Natrium.jp
南武線・宿河原〜登戸
地図
OpenStreetMapで宿河原駅から登戸駅までを見る。
今回は宿河原駅に多摩川の河原から砂利を運んでいた宿河原砂利線と、小田急線との間で電車の貸し借りなどを行なっていた登戸連絡線も合わせて見ていこう。
旧踏切
宿河原駅北側の留置線に停泊する電車が間近に眺められる側道だが、国土地理院Webサイトの昭和22年空中写真では正面の電柱あたりに踏切があったように見える。
この写真は2025/11/28撮影。
跨線橋
そこから振り返ってみると跨線橋が見えるが、宿河原砂利線はその左側に出てきて、左の道を多摩川の河原に向かっていた。
ここからの写真は2025/12/7撮影。
砂利線
跨線橋の下から北へ緩やかにカーブしていく砂利線跡の道路を見たところ。写真奥に見える高層マンションの左手前に中層マンションがあるが、そのエントランスあたりに砂利線の踏切があったと思われる。
カーブ
踏切跡をすぎて砂利線はどんどんカーブしていく。
沿線道路
写真奥に見える交差点が南武沿線道路だが、2番目の踏切はその手前にある右(東)から出てくる道のところにあったと思われる。昭和22年の空中写真では左(西)にも道が続いているが、現在はマンション敷地となっていて痕跡は残っていない。
公衆電話
南武沿線道路を渡り、写真左にある今どき珍しい公衆電話のあたりに3番目の踏切があったと思われる。
写真左側は宿河原四丁目会館が建っていて、その向こうは川崎市立稲田中学校の校庭になっていて、かつて西に向かっていた道の跡はない。
多摩沿線道路
カーブし切った砂利線跡は多摩川堤防と並走する多摩沿線道路に突き当たるが、ここにも踏切があったようだ。
堤防と高低差があるが、砂利線跡はやや上り坂になっておりかつては堤防を坂道で越えていたのではないかと推定される。
雑木林
堤防に上って多摩川上流方向を見る。砂利線は写真正面の木立あたりを通って手前のグラウンド中央付近に出てきていた。
昭和22年の空中写真では木立の手前あたりに踏切があるように見える。
グラウンド
振り返って下流側。河原には渋谷教育学園宿河原グラウンドが広がっているが、かつては砂利線のヤードが広がっていた。
このあたりには痕跡は残っていない。
通路
グラウンドの下流側に河原に出る通路があるが、車止めのあたりをヤードの先に伸びていた砂利線が通っていたと思われるので踏切跡と言えなくもない。
河原
通路を通って多摩川の河原に出てみた。たしかにここでならたくさん砂利が取れそうだ。
多摩川の砂利採取は江戸時代にははじまっていたが、大正時代半ばから昭和初期の大量採取によって川底が低くなって堤防決壊の危険性が増すなどの問題が起こり、昭和9年(1934年)に宿河原付近での砂利採取が禁止され宿河原砂利線も廃線となったようだ。
昭和22年の空中写真では河原に貨車が停まっているのが見えるが、これは地元企業が専用線として利用していたらしい。
全国Q地図の東京都3千分の1地図(1959〜1960年)でもすでに路盤だけが描かれており、国土地理院Webサイトの昭和30年空中写真(米軍撮影)でも線路は見えない。
なお、昭和11年に二子橋から下流、昭和39年に青梅市万年橋より下流が、昭和43年には多摩川全域で砂利採取が禁止されている。
(参考:土木学会第63回年次学術講演会「多摩地域における砂利採取と鉄道網の変遷に関する研究 -国鉄下河原線を対象として-」)
宿河原第二踏切
さて、南武線本線に戻って登戸方向へ進んでいく。砂利線より西側を南北に通る川崎市道子母口(しぼくち)宿河原線が渡る宿河原第二踏切(踏切番号No.31)。このあたりでは一番大きな踏切だが、それほど交通量が多いようには見えない。
船島川橋梁
南武線が二ヶ領用水宿河原線を渡る船島(ふねしま)川橋梁。鉄橋の下をくぐる歩道は高さが1.2mしかなく、大人は腰を屈めないと通れない。
この写真は2025/12/15撮影。
釣り堀
西側の踏切跡に向かう途中に大きな釣り堀(多摩川へら鮒センター)がある。この日は営業していないようだった。
ここからの写真は2025/12/7撮影。
宿河原小学校北側
