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善福寺川周辺の水路敷群(神田川合流点〜済美公園)
地図
OpenStreetMapで善福寺川最下流部を見る。
善福寺川は東京メトロ丸の内線方南町支線の中野富士見町駅西側で南側から来る神田川と合流している。
今回は現在の合流点よりやや下流寄りにあった旧合流点から、左右両岸の旧流路を中心に見ていこう。
ちなみに地図左に見える済美公園付近には済美小学校など「済美(せいび)」を冠する施設などがあるが、もとは明治40年(1907年)に開校した日本済美学校に由来している。済美という名称は中国の古伝から取られたものという。昭和25年(1950年)に学校の敷地、設備などが杉並区に寄贈され、現在は杉並区立養護学校などになっている。
旧合流点
中野富士見町駅西側で神田川が南(写真左)に向かってカーブしていくところ。
現在の和田一丁目南部(和田堀町字堰山、西側は駒ヶ坂橋まで)で昭和6年(1931年)から和田堀町第一土地区画整理事業が始まる前は、善福寺川支流の水路が写真右側の道路が出てくるあたりで北(右)から神田川に合流していた。
(参考:特別区協議会所蔵「豊多摩郡和田堀町全図」小林又七, 1929)
合流地点の北側(写真右のマンションから北側のブロック)には、溜池に造られた和田堀養魚場があった。また、対岸(南)の中野区側には中野プールという遊泳場があり、昭和初期には繁盛していたらしい。
なお、地籍図では写真右寄りを奥に向かう道路の北側に水路敷が描かれているが区画整理後に付け替えられたものと思われ、国土地理院Webサイトで公開されている昭和12年(1937年)旧1万地形図(中野)にも掲載がある。
ここからの写真は2024/4/19撮影。
モニュメント
神田川左岸の護岸には鳥獣を模ったモニュメントが並んでいる。
神田川、善福寺川の流域は昭和初期に東側から順次蛇行の激しい流路の改修が行われており、このモニュメントも昭和の名残が感じられる。
大正水路
神田川右岸に沿って上流へ。すぐにまた西に分かれる道があるが、国土地理院Webサイトで公開されている大正5年(1916年)旧1万地形図「中野」を見るとその道を斜めに通って写真左側へ水路が流れていたのが描かれている。
大正期には養魚場がまだ地図に現れておらず、昭和初期に善福寺川支流の出口がここから下流側へ付け替えられたようだ。
(地形図では昭和7年版でもこちらの水路が描かれているが、おそらくは養魚場ができた頃に付け替えられたと思われる)
合流点
さらに神田川右岸を上流へ向かうと、西(右)から善福寺川が合流してくる。
神田川は古くはもう少し東寄りを流れており、合流点ももう少し東側にあった。
和田公園
善福寺川の方を上流へ進んで左岸側にある和田公園へ。善福寺川の旧本流は環状七号線と本郷通りの交差点やや北側から蛇行しながら和田公園あたりを通って駒が坂橋付近まで来て、現在の流路に合流していた。
駒ヶ根橋から西側、環状七号線あたりまでは和田堀町第一土地区画整理事業(昭和6年着工、昭和17年竣工)に続いて昭和16年(1941年)に和田堀第二土地区画整理事業(和田堀町以外にも参加区域がある)が組織されたが、折しも第二次世界大戦に突入したことから計画は一時中断し、戦後に再開して昭和35年(1960年)の完成となった。
「杉並の川と橋」(杉並区立郷土資料館, 2009)P69や杉並区立中央図書館所蔵の「組合誌 和田堀第二土地区画整理組合」(同, 1960)に掲載されている地図によれば、このあたりの善福寺川流域には両岸に多数の水路が農地の間を縫って引かれており、これを大幅に整理して善福寺川は駒が坂橋で東側の新流路と接続する形としたとされる。
