小石川の水路跡
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文京区(旧小石川区)内を流れる谷端川下流を小石川または礫川(れきせん)と呼んでいたが、いずれの名前も河原に小石や礫が多かったためという。
今回は、豊島区立上池袋図書館所蔵の「暗渠となってその姿を消した、豊島区最長の川 旧谷端川の橋の跡を探る」(豊島区立郷土資料館友の会、1999)を参考に文京区内の川筋を遡って行ってみる。なお、橋名も同書を参考とした。
JR中央線各停の上りホームから神田川を見たところ。神田川(江戸川)が外堀(飯田濠)に合流する船河原橋(現在の飯田橋北側)から下流、水道橋までの左岸側土手を江戸時代に岩瀬市兵衛の屋敷が西端にあったことから市兵衛河岸(いちべえがし)と呼んでおり、写真中央下に見える船着場になっているところの奥、都道405号外濠環状線(外堀通り)北側に仙台橋という小石川(谷端川)の出口があったという。
ここからの写真は2024/8/26撮影。
都道北側は東京ドームシティになっているが、東京ドームホテルの東側に川跡を模したかもしれない堀が南北に通っている。
ホテルの北側、東京ドームへ向かう通路はクリスタルアベニュー芝生広場が通っており、水路はそこかもしくはその左(西)側を流れていたようだ。
このあたりは江戸時代には水戸藩邸(当初は中屋敷で、明暦の大火以降は上屋敷)があり、その西側に広がっていた庭園が現在の小石川後楽園ということになる。
東側は明治時代以降陸軍東京砲兵工廠となり、昭和になって払い下げられて後楽園球場(昭和12年開場、昭和62年解体され翌年東京ドームが開場)や後楽園競輪場(昭和24年開設、昭和47年閉鎖)が作られ、昭和30年には後楽園ゆうえんち(平成15年に東京ドームシティアトラクションズに改称)がオープンした。
現在の東京ドームは写真左奥にあるが、人工台地の上にあるので写真には写っていない。
東京ドーム北側を通る都道434号牛込小石川線を渡ったところにはショッピングモールやサウナなどがあるLaQuaとなっていて、中庭(ラクーアガーデン)にはワンダードロップという水面にダイブするアトラクションがあるのだが、川筋とは東寄りに少しずれている気はする。
LaQuaの北側、文京区役所との間を通る東京メトロ丸の内線は後楽園の谷を高架で通り抜けているが、一部分だけ鉄橋になっているところがある。ちょうどこのあたりを水路が通っていたはずなので、橋の下は水路敷なのかもしれない。
文京区役所西側にある礫川公園も砲兵工廠跡地に造られた。写真奥が崖になっているのがわかる。このあたりに小石川は北から流れてきていた。
ここからの写真は2023/12/30撮影。
礫川公園北側にある富坂下交差点。写真奥になる北から小石川が流れてきていたというが道路拡張で水路跡はまったくわからない。東西に渡る都道254号春日通りには富坂橋という橋が架かっていたという。
上流に向かって進んでいくと、右岸側に浄土宗源覚寺がある。ここは「こんにゃく閻魔」として有名で、宝暦年間(1751〜1764年)に眼病を患った老婆が源覚寺の閻魔大王像に願掛けしたところ夢に閻魔大王が現れ、満貫成就の暁には私の目を一つ差し上げようといい、老婆の目が治った一方大王像の右目は割れて黄色く濁り盲目となったという言い伝えがある。老婆は感謝のしるしとして好物のこんにゃくを断ち、閻魔大王に備えたことから眼病にご利益のある「こんにゃく閻魔」と呼ばれているそうだ。
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小石川植物園までを見る。
小石川は植物園の南側をおおむね都道436号小石川西巣鴨線(千川通り)に沿って流れてきている。
こんにゃく閻魔の北側にある大亞堂書店は昭和7年(1932年)からここで営業しているという。建物は当時のものが空襲も免れそのまま残っている。
ここで本流から少し離れて礫川小学校から流れてくる支流を見ておこう。千川通りから西へ向かう六角坂の脇、善光寺坂との間に小さな谷があって水路敷が残っているが、入っていくことはできない。
北側の善光寺坂から回ってみる。坂の途中にある浄土宗善光寺は坂の上にある伝通院に葬られた徳川家康生母於大の方が手元に置いていた念持仏を安置するため慶長7年(1602年)に設けられた寺で、明治になり長野善光寺との由緒から改称したという。
写真は残していないが道路南側の墓地の向こうに水路敷が残っているのが確認できた。
善光寺の隣には浄土宗慈眼院と澤蔵司(たくぞうす)稲荷がある。澤蔵司は太田道灌が江戸城の前身である千代田城築城中に出土した十一面観音を祀ったもので、元和4年(1618年)に伝通院に顕現して仏法を学んだという伝承が残っている。
善光寺坂を上り切ったあたりで南側を見ると、南へ向かう道(行き止まり)が谷になっているのがわかる。水路敷は顔を出していないのだが、写真奥が谷頭でその奥に礫川小学校が見える。
道路北側には文京区指定天然記念物のムクノキが立っている。元は伝通院境内で澤蔵司稲荷の神木と伝わり、空襲で上部が焼けてしまったものの現在も生き残っている。
新年の準備も滞りない伝通院(傳通院)の山門。伝通院は徳川家康生母於大の方の法名で、慶長8年(1603年)にこの地に埋葬されたのち慶長13年(1608年)に伝通院が建立された。
伝通院脇に立つ処静院(しょじょういん)跡の石柱。ここで新撰組の前身である浪士隊が文久3年(1863年)に結成されという。処静院そのものは廃寺となっている。
