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南武線・平間〜武蔵小杉

OpenStreetMapで平間駅から武蔵小杉駅までを見る。
矢向駅北側から向河原駅前踏切の北側までは連続立体交差事業が計画されており、令和21年(2039年)の完成を目指しているそうだ。これにより9ヶ所の踏切が廃止されることになるが、この区間ではそのうち5ヶ所の現役踏切がある。
一方、品鶴線と連絡していた市ノ坪短絡線を含めると14ヶ所の踏切跡と思われる場所がある。
踏切位置の推定については川崎市立中原図書館所蔵の「川崎市明細地図 中原地区 昭和35年度版」、「中原区地区明細地図 昭和42年」(いずれも経済地図社)、東京時層地図、全国Q地図の「東京都3千分の1地図(1963〜1964年)」、および国土地理院Webサイトより下記を参考とした。
矢向駅北側から向河原駅前踏切の北側までは連続立体交差事業が計画されており、令和21年(2039年)の完成を目指しているそうだ。これにより9ヶ所の踏切が廃止されることになるが、この区間ではそのうち5ヶ所の現役踏切がある。
一方、品鶴線と連絡していた市ノ坪短絡線を含めると14ヶ所の踏切跡と思われる場所がある。
踏切位置の推定については川崎市立中原図書館所蔵の「川崎市明細地図 中原地区 昭和35年度版」、「中原区地区明細地図 昭和42年」(いずれも経済地図社)、東京時層地図、全国Q地図の「東京都3千分の1地図(1963〜1964年)」、および国土地理院Webサイトより下記を参考とした。

平間駅の北側、神奈川県道111号大田神奈川線(ガス橋通り)が渡る平間駅前踏切(踏切番号No.10)。
この写真は2025/12/5撮影。
この写真は2025/12/5撮影。

平間駅前踏切のすぐ西側、ガス橋通りから一本南に入った路地にある銚子塚。
国立国会図書館デジタルコレクション所蔵の「神奈川の伝説」(読売新聞社横浜支局, 1967)にある「銚子塚と赤穂浪士」という伝説によると、地元の豪農であった軽部五兵衛宅は赤穂浪士の密会場所として利用されており、浪士の一人富林助右衛門が屋敷内の家に住んでいたという。その家を建てた大工の喜右衛門が浪士(助右衛門?)から贈られた銚子(酒器)を庭に埋め、その上に社を建てたのが現在の銚子塚だという。
銚子塚という名前は前方後円墳に付けられていることが多いため、この塚も前方後円墳の跡ではないかとする説もあるが、発掘調査されていないため真相は不明という。
この写真は2025/12/11撮影。
国立国会図書館デジタルコレクション所蔵の「神奈川の伝説」(読売新聞社横浜支局, 1967)にある「銚子塚と赤穂浪士」という伝説によると、地元の豪農であった軽部五兵衛宅は赤穂浪士の密会場所として利用されており、浪士の一人富林助右衛門が屋敷内の家に住んでいたという。その家を建てた大工の喜右衛門が浪士(助右衛門?)から贈られた銚子(酒器)を庭に埋め、その上に社を建てたのが現在の銚子塚だという。
銚子塚という名前は前方後円墳に付けられていることが多いため、この塚も前方後円墳の跡ではないかとする説もあるが、発掘調査されていないため真相は不明という。
この写真は2025/12/11撮影。

平間駅前踏切から東側の道路を北へ向かう。区画整理された北谷町には西側を通る南武線方向に向かう行き止まりの道が4本あるのだが、一番北は水路橋を使った通路で、南側3本のうち少なくとも1ヶ所は踏切跡と思われる。
写真は一番南側の突き当たりで、空中写真や古地図を見ても踏切として描かれていない。空中写真では水路橋があったようにも見える。
ここからの写真は2025/12/5撮影。
写真は一番南側の突き当たりで、空中写真や古地図を見ても踏切として描かれていない。空中写真では水路橋があったようにも見える。
ここからの写真は2025/12/5撮影。

