)とは合流せず、やや東側を総持寺の敷地へ向かって南下しているように見える。
昭和22年
国土地理院Webサイトから昭和22年(1947年)空中写真(米軍撮影)を見る。
丁字路を南へターンした水路敷はそのまま所沢街道まで南下し、都道4号(所沢街道)に沿って西へ向かっているようだ。
南へ
前のページで見逃していた丁字路を2012/11/23に再訪。
南を向くと道路の左側に蓋暗渠があるのがわかる。
細道
南へ進んでいくと、蓋暗渠の終わりにマンションと民家に挟まれた細道が出現。
細道はすぐに西向きにターンしている。
ひったくりご用心
ひったくりご用心の看板をみつつ西へ進む。
夜来るには向かなそうな場所だ。
合流点
マンションの南側を抜けて、水路敷は都道112号(谷戸新道)と合流し、北原町一丁目交差点に向かう。
歩行者専用
交差点から振り返る。右側の駐車場との間に結構な段差があるのがわかる。
北原町一丁目
北原町一丁目交差点。田柄用水は写真正面方向を流れていたはずだが、このあたりでは谷戸新道開通の影響か、まったく痕跡が見られない。
とりあえず写真正面に小さく見える白い柵のところへ行ってみよう。
スリバチ
白い柵から道路がやや下っているのがわかる。
下りきったあたりを田柄用水が流れていたのかも知れないが、痕跡は何もない。ただし、古い空中写真を見る限り、水路はむしろ柵のあたりにあった可能性が高い。
田無町三丁目
田無町三丁目交差点から北側を振り返る。
田柄用水は、写真正面の設計事務所の右で所沢街道にぶつかり、街道の北沿いを西北に進んでいたと思われる。
歩道
道路北側へ戻る。無駄に広くなっている歩道が水路敷だったのかもしれない。
写真正面のあたりに見える緑色の柵の向こうで、水路は南へターンすることになる。
真ん中
都道12号(武蔵境通り)を過ぎたところで、所沢街道の南側に蓋暗渠のある小道が現れる。
田柄用水も、出発点である田無用水の分水口まであと少しだ。
このあとの写真はいずれも2012/8/25撮影。
最初の交差点
西向き一方通行の路地を渡ると、いよいよ分水口まであと僅か。
起点へ
写真奥の突き当りが、田柄用水の出発点である田無用水の分水口だ。
分水口
分水口から田柄用水を見る。
ここが田柄用水の出発点、田柄用水は田無用水の北側流路(現在は「やすらぎのこみち」として遊歩道になっている)から別れているのだが、その田無用水も玉川上水を分水した新堀用水のさらに分水だという。
田無用水の開通は元禄9年(1696年)、田柄用水は遥かに下って明治4年(1871年)に開通したという。上保谷をはじめとする9カ村の願いで作られた田柄用水は、関道の庚申像から3本の腕をもぎ取った空襲によって上流部が破壊されるまで、周囲の農地を潤す水路として利用されていたのだ。
by Natrium