船島川橋梁の西側、川崎市立宿河原小学校の北側に昭和22年の空中写真で踏切として見える場所がある。
船島踏切
そこから西へ進んで行ったところにある現役の船島踏切(踏切番号No.32)。昭和22年の空中写真では写真右寄りを斜めに渡っていたように見える。
舟島福地蔵
踏切を北に進んで突き当たりを右に曲がったところにある舟島福地蔵。こちらは「舟」の字になっている。
船島稲荷大明神
多摩川の河原までちょっと寄り道。河原には船島稲荷大明神がある。
船島という地名は土地が船のような形をしていたからと言われ、多摩川の氾濫で水害の多い地域だったとされる。村人が身分の高い殿様の馬の病気を治した礼として佐源太の名と巻物をもらったことにあやかって、佐源太が信仰していた船島稲荷に馬の藁履を奉納して願掛けをするようになったことから「沓かけ稲荷」の別名があるという。
境内には「稲荷社沓堂趾」という石碑もある。なお、佐源太の子孫は近くにまだ住んでいて、敷地内にも沓稲荷が祀られている。
(参考:国立国会図書館デジタルコレクション所蔵「府中街道:付・だいし道」白井緑郎, 1974)
ここからの写真は2025/12/15撮影。
宿河原堰
船島稲荷のすぐ上流側には二ヶ領用水宿河原線に水を取り込む二ヶ領宿河原堰がある。
二ヶ領用水は幕府代官の小泉次大夫(じだゆう)の指揮によって慶長16年(1611年)開削されたが、砂利採取による河床の低下などにより堰を設けないと十分な取水ができなくなり、昭和24年(1949年)にはコンクリート造の宿河原堰が完成した。
ところが、昭和49年(1974年)の台風16号により多摩川の推移が急激に上昇し、宿河原堰で堰き止められたことによって上流左岸の狛江市猪方(いのがた)で堤防が決壊、民家19棟が流出(人的被害はなし)するという多摩川水害(狛江水害)が発生することになった。
堰堤の一部を自衛隊と建設省が爆破し本流の水を下流に流して対処したというが、これを契機に可動堰への設計変更が行われ、平成11年(1999年)に現在の新しい宿河原堰が完成している。
(参考:「広報こまえ1397号」狛江市,2024、国土交通省関東地方整備局京浜河川事務所「二ヶ領宿河原堰」ほか)
登戸連絡線
船島踏切に戻って登戸駅方向を見たところ。ここから登戸駅までの間に踏切はないが、写真左奥に置かれた保線用車両のあたりから左(南)に向かって、かつては登戸連絡線が分岐していた。
登戸連絡線は南武線と小田急線(写真奥に高架が見える)をつないでいたもので、昭和11年(1936年)に仮設物として設置され戦前は砂利輸送や南武鉄道で車両が不足した際に小田急から電車を貸し出したりしていた。南武線が国営化されたあとの昭和22年(1949年)にも、国鉄側の輸送力不足を補うため小田急から1600形を貸し出し、国鉄から旧型国電を代わりに貸し出すというような対応も行われていたという。
昭和36年(1961年)に小田急線沿いに川崎市道を通すため線路が撤去され、書類上も昭和42年(1967年)に廃止されている。
(参考:「小田急 : 車両と駅の60年」吉川文夫, 1987)
ここからの写真は2025/12/7撮影。
連絡線踏切跡
連絡線は小田急の向ヶ丘遊園駅に向かって登戸駅前をかすめて進んで行き、都市計画道路3-5-8号登戸野川線と写真奥の空き地手前で交差していた。そこには踏切があったと思われる。
「川崎都市計画事業 登戸土地区画整理事業 設計図」を見ると、計画道路と交差する線路跡が土地の区画にはっきり残っているのが見て取れる。
再開発中
道路を渡った先の連絡線跡は駅前再開発地区の真ん中を斜めに通り抜けていたわけだが、すっかり整地されてしまっていて痕跡は見当たらない。
そのまま写真正面奥のビル右側に突っ込んでいく形になり、その先で小田急線に合流していた。
駅前
登戸駅のペデストリアンデッキから駅前の再開発地区を眺めたところ。3年ほど前までは低層の店舗などが建っていた場所がすっかり更地になっている。
登戸連絡線はちょうどこの写真の中央を左から右へ横切っていた。
この写真は2025/11/28撮影。
by Natrium