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南武線・矢川〜立川

OpenStreetMapで矢川(やがわ)駅から西国立駅までを見る。
矢川・立川間は連続立体交差化が計画されているため、完成すれば全ての踏切が廃止される。
矢川・立川間は連続立体交差化が計画されているため、完成すれば全ての踏切が廃止される。

橋上駅になっている矢川駅。駅舎と北口の階段は2011年に出来たばかりでまだ新しいが、南武線が高架化されれば解体されるのだろう。
ところで、矢川駅南側の住所は現在では矢川三丁目になっているのだが、この矢川という町名は三丁目しかなく、一丁目と二丁目は存在しない。
矢川三丁目は平成16年(2004年)に町界町名整理に伴って新しく設置された町名で、それまでの大字谷保字栗原の西端部分などから変更されたものだ。平成30年(2018年)には東側に拡張されている。
国立市の町名地番整理についてのページにある町名地番整理地形計画図によれば、今後矢川駅の周辺に矢川一丁目、二丁目、四丁目も設置される予定らしい。
ここからの写真は2026/2/15撮影。
ところで、矢川駅南側の住所は現在では矢川三丁目になっているのだが、この矢川という町名は三丁目しかなく、一丁目と二丁目は存在しない。
矢川三丁目は平成16年(2004年)に町界町名整理に伴って新しく設置された町名で、それまでの大字谷保字栗原の西端部分などから変更されたものだ。平成30年(2018年)には東側に拡張されている。
国立市の町名地番整理についてのページにある町名地番整理地形計画図によれば、今後矢川駅の周辺に矢川一丁目、二丁目、四丁目も設置される予定らしい。
ここからの写真は2026/2/15撮影。

踏切の方もなぜか矢川一号踏切がなく、矢川駅西側は矢川二号踏切(踏切番号No.82)となっている。
矢川駅東側に矢川踏切があるので、それが一号に該当すると言えなくもない。
矢川駅東側に矢川踏切があるので、それが一号に該当すると言えなくもない。

隣には矢川三号踏切(No.83)がある。

全国Q地図の東京都3千分の1地図(1963〜1964年)を見ると、矢川三号踏切の西側に2ヶ所現在はない踏切が描かれている。
一つ目は矢川三号踏切のすぐ隣、写真左から道路が線路にぶつかるあたりにあったようだ。
一つ目は矢川三号踏切のすぐ隣、写真左から道路が線路にぶつかるあたりにあったようだ。

二番目は南武線が北へカーブして行く途中。西側から畑の中を小径が線路に向かって行き、線路脇が盛り土になっている場所にあったと思われる。

南武線がカーブし切ったあたりにあるのが青柳踏切(No.84)。写真手前側は矢川上流部の谷になっている。
青柳は下谷保村の大字で、明治22年に谷保村に合併するまでは独立した村だった。現在も国立市青柳一丁目から三丁目のほかに町名地番整理未実施の大字青柳が残っている。
もとは本宿の南に青柳村があったが、多摩川の氾濫で中洲になってしまい、寛文11年(1671年)にここに住民が移ってきたことから名付けられた地名だという。
青柳は下谷保村の大字で、明治22年に谷保村に合併するまでは独立した村だった。現在も国立市青柳一丁目から三丁目のほかに町名地番整理未実施の大字青柳が残っている。
もとは本宿の南に青柳村があったが、多摩川の氾濫で中洲になってしまい、寛文11年(1671年)にここに住民が移ってきたことから名付けられた地名だという。

青柳踏切から西国立駅方向を見る。青柳踏切から立川方向は立川市となる。
1963〜1964年の地図には、写真奥に見える切り通しの手前にもう一つ踏切が描かれている。
1963〜1964年の地図には、写真奥に見える切り通しの手前にもう一つ踏切が描かれている。

青柳踏切から南に向かうと、矢川緑地保全地域がある。矢川上流部の湧水などがある緑地で、昭和52年(1977年)に東京都の「東京における自然の保護と回復に関する条例」に基づく保全地域に指定されている。

矢川はさらに上流方向があり、青柳通りの西側にある矢川辨財天も水源の一つだったのかもしれない。
この写真は2026/4/25撮影。
この写真は2026/4/25撮影。

南武線が崖の上へ上ったところにあるのが中学校前踏切(No.85)。
線路東側に立川市立立川第三中学校があるので、その前の踏切ということだろう。
ここからの写真は2026/2/15撮影。
線路東側に立川市立立川第三中学校があるので、その前の踏切ということだろう。
ここからの写真は2026/2/15撮影。

