経堂1号~6号踏切
OpenStreetMapで
経堂駅〜千歳船橋駅間を見る。
連続立体交差化以前に経堂2号踏切と4号踏切は廃止されていたが、それ以外にも移設されたり廃止されていた踏切があったようだ。
全国Q地図から
東京都3千分の1地図(1961〜1962年)にはっきり描かれている経堂駅北側の構内踏切。1961年に廃止されているが、左側の経堂工場(現在の経堂コルティ)へ向かう線路を踏切で越えて改札へ向かう地下道に降りる必要があった。
経堂駅北側の現況。構内踏切跡は高架駅に飲み込まれてしまい見えなくなってしまっている。写真左奥のスターバックスあたりにあったらしい。
ここからの写真は2024/7/18撮影。
経堂コルティ西側、経堂1号踏切は写真突き当たりをまっすぐ抜けていたが、高架線をやや西側からくぐるように付け替えられている。
経堂は古くからある街で、道端には庚申塔や道標が結構残っている。旧経堂1号踏切南側には庚申塔と道標を兼ねた石塔が建っていた。
経堂2号踏切は高架化以前に廃止されている。現在は南側から見ると行き止まりの路地になっている。
そのすぐ西側に経堂4号踏切があったが、近すぎたのか高架化よりもかなり早く廃止されている。現在は南側に封鎖された行き止まりの道が残っている。
千歳郵便局北側に高架をくぐる道があるが、ここに踏切はなかった。
小田急小田原線が烏山川を渡る場所も踏切はなく、線路北側に石仏橋、南側に経堂橋が川を渡っていた。
天祖神社南交差点がかつての経堂5号踏切。ただし、この道は後からできたもので昭和30年代までは踏切がもう少し西側にあった。
旧経堂5号踏切はドラッグストアの駐車場あたりにあった。
経堂在家村の鎮守であった天祖神社は永正4年(1507年)の鎮座と地元に伝わっており、江戸時代までは伊勢宮と称していた。
烏山川支流の谷があったため、経堂6号踏切はだいぶ西へ進んだところにあった。しかし、この踏切は千歳船橋駅が新宿寄りに延長された後、いったん昭和40年代前半に西側に移設されている。ところが、平成4年の空中写真では千歳船橋駅がさらに新宿寄りに延長されたため再びこの位置に踏切が戻ってきており、高架化まではここに踏切があったようだ。
国土地理院Webサイトの空中写真で経堂6号踏切と千歳船橋駅東側の踏切位置の変遷を見てみよう。ほぼ同じ画角に調整した昭和22年(1947年)から平成4年(1992年)の空中写真で比較すると、最初にオレンジ色の2ヶ所だった踏切のうち千歳船橋寄りの踏切が東へ移動(ピンク色)し、続いて両方の踏切が閉鎖されて中間の位置(黄緑色)に移設、最後にそれが東側の元々踏切があった位置まで戻されている。
(参考)空中写真へのリンク:
昭和22年(米軍撮影)、
昭和32年(米軍撮影)、
昭和38年(国土地理院撮影)、
平成4年(国土地理院撮影)
線路南側から経堂6号踏切跡のすぐ西側にある行き止まりの道が昭和40、50年代には経堂6号踏切であったと思われる場所。
ここからの写真は2024/8/2撮影。
昭和30年代前半に踏切があった場所は現在高架下のスーパーマーケットになっている。経堂7号と呼ばれる以前に廃止された可能性が高そうだ。
昭和20年代の踏切は現在道路が通っているよりもやや西寄りに向かって斜めに線路を渡っていた。
最初にこの位置に踏切があり、南北には古くから道路があっておそらくは通行量も多かったのだろう。ホームの延伸で単純に廃止するわけにもいかず、踏切の位置が徐々に移動していったようだ。