したがって和田公園から西側ではほとんど水路の痕跡が残っておらず、善福寺川旧本流もどこを流れていたのかわからないくらい区画が改変されている。 ここからの写真は2025/10/8撮影。
朝日橋
すぐ上流の朝日橋から右岸側(南)を見たところ。
写真奥が崖地になっており、その手前を右(東)から流れてきた水路が橋のところに出てきていた。現在は道路になっている。
東へ
右に曲がって東へ向かう。道路左側は坂道と崖があり、善福寺川の一番南側に位置する支流だったようだ。水路は写真右奥に見える木立のある方南公園から来ていた。
方南公園
方南公園の南側には崖があり、水路はその手前を流れていたと思われる。
公園看板に半分隠れてしまっているが、写真奥には和田堀第二土地区画整理組合事業完成記念碑が置かれている。
公園の西側では水路は北寄りの現在善福寺川が流れているあたりを通っていた。
(参考:「杉並風土記 下巻(杉並郷土史叢書6)」森泰樹, 1989
堀ノ内二丁目
さて、ここからは環状七号線西側の水路跡を見ていこう。環七の西側では区画整理が行われていないため、現在の善福寺川両岸に水路跡が残っている。
まずは旧善福寺川本流が流れていた左岸(北)側から見ていこう。消防署の少し南側から東に向かって伸びている道路は、地籍図では水路敷として描かれている。写真手前の下流側の方が高くなっているが、環七に合わせるためにかなり嵩上げされているようだ。
細道
坂道を下ったところで南の善福寺川方向に細道を見つけた。地籍図では水路敷としては描かれていない。
合流
インターロッキング舗装の水路敷を上流へ進んでいくと、道路が南に曲がったところで東側(右)から別の水路敷が合流していた。
舗装
さらにインターロッキング舗装を進んでいくと、交差点で舗装がアスファルトに切り替わる。地籍図上の水路敷は写真奥のあたりまで続いているが、その先は道路と水路跡の位置がずれているのが国土地理院Webサイトの昭和22年空中写真(米軍撮影)でわかる。
そのまま南へ進んでいくと環七地下調整池の善福寺川取水施設敷地となり、水路跡は消失している。取水施設南側から上流では、旧流路はだいたい現在の善福寺川流路と同じ位置を流れていた。
崖下
さきほど右側から合流していた水路敷の方に行ってみよう。こちらは右(東)側の崖下を進む。この先しばらく進んでいくと定塚橋(じょうづかばし)公園脇の支流に突き当たってそこから分岐している。
出口
それでは定塚橋公園脇の水路跡を見ていこう。定塚橋と堀之内橋の間、左岸側に水路跡の出口がある。現在の善福寺川護岸はだいぶ嵩上げされているのがわかる。
ここからの写真は2022/8/21撮影。
公園脇の蓋暗渠
定塚橋公園の西側脇では蓋暗渠になっていた。
公園北側
公園北側で蓋暗渠からアスファルト舗装に切り替わる。写真奥で水路跡は左(西)から転進してくる。
車止めと分岐
堀之内橋から北に向かう道路との交差点には車止めがあったが、金太郎はいないようだ。
写真右側にある車止めはさきほどの崖下を通っていた水路敷との分岐点で、すぐに道路と分かれて東へ向かっている。
車止めと細道
西へ進んでいくと右(北)側に車止めのポールがある丁字路に出た。「和田堀町全図」では、ここで写真奥から来る水路と、右から来る水路が合流している。
右の水路跡はすぐに左(西)に曲がって本村橋方向へ。写真奥で本村橋から熊野神社に向かう道路に突き当たって終わっているが、古くは善福寺川から流れてきていたようだ。
「杉並の川と橋」によれば善福寺川との分岐点には水車があったという。
突き当たり
まっすぐ進む方はすぐに左(南)に曲がって南側の道路に突き当たる。
空間
突き当たりの少し上流側に善福寺川から分かれてくる水路敷が残っていた。
熊野神社
