世田谷代田1号~梅ヶ丘2号踏切
世田谷代田駅前から梅ヶ丘方向をみたところ。快晴の日にはここから富士山が見えるはずなのだが、雲がかかっていて見えなかった。
この写真は2024/5/25撮影。
振り返って世田谷代田駅を見る。線路だった部分にはだいだらぼっちの足跡を模した広場が作られている。
ここからの写真は2024/7/3撮影。
環七通りがアンダーパスで小田急線の下をくぐっていた脇にあった世田谷代田1号踏切の跡。
写真右側の道路橋はもともとあったもので、中央の代田富士見橋が下の小田急線が通っていた線路跡ということになる。
ここから先の踏切は高架化以前に廃止されていた踏切が2つ(番号のついていない踏切跡がさらに1つ)あり、梅ヶ丘駅手前の世田谷代田4号踏切だけが残っていた。
環七通りから代田八幡神社の北側を通る細い坂道を上ってきたところに世田谷代田2号踏切があったという。
しかし、国土地理院Webサイトで
昭和32年(1957年)空中写真(米軍撮影)。を見ると、世田谷代田2号踏切は線路に直交する形で渡っている。
世田谷代田2号踏切は線路北側の代田小学校へ向かう通学路になっていたことと、南側からは坂道を下っていく形になっていたため事故もあり、昭和40年代には廃止されたとされる。
線路南側にある代田八幡神社は天正19年(1591年)の勧請で、環七通りによって境内の東側を一部削られている。
写真の鳥居は天明5年(1785年)奉納で世田谷区指定有形文化財(建造物)に指定されている。変額が境内の方を向いているのは関東大震災で修理した際に逆向きにしてしまったのだとか。
この日は茅の輪神事が行われていた。
世田谷代田2号踏切から少し西側、代田小学校の前にある代田富士356(みごろ)広場は小田急小田原線の地下線上に造られており、公園西側からは高架へ向かう線路を眺めることができるが、あいにくこの日も雲が多く富士山は見えなかった。
国土地理院Webサイトで
昭和23年(1948年)空中写真(米軍撮影)を見ると、世田谷代田2号踏切と3号踏切の間にもうひとつ踏切がある。
前の写真奥のあたりに位置していたと思われるが、ここには地元の人が勝手に作ったいわゆる「勝手踏切」があったのだという。昭和32年の空中写真ではすでになくなっていることから、戦後早いうちに使われなくなったようだ。
世田谷代田3号踏切は世田谷代田駅と梅ヶ丘駅のちょうど中間付近にあったらしいが、現在はまったく痕跡が残っていない。おそらくは写真正面の住宅あたりに踏切へ向かう道路があったのだと思われる。
梅ヶ丘駅の東側で高架をくぐる北沢川緑道。丘とつくが梅ヶ丘駅のあるあたりは北沢川の谷になっていて、旧地名も北沢窪といったそうだ。
梅ヶ丘駅の手前で梅丘通りが高架下を通っているが、立体交差化に合わせて出来た新しい道路で踏切跡ではない。
そのすぐ西側に残る車両通行止めの道路が世田谷代田4号踏切の跡。
梅ヶ丘駅と南口の商店街は北沢川の蛇行跡と思われる低地に広がっており、世田谷代田や豪徳寺と比べると大きな商店街がある。
駅名は「梅ヶ丘」、地名としては「梅丘」(読みはいずれも「うめがおか」)となっているが、地名よりも駅名が先にあったそうだ。梅ヶ丘駅は小田急小田原線が昭和2年(1927年)には設置されておらず、未成線として終わった東京山手急行電鉄との接続駅とする予定で昭和9年(1934年)に遅れて開業している。
駅名の由来については諸説あるものの、新駅を作る際に「北沢窪」では格好が良くないので、地元の名士(元村長)である相原家の庭に梅の古木があり、家紋も梅であったことからそこから取ったとする説がある。
続いてOpenStreetMapで
梅ヶ丘駅〜豪徳寺駅間を見る。
豪徳寺駅は東急世田谷線と立体交差するため開業当初から高架(当時は築堤の上にあった)駅のため、この間の踏切は2ヶ所のみとなっていた。
梅ヶ丘1号踏切は駅西側の区役所西通りが線路を渡るところにあった。
梅ヶ丘2号踏切は梅ヶ丘駅と豪徳寺駅の中間付近にある。ここから西へ地形としては谷になっているところをかつては築堤で小田急小田原線が上っていた。