次はコンビニ脇の行き止まり。東京都3千分の1地図ではここが踏切として描かれているのだが、旧1万地形図や空中写真では踏切としては描かれておらず、西側に道路がないことから東京都地図の錯誤である可能性がある。

3番目はドラッグストア北側の行き止まり。昭和15年旧1万地形図ではここに踏切があるように描かれており、空中写真でも踏切に見えなくもない。

4番目は水路橋の水路を暗渠にして通路としたもののようだ。ここには踏切はなかった。

北谷町を出て中丸子へ。中丸子第一踏切(踏切番号No.11)は車両通行止めになっている。

踏切から向河原方向を見たところ。写真奥に隣の中丸子第二踏切が見えているのだが、その手前にかつて武蔵中丸子駅があった。
武蔵中丸子駅は南武鉄道が国有化されたあとの昭和20年(1945年)に空襲により川崎〜向河原間が普通となった際に休止され、そのまま廃止されてしまった。現在駅跡らしき遺構は残っていない。
武蔵中丸子駅は南武鉄道が国有化されたあとの昭和20年(1945年)に空襲により川崎〜向河原間が普通となった際に休止され、そのまま廃止されてしまった。現在駅跡らしき遺構は残っていない。

駅跡北側の中丸子第二踏切(踏切番号No.12)。

線路西側の道路を進んでいく。川崎市立橘高校正門の先、架線柱のあたりに昭和15年旧1万地形図では東にある中丸子神社(神明大神)からまっすぐ西に進んでくる道があって、踏切が描かれている。現在、線路の東西に道路はなく痕跡はまったく残っていない。

中丸子第三踏切(踏切番号No.13)は月形柵の脇に歩道が付いているが、遮断桿は歩道側から車道側にまとめて下りてくる形になっている。

ところで、これまた線路西側の道路から見るとまったく痕跡がないのだが、中丸子第三踏切の南側(平間寄り)に踏切跡と思われる場所がある。
写真は北側の踏切跡で、昭和22年の空中写真にははっきりと踏切として写っているが西側の道路は現在残っていないうえ、東側も民家になってしまっている。
写真は北側の踏切跡で、昭和22年の空中写真にははっきりと踏切として写っているが西側の道路は現在残っていないうえ、東側も民家になってしまっている。

中丸子第三踏切の北側、東から線路に向かう未舗装路の先にも踏切があったようだ。

そのすぐ北側で線路をくぐっているのは「新堀川開きょ架道橋」で踏切ではない。

架道橋をくぐって西側、向河原駅に向かって伸びる歩道と自転車用通路は、向河原駅から南へ向かって品鶴線まで伸びていた市ノ坪短絡線の跡地を利用したものだ。
市ノ坪短絡線は昭和4年(1929年)に品鶴線側に開業した市ノ坪貨物駅(昭和19年に新鶴見操車場へ統合)への連絡線として開通したが、昭和48年(1973年)に尻手短絡線開通(昭和62年廃止)に伴い廃止されている。
市ノ坪短絡線は昭和4年(1929年)に品鶴線側に開業した市ノ坪貨物駅(昭和19年に新鶴見操車場へ統合)への連絡線として開通したが、昭和48年(1973年)に尻手短絡線開通(昭和62年廃止)に伴い廃止されている。

ここからは市ノ坪短絡線を品鶴線まで見に行ってみよう。現在線路上に建っていた施設の撤去工事が行われているため、いったん迂回して架道橋南側から最初の踏切跡(写真奥の木立あたり)を見たところ。