伝通院前通りのひとつ東側にある礫川(れきせん)小学校の裏口から東向きに見たところ。わかりにくいが写真奥に谷があり、体育館の脇あたりに谷頭があるようだ。
さて、千川通りに戻って上流に向かおう。善光寺坂出口のすぐ北側にあるダイエー小石川店の前で千川通りは西寄りに曲がっていく。グレーチングがカーブしていくあたりに水路があったようにも見える。
柳町小学校入口交差点のあたりには千川橋があった。小石川は千川分水や大下水とも呼ばれており、板橋駅近辺で千川上水から分水していたらしい。
写真左奥の矢印のあたりに脇道があるのだが、小石川は一度千川通りを離れてそこで再び通りに合流していた。
脇道時代はなんということのない路地なのだが、そこから南に向かって人一人通るのが難しそうな細い隙間が伸びているのがものすごく気にはなるところ。
南側まで回ってみたが、水路敷というには微妙であった。
水路跡の路地の方はすぐに直角に曲がって千川通りの方へ向かう。曲がったところで上流方向を見たところ。
写真奥の通り手前あたりに掃除橋があったという。
千川通りに出る手前に西向きの脇道があるが、小石川の水路はこちらにあったという。
その脇道が千川通りに出るところにある八千代町児童遊園には、ちょっと目が怖いお姫様(?)が入口を守っていた。
小石川三丁目バス停の池袋寄りで再び千川通りへ戻って小石川植物園方向へ向かう。
植物園前交差点。写真手前(後楽園寄り)には久堅橋があった。写真奥のマンション群前を上るのが播磨坂で、環状3号線の一部として建設されたが西側は春日通りまでしか開通しておらずこちらもここまでで終わっている。
坂の名前は付近にあった松平播磨守の上屋敷に因むもので、桜並木として有名だ。小石川植物園は写真右側の方にある。
千川通り北側にある小石川消防署は大正2年(1913年)に現在の大塚出張所の場所に設置されたことに始まるそうだ。現在の庁舎入口にある門扉の門灯は旧庁舎の望楼を利用したものだという。
白山三丁目交差点の次の路地を右岸(西)側に見たところ。写真奥に崖があり階段で上る形になっており、結構な高低差がある。
その次の路地のところで小石川は左(西)の崖寄りに大回りしていた。写真は崖下の道に出て上流方向を見たところ。すぐ先で突き当たりになりいったん水路跡が失われている。
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小石川後楽園から東福寺あたりまでを見る。
いったん千川通り左(西)側を流れる小石川は、氷川橋から上流では千川通り右(東)側を流れている。
池袋方向へ進んで窪町東公園に出る。写真手前あたりに祇園橋があり、小石川は写真右の一方通行出口方向から流れてきていたらしいが、現在の道路とは一致しない。
祇園橋から千川通りをまたいで東へ行ったところにある小石川植物園の西側入口。年末だったのでお休み。
植物園の西側にある簸川(ひかわ)神社。第五代孝昭天皇3年の創建と伝わる大変古い神社(東京都神社庁は西暦で473年とする)で、もとは植物園内にあった古墳の上に鎮座していたという。現在の場所には元禄12年(1699年)に移転した。
氷川と書かず簸川とするのは、大正時代の神主が出雲国簸川郡(現在は出雲市など)に由緒があるとして改名したのだそうだ。
旧氷川橋の先、千川通りから右、北向きに分岐している道路が川筋の跡。マンションの敷地が微妙にくねっているあたりが気になる。
川跡の道路から右(北東)を見ると、大きな崖とその上に立つマンション群を見ることができる。
都道437号秋葉原雑司ヶ谷線(不忍通り)に出たところで振り返ってみると、「ねこまたはし」「大正七年三月成」と彫られた橋の親柱が残されていた。
「旧谷端川の橋の跡を探る」には猫狸橋(ねこまたばし)と記載されているこの橋は、猫貍橋、猫又橋、狸橋とも呼ばれるが、化け猫ではなく夜な夜な現れる狸の伝説に由来するという。
国会図書館デジタルコレクションから「江戸名所図会 十三」(斎藤長秋編、長谷川雪旦画、博文館、1893)に見る猫貍橋。
緩やかな小石川の流れにかかる木橋のたもとで野菜を洗っている様子はこのあたりが農村であったことを示しているようだ。同書では「昔大木の根木(ねっこ)の股を以って橋を架けた」ことを橋名の由来としている。
このあたりの小石川(千川)は昭和9年(1934年)に暗渠化されているため水路がどこにあったのかは地図や空中写真で正確にたどることが難しいが、猫貍橋上流側ではやや東寄りに蛇行していたらしい。蛇行跡には微妙なカーブを描いている道路が残っている。
このあたりの千川通りはプラタナス並木があることからプラタナス通りとも呼ばれているそうだが、そのひとつ東側を蛇行から戻ってきたくねくねと曲がる川跡の道が進んでいく。
川跡と砂利場坂が交差するところにある氷川下町児童遊園でいったん水路跡が途切れるが、川としてはそのまま公園の向こうから流れてきていたようだ。公園の向こう、大塚三業通りには一木橋があった。
砂利場坂という名前はこのあたりが護国寺造営のための砂利採取場所となったことから砂利場という地名(小名)があったことに由来するという。
一木橋跡あたりから大塚三業通りを上流方向へ見たところ。三業とは料亭、待合茶屋、芸者置屋のことを指し、多くの芸者を抱えた花街があったことに由来する。この大塚三業通りがそのまま小石川の流路跡になっている。
豊島区南大塚一丁目との区境(手前右側は文京区千石三丁目)には宮原橋があった。左右に通る道が宮坂で、いずれも近くに宮様(有栖川宮とも、北白川宮とも)が住んでいたことが由来という。
この先大塚駅方向については、ページを分けて見ていこうと思う。今回はここまで。