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千駄ヶ谷橋~改正橋(旧軌道、地上線跡)
地図
OpenStreetMapで新宿駅から西参道付近までを見る。
元々京王線(京王電気軌道)はJRをまたいだ東側、伊勢丹のあたりにあった新宿追分駅を起点としていたが、天神橋変電所(地図の天神橋駅跡の南に現存)が空襲で被災、東急東横線の新宿延伸用地として確保されていた現在の新宿駅に起点を打つている。
その新宿駅から現在の文化学園大学のところまでは甲州街道上を路面電車として走っていたのだが、昭和38年(1963年)に千駄ヶ谷橋から地下に入る形に変更(初台駅と幡ヶ谷駅が新線に移設)され、翌昭和39年には初台駅まで地下化、昭和53年(1978年)に京王新線が開通した後の昭和58年(1983年)に初台~幡ヶ谷間が地下化されて現在に至る。
今回は昭和38年以降の玉川上水に沿って敷かれていた軌道跡をたどりながら廃踏切を探してみよう。
千駄ヶ谷橋
千駄ヶ谷橋から新宿駅方向。かつてはこの道路が玉川上水の流路であった。京王線は甲州街道上の路面区間から暗渠化された玉川上水流路の地下に移設された形になる。
このページの写真はいずれも2022/1/22撮影。
西側
千駄ヶ谷橋から西側、文化学園大学方向を見る。昭和38年の地下化では、ここから先は地上に出てきていたことになるが、ほどなく地下化されてしまっている部分にあたる。
昭和38年
国土地理院Webサイトの昭和38年空中写真(国土地理院撮影)でそのときの状態を見ることができる。
欄干
交番のから遊歩道を挟んで北側に橋名が書かれた欄干が残っている。
甲州街道
いったん甲州街道に出て、旧軌道が路面区間を離れるあたりを西向きに見る。
昭和22年
国土地理院Webサイトの昭和22年空中写真(米軍撮影)には戦後すぐの路面区間(写真下やや左)が写っている。
モニュメント
新宿文化クイントビルの前にある玉川上水のモニュメント。かつて、モニュメントのあたりを上水が通り、京王線の軌道はその南側を並走していた。
承応3年(1654年)に開削された玉川上水は、明治31年(1898年)に杉並区和泉町から淀橋浄水場(現在の都庁周辺)に向かう新水路(現在の水道道路)に付け替えられたため、こちらの流路は余水路として使われていたという。
勿来橋跡
文化学園大学前にある勿来(なこそ)橋跡の石碑。玉川上水を渡っていた勿来橋の南側にはかつて踏切があったはずだが、当時は踏切番号がついていたかどうかわからない。あえて仮につけるのであれば、ここが新宿1号踏切跡ということになる。
バス停
勿来橋脇にあるバス停は都営バスが「文化服飾学院前」、京王バスと小田急バスが「プレッソイン新宿前」となっているが、京王バスの宿30、宿40系統は2004/11/30に廃止されているため京王バスはここにはこない(新宿方向のバス停は現役)。
小田急バスは写真に2路線書かれているが、宿44は1日2本しか運行されていないレア路線、系統なしの「よみうりランド」行きに至っては季節運行ということで1年のうち6/1~30の間だけ、日曜・祝日によみうりランド行きが1日1本、上りで新宿に来たバスを車庫へ送り込む若林営業所行きが1日1本という年に8回しか来ない超絶激レア(笑)路線だったりする。
西へ
文化学園大学で京王線は甲州街道から南へ離れ、天神橋へ向かう。
天神橋
文化学園大学西側にあったのが天神橋。ここにも玉川上水の南側に踏切があったはずで、仮に新宿2号踏切跡ということにしておこう。
天満宮と箒銀杏
天神橋の名前のもととなったのは、橋の北側、甲州街道脇にある天満宮。といっても、立派な鳥居の奥にあるのは小さな祠だけだが江戸時代からここにあったといい、傍らには樹齢300年を超えるという箒銀杏(箒を逆さに立てたような形をしている)が戦災を逃れて残っている。
社用地
天神橋から西へ。玉川上水と京王線の跡地は代々木緑道として整備されているが、南側に微妙な空間がある。
看板
そこには京王電鉄の社用地を示す看板があった。
空中写真