踏切跡から南側の短絡線跡は緑道として整備されている。

中丸子第三踏切から西に進んだところにある二番目の踏切跡。さらに右側に進んでいくと、品鶴線の御幸踏切がある。

3番目の踏切跡は道路が南北に渡っている。

緑道は品鶴線にぶつかって行き止まりになっていた。

南武線本線に戻って東側から向河原駅南側の踏切跡(昭和7年旧1万地形図にある)を見たところ。西側の通路からはよくわからない(向河原駅ホーム南端付近にあたる)が、東側から見ると踏切跡らしい行き止まりになっているのがわかる。
この写真は2025/12/11撮影。
この写真は2025/12/11撮影。

向河原駅北側の向河原駅前踏切(踏切番号No.14)。
向河原は付近の通称で、住所としては川崎市中原区大字下沼部字玉川向(現在も住居表示は未実施)であり、元は対岸にあった下沼部村(のち調布村大字下沼部、現在の大田区田園調布)の飛地であった。大田区側から見て多摩川の向かい側なので、玉川向や向河原と呼ばれていたという。
明治45年(1912年)3月に荏原郡から神奈川県橘樹郡御幸村に編入(参考:国立公文書館デジタルアーカイブ所蔵「東京府神奈川県境界変更ニ関スル法律・御署名原本・明治四十五年・法律第五号」)されている。
ここからの写真は2025/11/24撮影。
向河原は付近の通称で、住所としては川崎市中原区大字下沼部字玉川向(現在も住居表示は未実施)であり、元は対岸にあった下沼部村(のち調布村大字下沼部、現在の大田区田園調布)の飛地であった。大田区側から見て多摩川の向かい側なので、玉川向や向河原と呼ばれていたという。
明治45年(1912年)3月に荏原郡から神奈川県橘樹郡御幸村に編入(参考:国立公文書館デジタルアーカイブ所蔵「東京府神奈川県境界変更ニ関スル法律・御署名原本・明治四十五年・法律第五号」)されている。
ここからの写真は2025/11/24撮影。

向河原駅は線路東側にだけ駅舎と改札がある。

ということになっているのだが、西側には実はNEC専用改札がある。向河原駅は昭和15年(1940年)から昭和19年までは日本電気前(現在もNECの日本語名称は日本電気)という駅名だった。
開いている時間が平日朝夕に限られているものの、一般客も利用できるそうだ(ただし券売機などはない)。
この写真は2025/12/5撮影。
開いている時間が平日朝夕に限られているものの、一般客も利用できるそうだ(ただし券売機などはない)。
この写真は2025/12/5撮影。

昭和7年旧1万地形図では、向河原駅前踏切の北側に4ヶ所踏切が描かれているのだが、西側にはNECの玉川事業所があって現在はいずれも踏切として残ってはいない。
最初と2番目の踏切跡は昭和7年旧1万地形図に記載があり、最初の踏切跡は道路が4方向から集まってくる場所にあった。
ここからの写真は2025/12/11撮影。
最初と2番目の踏切跡は昭和7年旧1万地形図に記載があり、最初の踏切跡は道路が4方向から集まってくる場所にあった。
ここからの写真は2025/12/11撮影。

そこからすぐ北側、下沼部公園の脇で線路に道路が突き当たる場所に2番目の踏切があった。

3番目の踏切跡は線路東側の道路が北向きに離れていく場所にあった。旧1万地形図だけでなく東京都3千分の1地図にも記載がある。
ここからの写真は2025/11/24撮影。
ここからの写真は2025/11/24撮影。

いったん南武沿線道路まで出て4番目の踏切跡へ。道路は西向きに曲がるが、線路を斜めに渡る形で踏切があった。ここは昭和35年の明細地図に踏切として描かれている。

品鶴線(横須賀線)と新幹線をくぐって西側へ。神奈川県道2号東京丸子横浜線の西側で武蔵小杉駅ホームに突き当たる幅の広い道も昭和42年の明細地図で踏切となっている。現在は少し西(右)に地下道があり、そちらを通る形になっている。

東横線高架の西側にある行き止まりは昭和22年の空中写真では踏切に見える。