豪徳寺1号~4号踏切
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豪徳寺駅〜経堂駅間を見る。
開通当時から東急世田谷線との立体交差を行うため築堤上にあった豪徳寺駅だが、車両基地や工場のあった経堂駅に向けて地上に降りていたので連続立体化まで踏切は残っていた。
踏切跡を見にいく前に、駅名の由来となった曹洞宗豪徳寺へ行ってみよう。電車で行く場合はむしろ東急世田谷線の宮の坂駅の方が近い。写真は延宝5年(1677年)完成とされる豪徳寺仏殿。
豪徳寺は世田谷城主吉良政忠(奥州吉良氏、江戸時代は蒔田氏を名乗るが、赤穂事件で三河吉良氏が断絶したことから吉良氏へ復姓した)が文明12年(1480年)に伯母の菩提を弔うために建立した弘徳院を前身とし、江戸時代に世田谷を領有した彦根藩井伊家の菩提寺となり万治2年(1659年)2代藩主井伊直孝の法号にちなんで豪徳寺と改称したという。
ここからの写真は2024/7/22撮影。
豪徳寺といえば招福猫児(招き猫)で有名で、写真は招き猫を祀る招福殿。井伊直孝が鷹狩りの帰りに門前の猫に手招きされ寺に立ち寄ったところ雷雨をさけられた和尚との縁を得たことから、幸運に感謝した直孝は寺を取り立てたという。
豪徳寺の招き猫は縁を呼ぶ物で小判は持っていないのだそうだ。
宮の坂駅の西側にある世田谷八幡宮にも立ち寄っておこう。寛治5年(1091年)、後三年の役の帰途にあった源義家が当地で豪雨により足止めされた際に戦勝祈願のため豊前宇佐八幡宮から勧請したのが始まりという。7代世田谷城主吉良頼康により社殿が天文15年(1546年)に再興されたのが実際の創建という説もある。
境内には江戸郊外三大相撲と称された土俵がある。現在でも9月の秋季大祭で東京農業大学相撲部による奉納相撲が行われているそうだ。
宮の坂駅前には江ノ電601号車が保存されている。元は大正14年に玉電45号車として製造された車両で、平成2年(1990年)まで江ノ電で走っていた。
豪徳寺駅の西側には東急世田谷線の踏切がある。写真は高架下にある宮の坂2号踏切を経堂寄りから見たところ。
この写真は2024/7/3撮影。
経堂方向に進んで最初にある北向き一方通行のアンダーバスは地上時代にはなかったので踏切ではないと思われる。
ここからの写真は2024/7/18撮影。
その次の南向き一方通行のアンダーバスが豪徳寺1号踏切跡。
豪徳寺3号踏切跡よりも手前に、高架上にある経堂駅の留置線へ上っていく坂道がある。写真左には線路南側へ抜ける歩道があるが、そこは踏切跡ではない。
豪徳寺3号踏切跡は小田急ビルサービスなどの敷地入り口になっていて通ることはできない。
豪徳寺3号踏切の北側には浄土真宗本願寺派の伏見山成勝寺(じょうしょうじ)がある。保延5年(1139年)崇徳天皇が京都市左京区岡崎成勝寺町に開基したのが始まり。平安後期から室町時代にかけて京都洛外の白河地区(現在の左京区岡崎付近)にあった「勝」の字を持つ六勝寺のひとつといい、鎌倉時代に伏見へ移転、応仁の乱で廃寺となったのち浄土真宗へ改宗(それまでは真言宗)、元和7年(1620年)には江戸浜町へ移転して明暦の大火(振袖火事)で西本願寺別院(現在の築地本願寺)とともに築地へ、関東大震災後の昭和3年(1928年)に当地へ移転したという。
豪徳寺4号踏切は経堂駅東側にあった。写真手前の道路は都道423号渋谷経堂線となっている経堂本町通り商店街で、昭和49年(1974年)までは東京駅南口から都バス、東急バス共同運行の東84系統(旧103系統)が、昭和59年(1984年)までは東急バス渋22系統が写真左の農大通りから駅南側を通ってこの道へ入ってきていた。
西側の農大通りはバスが通るのにギリギリな幅で、バスの前を誘導員が「走って」先導していた。