国土地理院Webサイトの昭和22年空中写真(米軍撮影)では上水の南側に軌道があるが、ロールアップで表示する昭和38年空中写真(国土地理院撮影)では上水を埋め立てたあとに線路が移設されている。
天神橋駅跡と変電所
天神橋の西側を新宿駅方向に見たところ。写真右側に見える建物が現在の天神橋変電所で、その北側には昭和14年(1939年)まで天神橋駅があった。
諦聴寺
緑道を西へ進んでいくと、北側に諦聴寺(たいちょうじ)の裏口が公園に向かって置かれているのが目に入る。公園を挟んで南側には寺の墓地があり、昭和22年の空中写真では上水を渡る橋と、踏切らしきものが写っている。
正式な踏切ではなかったかもしれないが、廃踏切とは言えるだろう。
西参道
そこから西向き、代々木緑道の西端は都道431号との交差点。都道431号は甲州街道から明治神宮へ向かう西参道と呼ばれている道。昭和22年の空中写真では写真手前のあたりで軌道線が玉川上水の南側から北側に転進している。
ここを仮に新宿3号踏切としておく。
灯籠
交差点の南側には、西参道の両側に代々幡町の灯籠が建っている。明治神宮方向に見たところ。
明治22年(1889年)に旧代々木村と旧幡ヶ谷村が合併してできた代々幡村が大正4年(1915年)に町制施行したころのものだが、昭和7年(1932年)には所属する豊多摩郡が東京市に編入され、渋谷町、千駄ヶ谷町とともに渋谷区になったという。
西参道駅跡
西参道の西側では緑道は駐車場南側の通路になってしまっている。駐車場のあたりには、昭和20年(1945年)まで西参道駅があったという。
甲州街道の北側には新宿区による西新宿三丁目西地区第一種市街地再開発事業が計画されていて、京王新線に改めて西参道駅を設置する構想もあったというが、そもそも計画用地の買収も進んでいないらしく、ここに駅ができる可能性は低そうだ。
地図その2
OpenStreetMapで西参道から初台駅までの地図を見る。
水路敷
駐車場の西側は再び緑道になるが、通路の部分はそのまま水路敷として残されている。
境界標
水路敷南側には、玉川上水流域でよく見かける赤く塗られた水道用地の境界標があった。途中で折れたのを補修しているような気もするが…
三字橋
緑道西側には、おそらく橋だった時の欄干がそのまま残されている三字(みあざ)橋。旧代々木村の字新町、山谷、初台の境にあったことからという。
橋の北側(写真右)に京王線が通っており、踏切があった。仮に新宿4号踏切と名付けておこう。
山手通り
三字橋のすぐ西側には山手通りが走る。ここにも踏切があった。仮に新宿5号踏切としておこう。
通りの西側には2009年ごろまで伊藤橋の欄干が残っていたというが、山手通りの整備工事で撤去されてしまったそうだ。
柵
伊藤橋西側の初台緑道には、京王線が通っていたころの鉄道の柵がそのまま残されている。
伊藤小橋
伊藤橋の西側に位置する伊藤小橋。ここにも踏切があった。これを仮に新宿6号踏切としておく。
線路位置
ところで、三字橋、伊藤橋、伊藤小橋はいずれも緑道の南側に欄干が置かれているのだが(伊藤橋は置かれていた)、国土地理院Webサイトで昭和38年空中写真(国土地理院撮影)をみると線路は南側を走っており、欄干の位置を通っている。
京王線が初台まで地下化された昭和39年以降に欄干だけ元に戻したということなのだろうか。
排気口
伊藤小橋の西側、緑道に突き出た京王線の排気口を西側から見たところ。このあたりに初台駅の上りホームがあったというが、地下化前の初台駅は西側の道路を挟んだ反対側の下りホームの位置にあった。
改正橋
初台駅入口脇の道路には改正橋の欄干が残っているが、かなり新しく跡から作られたもののようだ。ここにも踏切があったはずで、仮に新宿7号踏切としておく。
写真左奥、改正橋の欄干脇に京王バスの初台駅バス停があるのだが、ここを通る渋61系統渋谷駅行きは、2019/2/17に運行終了したことになっているのだが、免許維持路線として土曜の朝だけ1便運行されているのだそうだ。他の路線は山手通りを経由しており、この路線を残しておく意味はそれほど大きくないのかもしれない。
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