ここでちょっと寄り道。本村橋から北に向かうと堀ノ内熊野神社がある。入口の石鳥居は文化5年(1808年)奉納とされ、杉並区内でも最も古いものと言われているそうだ。写真左にある石造りの高札は昭和6年(1931年)東京府の銘がある。
ここからの写真は2025/10/10撮影。
本殿
崖上に鎮座する社殿。堀ノ内熊野神社は和田堀町の前身となった自治体の一つ堀ノ内村の鎮守で、文永4年(1267年)に紀州熊野三社を勧請したことに始まるという。
稲荷・第六天
神社入口脇にある稲荷神社と第六天神社の合殿社。明治42年(1909年)に村内から移築されたと伝わる。
環七西側
続いて環七から右岸の水路跡を済美公園に向かって遡っていく。環状七号線和田堀橋南から西側に伸びる水路跡の道路を見たところ
車止め
すぐ西側に善福寺川に向かう車止めのある水路敷らしき小道がある。
階段
さらにその西側、善福寺川河川敷から階段で下りていく水路敷がある。
北側
そこから振り返って善福寺川越しに左岸側を見ると、マンションの間にまっすぐ伸びる隙間がある。地籍図上ではここが図面の境目になっているだけなのだが、昭和22年の空中写真を見ると水路のようなものが見える。
ここから地籍図の境目を見ていくと写真奥で右(東)に曲がっており、環七を渡る位置には道路上に地籍としての水路敷が残っている。おそらくは古い水路の跡なのだろう。
山側
さて、階段のある水路敷と環七から来る水路跡が交差するところ。実際にはそのわずかに東側から南へ向かって行く水路敷がある。ここから善福寺川の南側を並走する水路跡を進んでいく。
崖下
水路敷はすぐに西へ転進し、杉並区立泉南中学校裏手の崖下を通る。泉南は地名ではなく、周辺の和泉と方南という地名を合体させたものだという。
ここからの写真は2022/9/3撮影。
擁壁
巨大な擁壁の下を進む。
合流
その先、古くは正面から水路が出てきていたようだが入って行くことはできない。宅地化で水路の跡はいったん失われているようだ。
定塚橋南
いったん善福寺川に戻って定塚(じょうづか)橋の南側から階段を下りる水路敷の方へ行ってみよう。
車止め
くねくねと曲がる水路敷を歩いて行くと、大量の車止めが並んだ交差点に出る。右奥に進んでいくのが水路敷の上流部分だ。
舗装路
遊歩道というほど整備されている様子はないが、アスファルト舗装されている水路敷を通り抜ける人はいるのだろう。
バラエティ
いろいろな種類の車止めがこれでもかと置かれている交差点に出た。さきほどの環七へ出る水路はここで左(南)へ分岐して崖下を回り込んでいたらしい。
排水管
道路を渡って上流へ。左の崖からはたくさんの排水管が水路敷に落ちている。
ひび割れ
その先、現在写真右側にはマンションが立っている(2022年当時は建設中)が、写真正面にあるヒビの入った擁壁が2025/9/30夜に崩落し上に立っていた家屋が右側のマンションまで雪崩れ込んだ。
2022/9/3の写真なので崩落のおよそ3年前ということになるが、この時点でも結構大きなヒビが擁壁に広がっていたことがわかる。
(2025/10/10時点でこの水路敷は立ち入り禁止となっている)
アパート
先へ進むと擁壁ではなくアパートの外壁が続いているが、各戸の入り口は崖上の方にあるようだ。
仮囲い
水路敷はマンション工事の仮囲いに阻まれて行き止まりになっていた。
エントランス
マンション完成後、エントランス前を通る水路敷。写真手前の下流方向は2025/10/10現在通行止めとなっている(今回は上流側から歩いてきて振り返って撮影)。
ここからの写真は2025/10/10撮影。
1961年
ところで、善福寺川の堀之内橋南詰にさきほどのマンション敷地から流れてくる支流があったことが 全国Q地図の東京都3千分の1地図(1961〜62年)で見てとれる。