中学校踏切西側の足元には小猿らしきものが描かれた「とまれ」の注意書きがあるのだが、すっかり劣化してしまっている。

踏切脇の柵には1966年製の旧レールが使用されていた。

中学校踏切から西へ進んでいくと、緑川を渡る尺串(しゃくぐし)橋がある。
緑川は旧立川飛行場(昭和記念公園)に溜まった雨水を多摩川に流していた排水路で、現在は暗渠化されている。
下流方向は現在の青柳通りを流れていて、矢川辨財天の北側で矢川と立体交差していた。
緑川は旧立川飛行場(昭和記念公園)に溜まった雨水を多摩川に流していた排水路で、現在は暗渠化されている。
下流方向は現在の青柳通りを流れていて、矢川辨財天の北側で矢川と立体交差していた。

立川南通りが南武線を渡る向郷(むかいごう)踏切(No.86)。

向郷踏切から西へ向かって立川病院東交差点を南に行ったところにある錦四公園付近を中心に縄文時代の向郷遺跡が広がっていた。
この写真は2026/4/25撮影。
この写真は2026/4/25撮影。

南武線に戻って西国立駅前には上野原第一踏切(No.87)がある。
ここからの写真は2026/2/15撮影。
ここからの写真は2026/2/15撮影。

OpenStreetMapで西国立駅から立川駅までを見る。
この区間も連続立体交差化により踏切が廃止される予定となっている。
立川市の地名については以下を参考とした。
・国立国会図書館デジタルコレクション所蔵:「立川飛行場物語. 下」(三田鶴吉/けやき出版, 1987)
・多摩てばこネットの「街情報 立川の歴史」
この区間も連続立体交差化により踏切が廃止される予定となっている。
立川市の地名については以下を参考とした。
・国立国会図書館デジタルコレクション所蔵:「立川飛行場物語. 下」(三田鶴吉/けやき出版, 1987)
・多摩てばこネットの「街情報 立川の歴史」

西国立駅を挟んで北側に上野原第二踏切(No.88)がある。上野原は付近の通称地名だそうだ。

隣の羽衣踏切(No.89)から西国立駅方向を見たところ。
羽衣は昭和17年(1942年)の町名地番更生で名付けられた比較的新しい町名で、立川飛行場のイメージから取られたと言われている。
羽衣は昭和17年(1942年)の町名地番更生で名付けられた比較的新しい町名で、立川飛行場のイメージから取られたと言われている。

現時点では南武線最北となる錦町踏切(No.90)。
錦町も昭和17年の命名で、こちらは大正元年(1912年)に大正天皇が総監する陸軍特別大演習が行われた地域であることに由来するという。
当初は立川飛行場付近が羽衣町となる予定だったが、羽衣は落ちるので縁起が悪いと当時の軍部が反対したため曙町と場所が入れ替わったという逸話があるが、真偽の程は定かでないという。
錦町も昭和17年の命名で、こちらは大正元年(1912年)に大正天皇が総監する陸軍特別大演習が行われた地域であることに由来するという。
当初は立川飛行場付近が羽衣町となる予定だったが、羽衣は落ちるので縁起が悪いと当時の軍部が反対したため曙町と場所が入れ替わったという逸話があるが、真偽の程は定かでないという。

錦町踏切の南側には、昭和19年(1944年)の南武鉄道国有化時に廃止された東立川駅があった。

南武線が立川駅に向かって西へカーブしたところにある錦一北公園。
全国Q地図の東京都3千分の1地図(1963〜1964年)を見ると、公園の奥を東側に進んだところに南武線を渡って中央線の南側に出る踏切があった。
全国Q地図の東京都3千分の1地図(1963〜1964年)を見ると、公園の奥を東側に進んだところに南武線を渡って中央線の南側に出る踏切があった。

立川駅の東側には立川通りが中央線の下をくぐる立川立体があるが、昭和37年(1962年)までは少し立川駅寄りの錦中央通が南武線に突き当たるところにまっすぐ進む立川駅東踏切があった。
国立国会図書館デジタルコレクション所蔵の「立川市議会史. 記述編」(東京都立川市議会史編さん委員会, 1992)によれば、地元では立川の街を分断するとして反対運動も激しかったという。
国立国会図書館デジタルコレクション所蔵の「立川市議会史. 記述編」(東京都立川市議会史編さん委員会, 1992)によれば、地元では立川の街を分断するとして反対運動も激しかったという。

慢性的な渋滞に悩まされていた立川立体は平成13年(2001年)に片側二車線に拡幅されている。