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喜多見1号~9号踏切

OpenStreetMapで喜多見〜狛江間を見る。
古くから市街化されているこのあたりでは踏切の数も多いが、そのうち喜多見1号踏切と5号踏切は連続立体化が始まる前に廃止されていた。
古くから市街化されているこのあたりでは踏切の数も多いが、そのうち喜多見1号踏切と5号踏切は連続立体化が始まる前に廃止されていた。

まずは喜多見駅から。世田谷区の最西端に位置する喜多見駅だが、昭和11年(1936年)に砧村が世田谷区と合併する以前は砧村の大字(当時は成城も含んでいた)であり、明治22年(1889年)までは単独で喜多見村であった。
鎌倉幕府の御家人江戸氏(現在の皇居あたりに本拠地があった)の子孫が太田道灌に江戸城を明け渡して木田見(喜多見)へ移り、江戸時代には旗本喜多見氏となったという(系譜については諸説ある)。
徳川綱吉の寵愛を受けた喜多見重政は御用人となったのち貞享3年(1686年)2万石の喜多見藩を立てたが、元禄2年に改易され家臣の多くは帰農したとされる。
昭和になるまで無人の野原だった成城と違い、野川流域に広がる低地には古代集落の遺跡や古墳もあり狛江市東側も含め古くから人が住んでいたようだ。
このページの写真はすべて2025/6/1撮影。
鎌倉幕府の御家人江戸氏(現在の皇居あたりに本拠地があった)の子孫が太田道灌に江戸城を明け渡して木田見(喜多見)へ移り、江戸時代には旗本喜多見氏となったという(系譜については諸説ある)。
徳川綱吉の寵愛を受けた喜多見重政は御用人となったのち貞享3年(1686年)2万石の喜多見藩を立てたが、元禄2年に改易され家臣の多くは帰農したとされる。
昭和になるまで無人の野原だった成城と違い、野川流域に広がる低地には古代集落の遺跡や古墳もあり狛江市東側も含め古くから人が住んでいたようだ。
このページの写真はすべて2025/6/1撮影。

喜多見駅の下を通る道路にあった喜多見1号踏切は、連続立体化以前に喜多見駅ホーム延伸によって廃止されていた。
ここから西側は狛江市となる。
ここから西側は狛江市となる。

喜多見駅西側を斜めに渡る喜多見2号踏切跡。

現在の道路は高架の下を北西から南東へ斜めに抜けているが、全国Q地図の東京都3千分の1地図(1965〜1966年)などを見ると元はまっすぐ南北に走る旧道の方に踏切があったようだ。

写真は旧道の南側から見たところ。

喜多見3号踏切は線路の北側にあった住宅地に向かうためだけの踏切だった(踏切の先は行き止まりであった)ようだが、宅地化される以前から線路北側の農家へ向かう踏切になっていた。小田急線によって所有地が分断されたためなのだろう。
(参考:全国Q地図の東京都3千分の1地図(1959〜1960年))
現在は道路が高架で分断されており、アンダーパスはやや西側に作られている。
(参考:全国Q地図の東京都3千分の1地図(1959〜1960年))
現在は道路が高架で分断されており、アンダーパスはやや西側に作られている。

岩戸北通りが小田急線をくぐる喜多見4号踏切跡。

喜多見4号踏切の東側には、北西から南東へ抜ける道路の跡が地図に残っており、かつてはこちらの方が4号踏切だったのではないだろうか。
写真は旧道の北側から見たところ。
写真は旧道の北側から見たところ。

喜多見5号踏切は昭和40年代前半に廃止されているようで、全国Q地図の東京都3千分の1地図(1968年)には記載がない。
おそらくは「いちょう通り」北側手前にある路地の交差点あたりから矢印付近へ渡っていたのではないかと思われる。
おそらくは「いちょう通り」北側手前にある路地の交差点あたりから矢印付近へ渡っていたのではないかと思われる。

いちょう通りが小田急線くぐる喜多見6号踏切跡。
写真右側の窪地には、慶長16年(1611年)に用水奉行小泉次大夫により掘削された次大夫堀こと六郷用水が流れていた。
写真右側の窪地には、慶長16年(1611年)に用水奉行小泉次大夫により掘削された次大夫堀こと六郷用水が流れていた。

狛江通りが小田急線をくぐる喜多見7号踏切跡。

ところで、小田急線高架脇に作られた側道は「ふれあい側道」と名付けられている。

喜多見7号踏切のすぐ西側に喜多見8号踏切があった。狛江通りができる前はこちらがメインの道だったと思われる。

現在の狛江駅は現在よりも和泉多摩川よりにあり、駅コンコースのあたりに喜多見9号踏切が通っていた。

おまけで狛江駅そばの狛江弁財天池特別緑地保全地区にある「ひょうだん池」。
毎月第一日曜日に一般公開されており、この日はたまたま公開日だった。
毎月第一日曜日に一般公開されており、この日はたまたま公開日だった。