池
堀之内橋南詰から水路跡あたりを見たところ。マンションとアパートの間あたりに水路があったようだが、土地境界以外に痕跡は残っていない。
入れない""
そこから善福寺川右岸を上流へ進んだところに南へ伸びる水路敷が残っていた。さきほどの東京都3千分の1地図には見えないが、位置からみて池からまっすぐ北に進んでいるようなので、こちらに付け替えられたのではないだろうか。
昭和22年
国土地理院Webサイトから昭和22年空中写真(米軍撮影)
このときすでに池の北に伸びる水路(もしくは畦道)があるように見える。
その西側に大きな支流が流れてきているのがわかるが、善福寺川との合流部分は工場敷地となっており現存しない。
行き止まり
工場南側に回ってみると、行き止まりの水路敷(地籍図では無番地)が残っていた。
ここからの写真は2022/9/3撮影。
水路敷と水路跡
振り返って上流側。水路敷は写真右奥のマンション脇を通って行くが、写真左側にあるマンション工事現場の仮囲い付近にもかつて別の水路があった。左の水路は写真左奥でマンション南側を通ってきた水路から分岐していたようだ。
車止め
上流へ向かうと世代が異なる車止めが並んでいる場所を通る。左右に通っている道路は左に見えるマンションの入口になっているが、右側はタクシー会社の敷地になっていて、そこを通り抜ける形になっている。
子供園
水路敷は写真奥にある堀ノ内子供園の裏口までは写真右奥(北)から流れてきていた。
病院
右に曲がって上流へ。水路敷はもともとは写真正面の病院敷地から手前に流れてきていたが、道路は左に曲がっており水路跡は失われている。
看板
ここでいったんマンション工事で封鎖されていた水路敷の上流側に行ってみよう。上流側の行き止まりから振り返って上流方向に少し歩くとタクシー会社敷地を通ってくるマンションの裏手に出る。
警告
ポールにくくりつけられた看板が気になったので通り過ぎて振り返ったところ。
ごみの不法投棄に関するものだった。行き止まりの裏道なのでごみを捨てる人がいたのだろう。
くねくね
水路敷はくねくねと上流へ向かって行く。
子供園西側
堀ノ内子供園の西側を通る。写真左(西)側の土地が高くなっているのがわかる。
だいしょうじ公園
子供園北側にある「だいしょうじ公園」に出た。善福寺川の本村橋から西に進んで大宮小学校の前を通って方南通りに出る坂道が大聖寺坂(だいしょうじざか)で、大宮小学校のあたりにあった大正寺の本尊が大聖不動明王であったからという説や、八幡太郎義家が奥州で大勝利した帰りに通った坂道ということで大勝坂と呼ばれていたというなどがあるそうだ。
(参考:「杉並の通称地名」杉並区教育委員会, 1992.3)
分岐点
だいしょうじ公園北側にさきほど進んできた子供園東側の水路敷との分岐点がある。右はすぐに病院に突き当たって道路だけさらに右に曲がっている。
フラワージャングル
水路の分岐点から山側を見たところ。手前の低地は「フラワージャングル」と名付けられ公園として利用されているようだが、その後背に見える崖には「堀ノ内一丁目地区急傾斜地崩壊危険区域」という物騒な看板が設置されている。
(ちなみに擁壁が崩落した場所も同じ堀ノ内一丁目の東寄りにあるが、そちらは指定外であった)
ここからの写真は2025/10/10撮影。
大聖寺橋
水路敷の方を上流へ。道路との交差点に車止めが並ぶ。「杉並の川と橋」のよればここに大聖寺橋があったという。
左右に通る道路を右に行くと本村橋、左に行くと大聖寺坂がある。
細道
道路を渡ってすぐ、広い水路敷の脇に細い水路敷が合流していた。出口の車止めポールには「この先通り抜けできません」と書いてあるが、写真奥に見える突き当たりまで水路敷は続いている。
