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南武線・分倍河原〜西府
地図
OpenStreetMapで分倍河原駅から西府駅までを見る。
西府駅手前には小学校踏切があったが、西府駅開業に伴い廃止された。小学校踏切の東側、現在新府中街道が通っているあたりに昭和6年(1931年)に開業した本宿(ほんしゅく)停留場があったが、国有化された昭和19年(1944年)に廃止されている。
高倉塚古墳
分倍河原駅から南武線の南側を西へ進んだところにある高倉塚古墳。
南武線の南側にある府中崖線の崖上には分倍河原駅から西府駅付近にかけて多数の古墳があり、高倉古墳群と呼ばれ現在残っていないものも含め高倉35号墳まで番号が付けられている(18号は御嶽塚古墳群の1号墳とされたため欠番)。
この古墳(高倉26号墳)は古墳時代後期のものとされ、6世紀前半とみられる土師器杯などが出土しているそうだ。
この写真は2026/4/21撮影。
一号橋
分倍河原駅西側の道路は一号橋(いちごうきょう)という陸橋で南武線の上を越えている。
ここからの写真は2026/2/14撮影。
神社前踏切
そこから西側に進んだところにある神社前踏切(踏切番号はNo.64)。
八雲神社
踏切北側の高台にあるのが天王宮八雲神社。
踏切のある分梅通りは中世には陣街道と呼ばれ鎌倉街道の上道(かみつみち)であった。神社の脇には元応元年(1319年)の石板碑があることから700年以上の歴史があるとされている。
石板碑
その石板碑は抱き込んでいた木が枯れ碑も風化が激しくなったため、現在は複製されたものが設置されている。
天王塚古墳
八雲神社の本殿裏(西側)には、天王塚古墳(高倉29号墳)がある。
首塚
「江戸名所圖会」で「分倍河原 陣街道」に描かれた首塚だとされる祠。
新田義貞が鎌倉幕府軍を破った分倍河原の戦いで討ち取られた武将の首を葬ったという伝承が残るが、ここも古墳であったとされ高倉27号墳と名付けられている。平らになってしまっていて古墳らしさは残っていない。
屋敷分浅間神社
八雲神社から分梅通りを北に進んだところにある屋敷分浅間(やしきぶんせんげん)神社。
屋敷分はこのあたりの古い村名で、明治13年(1880年)に府中駅(現在の府中市)に合併している。府中駅南側にある大國魂神社の神官が住む屋敷があったことがその名の由来という。
高倉20号墳
神社の西にある高倉20号墳は私道の奥にあって近づく方法がない。
光明院
一方、神社前踏切南側には鎌倉時代の開基と伝わる真言宗光明院があり、その前の坂道は光明院坂と呼ばれている。
ここからの写真は2026/2/14撮影。
旧踏切
全国Q地図の東京都3千分の1地図(1969〜1970年)を見ると、神社前踏切の西側にもう一つ踏切があったようだ。現在は線路で断ち切られ南北に行き止まりの路地がある。
本宿日枝神社
南武線南側を並走する道を西へ向かって行くと、道路南側に本宿日枝神社という小さな神社があった。
この付近に山王塚(高倉28号墳)と呼ばれる古墳があったそうだが、現在は残っていない。
美好町浅間神社
さらに進むと今度は道路北側に美好町浅間神社があった。
西府ガード
次の西府(にしふ)ガードはもとから架道橋だったようで踏切ではない。
本宿稲荷神社
西府ガードから北に行ったところにある本宿稲荷神社。
国立国会図書館デジタルコレクション所蔵の「府中市史史料集 第14集(府中市の寺社史料及び府中市史講演集)」(府中市史編纂委員会, 1967)によれば天正元年(1573年)に朝倉義景の一族がこの地に逃れて勧請したものだという。
この写真は2026/4/21撮影。
小学校踏切
府中第五小学校の前にある小学校踏切(No.65)は西側に西府駅が開業したことに伴い2009/3/14で廃止となっている。
写真右側には新府中街道がアンダーパスで通っているので、廃止に伴って大きな不便はなさそうだ。
ここからの写真は2026/2/14撮影。
本宿停留場跡
その新府中街道のアンダーパス付近に南武鉄道が国有化された昭和19年(1944年)に廃止された本宿停留場があった。
本宿というのは付近の地名で、鎌倉時代には宿場町だったといわれている。
西府駅
西府駅は2009年に開業した新しい駅だが、さきほどの本宿停留場跡からはわずか700mほどの距離にあり再設置されたと言えなくもない場所にある。
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