善福寺川周辺の水路敷群(松ノ木の支流)
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松ノ木と成田東の間には鎌倉街道の西側に沿って2本の支流が並行して流れているが、今回は東側の松ノ木にある支流をたどってみる。
まずは少し下流の大松橋を上流側から見たところ。善福寺川の大松橋下流では和田堀公園調整池の建設が進んでいる。和田堀公園は善福寺川に沿って右岸の堀ノ内一丁目から左岸の成田東二丁目まで大きく広がっているが、調整池は善福寺川が北に張り出した大宮一丁目近辺に作られる。
ここからの写真は2021/1/2撮影。
そこから西側を向いた方向に水路敷がある。古い地図では善福寺川の分流が流れていたようだ。
水路敷を道路側から見たところには、金太郎の車止めが残っている。かなり痛みが見られるが、ここが水路敷であることを証明している。ここから分流は道路に沿って南へ向かっていたようだが、痕跡はないので善福寺川に戻って上流へ進んでいこう。
左岸にある「わんぱく広場」には、別の分流の蓋暗渠が残っている部分がある。
いったん土に埋もれて見えなくなるが、公園の南側で蓋暗渠が復活。
道路に向かって直角に曲がっていく。蓋暗渠は道路にぶつかって終わっており、その先は和田堀公園第一競技場になっていてたどれなくなるが、上流は和田堀公園北側の道路に繋がっていたらしい。
さらに上流に進んでいったところにある和田堀池。和田堀と堀ノ内という地名は、堀ノ内二丁目から三丁目のあたりに鎌倉幕府の御家人であった和田義盛の居館があったという伝承によるものらしい。蛇行する善福寺川に張り出した台地は、城を置けば善福寺川が堀の役割を果たすので、そのような地名が残ったのかもしれない。
ここからの写真は2020/9/27撮影。
和田堀池から松ノ木の支流に向かって、小川が作られているが自然のものではないだろう。
和田堀公園北側の台地に、昭和29年(1954年)に発見された古墳時代の竪穴式住居跡があり、茅葺き屋根が復原されている。このあたりの松ノ木遺跡は約20,000年前の先土器時代から人が住んでいた痕跡があるそうだ。
和田堀公園北側の道路から、松ノ木遺跡の台地に沿って北向きに支流流れてくるので、そちらへ向かってみよう。
東側は台地なので、左右でだいぶ高低差がある。
ここからの写真は2021/1/3撮影。
歩行者や自転車の通行が多いのか、止まれ標識のほかに看板が設置されている。
次の路地は小さな車止めしかないが、車でこの細い道に曲がってくることはそもそも無理そうだ。
水路敷はいったん合流した道路の右(東)から流れてきていたようだ。
車が通れるような道路幅ではないが、車止めが設置されている。
どうやらバイクでの通行を防止するために車止めを設置しているようだ。水路敷はクネクネと上流に向かって北へ進んでいるが、写真左側に下流へ向かって西側の水路敷と合流する支流がある。こちらは、西側の支流から遡ってくるときに確認することにしよう。
水路敷西側の土地とは高低差があり、段差を階段で繋いでいる。
川筋らしくゆらゆらと左右に蛇行しながら、徐々に北向きに進路を戻していく。
保育園前の道路とも階段で繋がっていた。車が来ないので園児のよい遊び場になっているのか、あるいは段差が危ないからと遊ばないように言われているのかどちらだろうか。
黄緑色の車止めの手前、道路との段差には手書きで「キケン」と書かれていた。どちらかといえば、道路側から水路敷に転落する危険に気をつけたほうが良さそうだ。
さきほどはお願いだったが、ここではバイク走行禁止の看板になった。左右との高低差がなくなったところで、水路敷はいったん右に曲がっていく。
右に曲がったところで水路敷は道路と並走して交差点に至る。交差点の先に水路敷が続いている。交差する道路の方は都道427号瀬田貫井線で、大宮八幡前交差点から旧鎌倉街道を北上してきているのだが、写真にすぐ南(右)の交Y字路で旧鎌倉街道が東に分かれている。旧街道が普通に自動車が通行できる道路なのと比べると、都道は五日市街道の南側が車両通行止めになっているような細道なのが微妙な感じ。
水路敷は、旧鎌倉街道の西側にそって流れてきている。
道端に「石敢当」と掘られた小さな石碑が置かれていた。「いしがんどう」などと読むようで、中国由来の魔除けなのだという。沖縄ではよく見かけるそうだが、東京ではあまり見かけないのではないだろうか。
奥の車止めは電柱にくっつくようにして立っており、あまり車止めの役割は果たしていないように見える。
細道を抜けたところで車道に合流したあたりで、水路敷としてはたどれなくなる。古い地図ではこのあたりが上流端として描かれている。