水路の跡はそこでいったん途切れているのだが、北側から回って行くとすぐに復活する。
北側
北側から見たところ。行き止まりの水路敷(ここから北側は地籍図でも水路敷)になっている。
ここからの写真は2022/9/3撮影。
済美小学校
水路敷はすぐに道路に出て、済美小学校の東側を進んでいく。現在済美小学校の敷地があるあたりには「清明が池」という大きな池があった。
「杉並の川と橋」によれば、日本済美学校が開校された際に生徒の憩いの場として作られた人工の池だったという。
三叉路
小学校北側の三叉路を善福寺川方向(右)へ。
熊野橋
小学校東側を通る水路は熊野橋で善福寺川から別れていた。
左
さて、細い水路の出口まで戻って左から来る大きい方の水路敷(地籍図上も水路敷)へ。
右
すぐに右に曲がってくねりながら北へ進む。左(西)側の方が土地が高くなっているように見える。
小学校と済美山
水路敷は済美小学校にぶつかって左の道路に出る。写真正面に見える高台はみずほ銀行済美山運動場の跡地に造られた和田堀公園第二競技場で、地籍図では水路敷が高台の擁壁下からいきなり出てくる形で描かれているので古くは嵩上げされる前の高台側に食い込んでいたのだろう。
残水路敷
道路に出て左(下流方向)を見たところ。水色に塗った部分に地籍図で水路敷が残っているが、道路の両側につながっている部分はない。
古地図でもこの部分を流れる水路は確認できないが、おそらくは小学校につきあたっている西側の水路敷(古くは清明が池のあたりを流れていたらしい)とは別に、フラワージャングルの崖下から写真の道路左(東)側を流れてきて、済美公園方向に流れていた水路があったのではないだろうか。
この写真は2025/10/12撮影。
上り坂
振り返って小学校と公園の間を通る道路を北向きに見たところ。奥の方では上り坂になっており、水路は窪地になっている小学校敷地の方を流れていたようだ。
ここからの写真は2022/9/3撮影。
大宮中学校
坂道を上り、善福寺方向に曲がったところにある三叉路。写真左側の擁壁の上は大宮中学校で、全国Q地図の東京都3千分の1地図(1961〜1962年)を見ると道路右脇にある段差の下を水路が流れていたように描かれている。
小学校北側
三叉路の交差点から東側を見たところ。
地図上はこの道路にも水路があったようで、写真奥の三叉路で先ほど見てきた東寄りの水路と分かれていた。
写真中央奥に見える横断歩道のあたりに北側から古くは善福寺川から来た水路が出てきていたが、宅地化で痕跡は残っていない。
東西の水路敷に挟まれたこの水路は、清明が池が出来る前は済美小学校敷地を抜けて南側で現在の西側水路敷につながっていたようだ。
ポスト
ところで、前の写真で道路左側に見えていた郵便ポストのところから北に幅の広い水路敷が残っている。
空中写真などを見るとこちらが本来の西側水路だったようで、この一区画だけ道路化されずに残っているがフェンスに阻まれて入って行くとはできない。
段差
大宮中学校の擁壁脇の道を北に向かうと、水路敷に向かう階段が現れる。
分岐
階段の下を分岐して行く幅広い水路敷を見る。
崖下
崖下の水路敷を進んでいくと…
済美公園
善福寺川沿いに広がる済美公園に出た。水路敷は舗装道路を善福寺川に向かって行くが、それとは別に済美公園西側の崖下にも地籍図には水路敷が描かれている(公園南側には水路の痕跡はない)。
分岐点
善福寺川から水路敷が分かれるところまで来た。
親水公園
水路敷の入口から北を見たところ。写真奥に見える武蔵野橋との間は川辺まで下りられる親水公園になっている。
隙間
済美公園北側には、公園の周りを通っていた水路敷の善福寺川寄り入口付近だけがフェンスと塀に挟まれた空間として残っていた。
by Natrium