代田連絡線跡
OpenStreetMapで京王電鉄井の頭線新代田駅と小田急電鉄小田原線世田谷代田駅の間を結んでいた
代田連絡線跡を見る。
代田連絡線は、戦災で車両のほとんどを失った当時の東京急行電鉄井の頭線に車両を搬入するために当時の代田二丁目駅と世田ヶ谷中原駅の間に急遽建設された路線で、昭和20年(1945年)の建設当初は人力で車両を移動させていたという(世田谷区の説明による)。
戦後に住民からの用地返還請求などもあり、昭和28年(1953年)には全線が撤去され現在は住宅地になっているため、線路の遺構は残っていない。
今回は踏切があったであろう場所を探してみることにする。
国土地理院Webサイトから
昭和23年の空中写真(米軍撮影)を見る。
この時点ではまだ連絡線が残っており、新車搬入などに使われていたらしい。なお、現在では新車は永福町西側の検車区跡から陸路で搬入されている。
新代田駅(旧代田二丁目駅)の東端から下北沢方向を見たところ。連絡線は下り線の右(南)側に向かって伸びていたはずだが、痕跡はまったく残っていない。
このページの写真はいずれも2024/5/25撮影。
新代田側から数えて最初の踏切は線路南側の道路を斜めに横切っていたと思われる。道路上に色を塗ったあたりを線路が通っていたのではないかと推定。
前の写真奥に見える交差点を右(南)に曲がったところを2番目の踏切が横切っていたと思われる。
前の写真奥の突き当たりを左(南)へ向かい、少し進んだところで東側の道路を見る。写真奥は北沢川支流の「だいだらぼっちの川」と呼ばれる谷があるが、その手前の斜面に3番目の踏切があったと推定される。
さらに南側にある路地に4番目の踏切があったと推定される。
南に向かう道路は途中で自動車が通過できない狭いクランクがあるのだが、さらにそこから南に向かって道路が左(東)に曲がったところに5番目の踏切があったと思われる。この辺りから連絡線は世田谷代田駅方向へ西寄りにカーブしていく。
世田谷代田側の谷に降りて右(西)へ曲がったところに6番目の踏切があったと思われる。しかし、写真の道路は谷間になっていて5番目の踏切との間に結構な高低差があるので、ここを人力で井の頭線に車両を持っていくとなると相当厳しいのではと感じる。このあたりでは線路が嵩上げされていたのかもしれない。
そこから西へ進んで二つ目の交差点を左(南)へ。坂道を上って行ったあたりに7番目の踏切があったと思われる。
8番目、最後の踏切は前の写真奥の突き当たりを右(西)に曲がったところで道路を斜めに渡っていたと想定される。
世田谷代田駅北側の遊歩道まで行って新代田方向を見たところ。遊歩道にはレールを模した模様が描かれており、代田連絡線は写真奥の住宅の方へ向かってカーブして行っていたと思われる。
世田谷代田駅西側のロータリーには、代田連絡線について書かれた周辺案内が設置されている。ただし、井の頭線が当時「帝都線」であったと書かれているのだが、旧帝都電鉄は昭和15年(1940年)に小田原急行鉄道(翌年小田急電鉄と改称)と合併して帝都線となったのち昭和17年(1942年)に東京横浜電鉄、京浜電気鉄道と合併して東京急行電鉄井の頭線となっているので、昭和20年の被災時には井の頭線と呼ばれていたはずなのだが。